宋初の3人の太常1

宋書は三国志などよりも要職の在官者や官歴を埋める作業に使える情報が充実しています。(元々は私撰だった三国志と国の歴史書編纂事業を引き継いで書かれた宋書では状況が違いますが)
その点で宋書は非常に良い史書ですね。

というわけで宋書を使った官職・官歴探し編です。

まずはの初期の太常について。
太常は九卿の筆頭格であり、三省の台頭により九卿の価値・権力の低下が進む中でも比較的良い地位を保っていました、

『宋書』巻五十二、褚叔度伝、褚秀之
恭帝即位,為祠部尚書、本州大中正。高祖受命,徙為太常。元嘉元年卒官,時年四十七。

褚秀之の列伝によると、「高祖受命」に続けて太常に就任したと書かれ、その次に元嘉元年(424年)に在官のまま亡くなったとあります。
「高祖受命」とは劉裕の高祖・武帝)の皇帝即位/の建国を指すため、褚秀之420年のの建国により(祠部尚書&大中正から)太常となったことが判ります。

褚秀之は名門「河南褚氏」の長男かつ東晋最後の皇帝で劉裕に禅譲した恭帝司馬徳文)の皇后の兄、つまり東晋の外戚という重要人物でした。
の最初の太常に相応しい格を備えているでしょう。


『宋書』巻五十五、臧燾伝
義熙十四年,除侍中。元熙元年,以脚疾去職。高祖受命,徵拜太常,雖外戚貴顯,而彌自沖約,茅屋蔬飡,不改其舊,所得奉祿,與親戚共之。永初三年,致仕,拜光祿大夫,加金章紫綬。

臧燾の列伝によると、臧燾は元熙元年(419年)に退職した後、「高祖受命」に続けて召し出されて太常を拝命したとあり、その次に外戚・貴顕の立場にありながら昔通りに質素な生活などを続け、永初三年(422年)に引退して(名誉職である)金紫光禄大夫を拝命したとあります。
「高祖受命」とは劉裕の皇帝即位/の建国を指すため、臧燾420年のの建国により(無官状態から)朝廷に召し出されて太常となったことが判ります。

臧燾劉裕の正妻だった臧氏では皇后扱い)の兄であり、武帝にとって外戚でした。また、臧燾は太常が担当する典礼などにも詳しく、その分野の実績もある人物です。
まさにの最初の太常として相応しい人物でしょう。


『宋書』巻六十四、鄭鮮之伝
十二年,高祖北伐,以為右長史。(中略)宋國初建,轉奉常。
佛佛虜陷關中,高祖復欲北討,行意甚盛。鮮之上表諫曰:「(略)」
高祖踐阼,遷太常,都官尚書。(中略)
永初二年,出為丹陽尹,復入為都官尚書,加散騎常侍。

鄭鮮之の列伝によると、「高祖踐阼」に続けて太常になったとあり、その次に都官尚書、永初二年(421年)に丹陽尹、その次に都官尚書+散騎常侍となったと書かれています。

「高祖踐阼」とは劉裕の皇帝即位/の建国を指すため、鄭鮮之420年のの建国により太常に移ったことが判ります。


さて、ここまで読んだ方ならお分かりでしょう。
宋書で「の最初の太常」と解釈できる人が3人もいます。

これは宋書がおかしいというよりも、史書でありがちな書き方に読み手が翻弄されているだけであり、宋書を広く読めば「妥当な結論」にたどり着けます。

続く!

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令和六年一月

一月の当ブログ記事のまとめです。
「建国龍祥編」と「補足編」がメイン。

1/1 「魏晋南北ブログ10年目」
新年の挨拶。

1/2 「一角羊ドラゴン馬と獅子虎ドラゴン」
に出現した「体の一部が龍の瑞獣」と蕭道成の話。

1/3 「陸雲士龍と陸雲公子龍」
陸雲(字は士龍)と陸雲公(字は子龍)の話。

1/4 「字は子龍」
「字は子龍」の人々。趙雲申屠蟠陸雲公

1/5 「陳登元龍と庾登之元龍」
陳登(字は元龍)と庾登之(字は元龍)の話。

1/6 「甲辰の年」
魏晋南北朝時代あたりの「甲辰の年」の一覧。

1/7 「周瑜、龍を生け捕りにする」
周瑜鄧龍を生け捕りにした話。

1/8 「譙の黄龍と魏の建国」
建国龍祥編1。の建国と譙に出現した黄龍について。

1/9 「赤水の黄龍と蜀漢の建国」
建国龍祥編2。蜀漢の建国と犍為武陽の赤水に出現した黄龍について。

1/10 「黄龍と呉の建国」
建国龍祥編3。の建国と2度の黄龍の出現について。

1/11 「赤水の黄龍と蜀漢の建国2」
建国龍祥編4。「赤水の黄龍」の瑞祥の時期について。

1/12 「黄龍と呉の建国2」
建国龍祥編5。229年の黄龍の出現場所は夏口という話。

1/13 「三国志の龍の人1」
三国志に登場する字に「龍」を使う人達まとめ。

1/14 「三国志の龍の人2」
三国志に登場する名前などに「龍」がある人達まとめ。

1/15 「黄龍・青龍・白龍と西晋の建国」
建国龍祥編6。西晋の建国前後の龍出現の瑞祥について。

1/16 「赤龍と後漢の建国」
建国龍祥編7。後漢の建国と光武帝の赤龍の夢について。

1/17 「青龍と南斉の建国」
建国龍祥編8。南斉の建国と2つの青龍の瑞祥について。

1/18 「赤龍と後漢の建国2」
建国龍祥編9。馮異劉秀の赤龍の夢の逸話に関する考察。

1/19 「黄龍と後漢の建国」
建国龍祥編10。後漢の建国と黄龍の出現について。1月のベスト記事(自薦)。
辰年なので龍の瑞祥シリーズでした。その中でもこれは正史には無い、興味深い情報ですね。

1/20 「蒼梧の鳳凰と士燮の死」
蒼梧人の士燮が死んだ年に鳳凰が蒼梧に出現した話。

1/21 「鳳凰と呉の建国」
229年の鳳凰の出現場所は武昌という話。

1/22 「青龍と南斉の建国2」
補足編1。蕭道成の青龍の夢と南斉の建国について。

1/23 「龍の夢と龍の子」
補足編2。蕭賾南斉武帝)の幼名の由来について。

1/24 「尾なし龍の夢」
補足編3。孫休が見た「尾が無い龍」の夢について。

1/25 「頭なし龍の夢」
補足編4。劉子勛が見た「頭が無い龍」の夢について。

1/26 「龍の頭の夢」
補足編5。孫亮の母が見た「龍の頭を受け取る」夢について。

1/27 「武昌の鳳闕・虎頭山・鳳凰台」
武昌城の近くにあった鳳闕・虎頭山・鳳凰台の話。

1/28 「令和五年十二月」
昨年十二月の記事のまとめ。

1/29 「晋の楚の問題」
東郡南郡編1。西晋の楚内史の任地とその惨状について。

1/30 「杜預と南郡の不始末?」
東郡南郡編2。杜預の江陵虐殺事件と南郡の問題について。

1/31 「東晋の南郡公主の出現」
東郡南郡編3。東晋南郡公主の話とその画期的な側面について。

タグ:紹介

桓温vs夷の付く地名2

読史方輿紀要には「咸安元年改曰平蠻郡」とあり、典拠は不明ですが咸安元年に平蛮郡への改称があったとする記録があったようです。
読史方輿紀要には「太和中,桓溫以父嫌名,改曰西道。尋復舊。」ともあります。夷道→西道への改称は太和年間。

そしてこの2つは同時期の可能性があります。
咸安元年は西暦では371年が該当しますが、この年は元々は太和年間で「咸安」はその年(太和六年)の11月に桓温が皇帝廃立を行って簡文帝が即位した際に改元して始まったものです。
つまり、371年の大部分は「太和」であり、年末数ヶ月だけ「咸安元年」でした。

仕事上、差支えのある地名や人名が避諱のため改称することはありますが、当時の桓温の直轄地でもない地域の地名を改称するのは普通の権臣でも異例な措置です。

そのような特異な措置は、君主か君主になる直前の権臣ぐらいでしか起きないでしょう。

桓温による皇帝廃立は帝位を得る手前の段階ともみなされる出来事でした。また「咸安」中に父の桓彝の追贈官が引き上げられています。
371年に桓温の権力の高まりの中で、避諱による各地の地名改称が一斉に行われたのかもしれませんね。

タグ:東晋

桓温vs夷の付く地名

桓温の父(桓彝)の避諱のために夷道は西道に改称されました。
また、夷陵も西陵に改称されていたようです。

「夷」の文字(音が彝と同じ)の付く地名は他にもありますが、それらも改称されていたのでしょうか。

結論から言うと、他にもありました。

『宋書』巻三十八、州郡志四、寧州、平蛮
平蠻太守,晉懷帝永嘉五年,寧州刺史王遜分䍧牱、朱提、建寧立平夷郡,後避桓溫諱改。領縣二。戶二百四十五。去京都水一萬三千。
平蠻令,漢舊縣,屬䍧牱。故名平夷。

寧州には「平夷県」があり、東晋はそこに「平夷郡」を置きましたが、後に桓温の避諱のために「平夷郡」が「平蛮郡」となり、「平夷県」も「平蛮県」に改称されました。
これらは夷道・夷陵と違い、元に戻されずその後の南朝でも平夷郡・平蛮県のままでした。

この改称は、蛮と夷は類義なので置き換えたと思われます。

同じパターンは夷水という河川にも適用され、

『水経注』巻二十八、沔水
又南過宜城縣東,夷水出自房陵,東流注之。
<夷水,蠻水也。桓溫父名夷,改曰蠻水。>

蛮水と呼ばれるようになりました。
(ちなみに夷道の近くにある長江の南の夷水ではなく、長江の北で沔水に合流する夷水の方です)


『宋書』巻三十七、州郡志三、湘州、邵陵
扶縣令,漢舊縣,至晉曰夫夷。漢屬零陵,晉屬邵陵。案今云扶者,疑是避桓溫諱去「夷」,「夫」不可為縣名,故為「扶」云。

東晋では(荊州の)邵陵郡にあった「夫夷県」は南朝では「扶県」という名前でしたが、これは桓温の避諱のため「夷」を削除し、「夫」だけでは県の名前にできないとして「扶」に改称されたものと考えられています。夫夷→夫→扶

こちらは「夷」を消したパターン。宋書が書かれた頃に明確な記録が残っていなかったようですが、状況的に妥当であり、後世では避諱による「夷」を改称した事例の一つにカウントされています。

『歴代諱字譜』には「夷:桓溫父為彝,夷字避嫌。改平夷郡、平夷縣皆為平蠻,夷道縣為西道,夫夷縣為扶縣,夷水為蠻水。」とありますね。

タグ:東晋 地理

夷陵と西陵2

「夷道と西道」桓温が父(桓彝)の避諱のため宜都郡の夷道を西道に変えた話を紹介しましたが、宜都郡にある夷陵県はどうなったのでしょうか?

「夷道から西道への改称」に言及している水経注でも読史方輿紀要でも桓温による「夷陵から西陵への改称」について書いておらず、晋書・宋書などにも無いため実施されていなかったと考える人はいるかもしれません。


しかし、どうやら夷陵県も改称され、西陵県となっていたようです。
宜都記(宜都山川記)の現存している記述は全て「西陵」と書かれているようです。

『芸文類聚』巻六、地部、峽
袁山松『宜都記』
西陵泝江西北行三十里,入峽口,其山行周迴隱映,如絕復通,高山重嶂,非日中夜半,不見日月也。

『芸文類聚』巻七、山部上、総載山
袁山松『宜都記』
西陵東北陸行百二十里,有方山,其嶺四方,素崖如壁,天清朗時,有黃影似人像,山上有神祠場,特生一竹,茂好,其摽垂場中,場中有塵埃,則風起動此竹,拂去如洒掃者。

『太平御覧』巻六十、地部二十五、江
袁山松『宜都記』
西陵南岸有山,其峰孤秀,人自山南上至頂,俯臨大江如縈帶,視舟船如鳧雁。

この宜都記を書いた袁山松は390年代前半頃に宜都太守であり(「桓玄と袁山松、嘯について論じる」)、401年に亡くなっています。
よって宜都記が書かれたのは390年代頃で、その時点で西陵という呼称が使われていたことが判ります。

おそらく桓温の生前に夷道→西道の改称と同時に夷陵→西陵の改称があったのでしょう。
そして「夷陵→西陵の改称」はの前例を再利用したもので、「夷道→西道の改称」はそのコンセプトを流用したと思われます。


また、南朝では夷陵県なので、夷道県と共に桓玄滅亡後に元に戻ったのでしょう。

タグ:東晋 地理

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