そこへ宇文部の重鎮が攻め込んできますが、慕容翰が大破しました。『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、建元元年
春,二月,高句麗王釗遣其弟稱臣入朝於燕,貢珍異以千數。燕王皝乃其父尸,猶留其母為質。
宇文逸豆歸遣其相莫淺渾將兵擊燕;諸將爭欲擊之,燕王皝不許。莫淺渾以為皝畏之,酣飲縱獵,不復設備。皝使慕容翰出擊之,莫淺渾大敗,僅以身免,盡俘其眾。
翌344年、燕王慕容皝は宇文部征伐を敢行。先鋒は慕容翰、その副官に劉佩。また弟の慕容軍・息子の慕容恪・折衝将軍の慕輿根らに軍勢を分け、三道から進軍させました。(慕容霸は先鋒に合流)『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、建元二年
(正月)燕王皝與左司馬高詡謀伐宇文逸豆歸,(中略)於是皝自將伐逸豆歸。以慕容翰為前鋒將軍,劉佩副之;分命慕容軍、慕容恪、慕容霸及折衝將軍慕輿根將兵,三道並進。(中略)
逸豆歸遣南羅大涉夜干將精兵逆戰,(中略)翰自出衝陳,涉夜干出應之;慕容霸從傍邀擊,遂斬涉夜干。宇文士卒見涉夜干死,不戰而潰;燕軍乘勝逐之,遂克其都城。逸豆歸走死漠北,宇文氏由是散亡。皝悉收其畜產、資貨,徙其部衆五千餘落於昌黎,闢地千餘里。更命涉夜干所居城曰威德城,使弟彪戍之而還。高詡、劉佩皆中流矢卒。
(中略)或告翰稱病而私習騎乘,疑欲為變。燕王皝雖藉翰勇略,然中心終忌之,乃賜翰死。
迎撃に出た宇文部の南羅大の宇文涉夜干を慕容翰・慕容霸が討ち取ると、宇文部は潰走し、前燕軍はその本拠地を制圧。君主の宇文逸豆帰は漠北まで逃れた末に死亡し、宇文部は滅亡して前燕に吸収されました。
なお、この戦いで高詡・劉佩が戦死し、また負傷した慕容翰も疑われて賜死となりました。(高詡は有能な軍師タイプ、劉佩は勇敢な将で共に漢人)
東の高句麗を下し、北の宇文部を滅亡させたことで前燕の後背はほぼ万全でした。
346年には駄目押しとばかりに、百済に押されて前燕の近くに移ってきた夫餘国に前燕は襲いかかります。『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、永和二年
(正月)初,夫餘居于鹿山,為百濟所侵,部落衰散,西徙近燕,而不設備。燕王皝遣世子儁帥慕容軍、慕容恪、慕輿根三將軍、萬七千騎襲夫餘。儁居中指授,軍事皆以任恪,遂拔夫餘,虜其王玄及部落五萬餘口而還。皝以玄為鎮軍將軍,妻以女。
そして燕王慕容皝の太子の慕容儁が慕容軍・慕容恪・慕輿根の3将軍と1万7千騎を率いて攻め込み、夫餘を滅ぼして併呑に成功しました。
慕輿根は燕王慕容皝の兄弟や息子で主力級の者達に並んで参戦しており、慕容氏以外の将軍では特に大物のようですね。
かくして前燕は後趙方面に専念できる状態が整いますが、348年に慕容皝が死んだことから実際の進出は次の世代に持ち越されます。
339年、慕容評と共に折衝将軍慕輿根や蕩寇将軍慕輿埿らが後趙の遼西郡に攻め込み、約1千家の住民を捕らえて帰還し、さらに出撃して来た後趙軍を撃破しました。『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康五年
(四月)燕前軍師慕容評、廣威將軍慕容軍、折衝將軍慕輿根、蕩寇將軍慕輿埿襲趙遼西,俘獲千餘家而去。趙鎭遠將軍石成、積弩將軍呼延晃、建威將軍張支等追之,評等與戰,斬晃、支首。
この339年以降、前燕は大国の後趙相手に善戦しました。侵攻を防ぎ、逆に大いに略奪などを行うほどで、この西側の前線は優勢とも言える状態でした。
340年、燕王慕容皝と対立していた兄の慕容翰が帰国。
342年、前燕は新たに築いた龍城に遷都し、また慕容翰の策に従い高句麗と鮮卑の宇文部を討つ計画に乗り出します。
最初の標的は高句麗です。
前燕が長史の王㝢ら1万5千に北道から侵攻させると、これを高句麗王の弟が精鋭5万で迎撃し、南道は高句麗王自身が弱兵で守りました。『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、咸康八年
十一月,皝自將勁兵四萬出南道,以慕容翰、慕容霸為前鋒;別遣長史王㝢等將兵萬五千出北道以伐高句麗。高句麗王釗果遣弟武帥精兵五萬拒北道,自帥羸兵以備南道。(中略)高句麗兵大敗。(中略)諸軍乘勝追之,遂入丸都。釗單騎走,輕車將軍慕輿埿追獲其母周氏及妻而還。會王㝢等戰於北道,皆敗沒,由是皝不復窮追。遣使招釗,釗不出。
(中略)發釗父乙弗利墓,載其尸,收其府庫累世之寶,虜男女五萬餘口,燒其宮室,毀丸都城而還。
この南道に慕容翰と慕容覇(慕容皝の五男)を先鋒とした慕容皝率いる4万の本隊が攻め掛かり、高句麗軍を大破し、さらに追撃して首都の丸都に突入。
軽車将軍の慕輿埿が逃げる高句麗王を追いかけ、その母の周氏や妻を捕らえましたが、高句麗王には逃げられました。
ここで北道の王㝢らが全滅したことから、高句麗王を追い詰めきることができず、そこで前燕軍は財宝・住民を奪い、墓から高句麗王の父の屍を持ち出し、丸都城を破壊して帰還しました。
翌年に高句麗は前燕に臣従を表明して朝貢し、前燕から父の亡骸を返還されますが、その母の周氏は人質として留め置かれました。『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、建元元年
春,二月,高句麗王釗遣其弟稱臣入朝於燕,貢珍異以千數。燕王皝乃其父尸,猶留其母為質。
高句麗の臣従はその後も続き、その中で355年に周氏が返還されました。
さて、燕王慕容皝が率いる本隊に加わっていた慕輿埿は(3年前と同じ蕩寇将軍ではなく)軽車将軍でした。
前燕の将軍号の制度が他と同じとは限りませんが、西晋・南朝・北朝では蕩寇将軍(盪寇将軍)よりも軽車将軍が格上であり、昇格した可能性がありますね。
(制度が同じなら、折衝将軍慕輿根の同格又は少し格上)
338年、後趙軍を撃破し、追撃した慕容恪は凡城の拠点を築いてから引き返しました。『晋書』巻一百九、慕容皝載記
遣子恪等率騎二千,晨出擊之。季龍諸軍驚擾,棄甲而遁。恪乘勝追之,斬獲三萬餘級,築戍凡城而還。
この凡城が前燕の最前線の拠点となります。
翌339年、前燕は後趙の前線である遼西郡を襲撃して勝利。ここまで「帳下将の慕輿根の登場」で紹介しました。
一方、後趙は遼西・北平に重鎮の李農を配置し、間もなく李農らによる凡城攻撃が行われました。
李農らが率いたのは3万の兵力。『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康五年
(九月)虎以撫軍將軍李農為使持節、監遼西北平諸軍事、征東將軍、營州牧,鎮令支。農帥眾三萬與征北大將軍張舉攻燕凡城。燕王皝以榼盧城大悅綰為禦難將軍,授兵一千,使守凡城。及趙兵至,將吏皆恐,欲棄城走。綰曰:「受命禦寇,死生以之。且憑城堅守,一可敵百,敢有妄言惑眾者斬!」眾然後定。綰身先士卒,親冒矢石;舉等攻之經旬,不能克,乃退。虎以遼西迫近燕境,數遭攻襲,乃悉徙其民於州之南。
対する前燕は榼盧城大だった悦綰を禦難将軍に任じて兵力1千で凡城を守らせていました。
(榼盧城は棘城の東側らしいので、西端の凡城への移動には多少日数がかかるので侵攻に対する行動ではないでしょう)
後趙の侵攻に対して城内の者達は逃げ出そうとしますが、悦綰は堅守を厳命して収拾に成功し、また率先して応戦したことで後趙軍に諦めさせ、撤退に追い込みました。
1千vs3万なら、結構な戦力差でしたね。
この後も前燕から後趙の前線である遼西への襲撃は続き、遂に後趙は内地に住民を移動させることになります。
後趙は344年にも凡城に侵攻しますが失敗して撤退しており、大国の後趙に対して前燕は一歩も引かずに前線が保たれる状況となっていました。『資治通鑑』巻九十七、晋紀十九、建元二年
趙平北將軍尹農攻燕凡城,不克而還。
(これを防いだのも悦綰かもしれません)
なお、しばらく悦綰の動静は不明となりますが、次の慕容儁の代まで禦難将軍の地位は変わらなかったようです。(五胡~北魏では、一つの雑号将軍をかなり長い間保持するパターンがあります)
「兎話編」と「補足編」がメイン。
2/1 「魏の文帝と白い動物大量発生」
兎話編3。魏の文帝/曹丕の時の白い動物(瑞獣)の大量発生について。
2/2 「琅邪の王と鄱陽と白兎」
兎話編4。王廙・王耆之父子が鄱陽を経て白兎の賦や頌を進呈したという話。
2/3 「琅邪の王と鄱陽と白兎2」
兎話編5。王廙の「白兎賦」の作成は313年~315年の間説。
2/4 「鄱陽内史の王廙」
王廙が鄱陽内史となった時期や状況について。
2/5 「魏晋のウサギとカメ」
三国時代の霊亀・神亀の出現について。
2/6 「桓温と白兎」
兎話編6。桓温と春穀県で白兎が見つかった出来事に関する状況考察。2月のベスト記事(自薦)。
文学作品、瑞祥の記録、類書と正史の対比、そして史書に基づく国や人物史が組み合わさった記事。
2/7 「郗曇と白兎」
兎話編7。郗曇が白兎を献上した状況について。
2/8 「劉裕と劉毅と白兎」
兎話編8。406年の2つの白兎献上と劉裕・劉毅との関係の話。
2/9 「桓温の部下と妖怪ウサギ」
兎話編9。桓温の参軍が梁上の伏兔の怪異に遭遇した話。
2/10 「桓温の部下と妖怪ウサギ2」
兎話編10。伏兔の怪異の時期について。大司馬桓温の時か穆帝末年。
2/11 「桓温の部下と虎の報復」
桓温の参軍の何氏が虎によって死ぬ話。
2/12 「桓温の部下と虎の報復2」
罰当たりな何参軍について色々。伏兔の怪異と同時期説。
2/13 「田泓、彭城にて死す」
補足編1。前秦に包囲された彭城に向かった忠義の士の田泓の話。
2/14 「北府と淮南防衛戦」
補足編2。前秦vs北府の淮南防衛戦。謝玄・何謙・田洛・諸葛侃など。
2/15 「曹丕の受禅と瑞祥フィーバー」
補足編3。曹丕の受禅に関する瑞祥の話まとめ。
2/16 「曹丕と神亀」
補足編4。魏の文帝の時に霊池又は霊芝池に出現した神亀について。
2/17 「北平の田氏」
補足編5。南北朝時代の「北平の田氏」の話。北魏の田彪と宋の田恵紹。
2/18 「龍使いの董父とその末裔」
董姓の始祖とされる「龍使いの董父」の話。
2/19 「ドラゴンマスター 劉氏の始祖・董氏の始祖」
劉姓の祖の「御龍氏」劉累と董姓の祖の「豢龍氏」董父の話。
2/20 「宋の田廉と北平の田恵紹」
補足編6。北魏への使者となった宋の田廉と北平の田恵紹の話。
2/21 「平昌・安丘の紆余曲折」
補足編7。平昌郡安丘県の成立に関する行政区分の変遷について。
2/22 「唐の東莞臧氏の背景」
補足編8。唐の東莞臧氏の碑銘に見られる歴代の臧氏について。
2/23 「唐の東莞臧氏の背景2」
補足編9。臧懐亮の碑銘に出てくる先祖の臧氏について。
2/24 「東莞の徐氏と臧氏の南渡」
補足編10。東莞の徐氏と臧氏の南渡の話。徐澄之と臧琨と徐州情勢。
2/25 「東莞の臧琨と臧混」
東莞の臧琨と臧混は同一人物説。
2/26 「令和五年一月」
一月の記事のまとめ。
2/27 「臨淮の劉蔚と臨淮の劉遵」
義旗編1。臨淮の劉蔚と臨淮の劉遵が親族又は同一人物説。
2/28 「臨淮の劉珪之と蕭&劉◯之」
義旗編2。劉珪之と蕭思話の配下の劉振之と蕭斌の配下の劉武之の話。親類説。
陳佐の子の陳準や孫の陳眕は晋で栄達していますが、彼らの事績を考慮すると陳佐の生年は230年以前とするのが妥当でしょう。
陳佐が青州刺史だったのは、(色々考慮すると)魏の後半から西晋の武帝の前半の間の可能性が高そうです。
時期によっては又従兄弟の陳泰が并州や雍州に居た時に青州刺史だったり、同じ潁川人の鍾毓の前後で青州刺史だったりしますね。
さて、陳諶と陳佐は間は宰相世系表によると青州刺史の陳忠です。
宰相世系表の内容の信憑性は怪しいですが、これが正しいとすると陳忠が青州刺史となれるのは後漢の献帝の時か魏が順当でしょう。
(祖父や父世代の状況を考慮すると霊帝時代は難しいですね)
もし「青州刺史の陳忠」が陳佐の父ならば、2代続けて青州刺史が晩年の官位となったことになります。