北魏皇帝の字2

道武帝・拓跋珪、字は涉圭(涉珪)。
明元帝・拓跋嗣、字は木末。
太武帝・拓跋燾、字は佛狸(佛貍、佛釐)。
景穆太子・拓跋晃、字は天真。
文成帝・拓跋濬、字は烏雷直勤(烏雷直懃)。
建文帝・拓跋弘、字は萬民(第豆胤)。

『南斉書』では、特に言及のあった人物(木末・佛狸・萬民)はいずれも字で呼ばれています。
一方、『宋書』では「嗣」と「燾」と呼ばれています。「拓跋濬」もありますね。

『宋書』巻四、少帝紀、景平元年
正月(中略)拓跋木末又遣安平公涉歸寇青州。
(中略)
是歲,魏主拓跋嗣薨,子燾立。

何故か両方使っている箇所もありますが。

また、『宋書』でも当時の文書・言葉の引用では「佛狸」が使われています。

当時でも広く字が知られており、あえてそちらを使ったのか。
それとも字は「鮮卑名」として漢人風(?)の諱よりも当時は一般的に使われていたのか。

『資治通鑑』巻一百九、晋紀三十一、隆安元年
(三月)
魏圍中山既久,城中將士皆思出戰。征北大將軍隆言於寶曰:「涉珪雖屢獲小利,然頓兵經年,凶勢沮屈,士馬死傷太半,人心思歸,諸部離解,正是可破之時也。(中略)」寶然之。而衛大將軍麟每沮其議,隆成列而罷者,前後數四。
(中略)
(慕容)農部將谷會歸說農曰:「城中之人,皆涉珪參合所殺者,父兄子弟泣血踊躍,欲與魏戰而為衛軍所抑。(中略)」
(十月)
燕人有自中山至龍城者,言拓跋涉珪衰弱,司徒德完守鄴城。

拓跋珪が後燕と戦っていた際に、後燕側で「涉珪」(か「涉圭」)と呼ばれています。
これも敵方ですが、同じ鮮卑族の発言でもあります。

『資治通鑑』巻一百三、晋紀二十五、咸安元年
秋,七月,秦王堅如洛陽。
代世子寔娶東部大人賀野干之女,有遺腹子,甲戌,生男,代王什翼犍為之赦境內,名曰涉圭

拓跋珪が生まれた時の名前は「涉圭」(「涉珪」)とされているので、「鮮卑名」或いは当時使われた名前(「拓跋珪」は後世の呼称?)だったのでしょう。

(貶める意図の有無は問わず)これら字(鮮卑名)は十分よく使われた呼称だったと思われます。

それをまっさらに抹消している魏書から、改姓の件も含めて「当時の名前」の復元はかなり難しいでしょう。
(南朝の記録には姓も名も魏書と異なる人物が何人もいますね)

魏書には全くないものの、これでも北魏皇帝達は当時の名前の再現がしやすい部類なのでしょう。

タグ:北魏 代国 後燕

拓跋猗盧、西晋を救えず5

『魏書』巻一、序紀、穆帝
六年,城盛樂以為北都,修故平城以為南都。帝登平城西山,觀望地勢,乃更南百里,於灅水之陽黃瓜堆築新平城,晉人謂之小平城,使長子六脩鎮之,統領南部。
七年,帝復與劉琨約期,會於平陽。會石勒擒王浚,國有匈奴雜胡萬餘家,多勒種類,聞勒破幽州,乃謀為亂,欲以應勒,發覺,伏誅,討聰之計,於是中止。


『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年
(三月)
劉琨請兵於拓跋猗盧以擊漢,會猗盧所部雜胡萬餘家謀應石勒,猗盧悉誅之,不果赴琨約。琨知石勒無降意,乃大懼,上表曰:「東北八州,勒滅其七;先朝所授,存者惟臣。勒據襄國,與臣隔山,朝發夕至,城塢駭懼,雖懷忠憤,力不從願耳!」


314年、劉琨拓跋猗盧はまた平陽の攻撃を計画します。
ところが、その3月に幽州の覇者王浚石勒に敗れて滅亡。代公拓跋猗盧の傘下の部族で石勒に呼応するものが発生し、一味は誅殺したものの攻撃計画は中止となってしまいました。
(これは石勒王浚を破ったことが引き金ですが、前年の南部を拓跋六脩に任せたことや、厳しい統治方針も何か影響しているかもしれませんね)

そこで劉琨石勒による危機的状況を述べた上表を行ったのですが、この内容は劉琨伝に詳細なものがあります。

『晋書』巻六十二、劉琨伝
臣前表當與鮮卑猗盧剋今年三月都會平陽,會匈羯石勒以三月三日徑掩薊城,大司馬、博陵公浚受其偽和,為勒所虜,勒勢轉盛,欲來襲臣。城塢駭懼,志在自守。又猗盧國內欲生姦謀,幸盧警慮,尋皆誅滅。遂使南北顧慮,用愆成舉,臣所以泣血宵吟,扼腕長歎者也。勒據襄國,與臣隔山,寇騎朝發,夕及臣城,同惡相求,其徒實繁。自東北八州,勒滅其七,先朝所授,存者唯臣。是以勒朝夕謀慮,以圖臣為計,闚伺間隙,寇抄相尋,戎士不得解甲,百姓不得在野。天網雖張,靈澤未及,唯臣孑然與寇為伍。自守則稽聰之誅,進討則勒襲其後,進退唯谷,首尾狼狽。徒懷憤踊,力不從願,慚怖征營,痛心疾首,形留所在,神馳寇庭。秋穀既登,胡馬已肥,前鋒諸軍並有至者,臣當首啟戎行,身先士卒。臣與二虜,勢不並立,聰、勒不梟,臣無歸志。庶憑陛下威靈,使微意獲展,然後隕首謝國,沒而無恨。


この上表の内容から、攻撃するつもりだった可能性は高いでしょう。

資治通鑑によると前年7月に前回の劉琨拓跋猗盧による攻撃が行われたとあり、半年ほどして再攻撃を考えていたとするとけっこう積極的です。

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年
漢中山王曜、趙染寇長安。六月,曜屯渭汭,染屯新豐,索綝將兵出拒之。(中略)曜乃還攻河內太守郭默于懷,列三屯圍之。(中略)默欲投李矩於新鄭,使其甥郭誦迎之,兵少,不敢進。會劉琨遣參軍張肇帥鮮卑五百餘騎詣長安,道阻不通,還,過矩營,矩說肇,使擊漢兵。漢兵望見鮮卑,不戰而走,默遂率衆歸矩。漢主聰召曜還屯蒲坂。
秋,趙染攻北地,麴允拒之,染中弩而死。


この頃は前趙(漢)と長安方面の愍帝諸軍が西方で何度も戦っており、そこへ劉琨が部下と鮮卑の兵を派遣したこともありました。
劉琨としても石勒らの台頭に先んじて東西から劉聡前趙に圧力をかけたかったのかもしれません。

『晋書』巻六十二、劉琨伝
三年,帝遣兼大鴻臚趙廉持節拜琨為司空、都督并冀幽三州諸軍事。琨上表讓司空,受都督,剋期與猗盧討劉聰。尋猗盧父子相圖,盧及兄子根皆病死,部落四散。琨子遵先質於盧,眾皆附之。及是,遵與箕澹等帥盧眾三萬人,馬牛羊十萬,悉來歸琨,琨由是復振,率數百騎自平城撫納之。

316年、劉琨はなおも(代王となった)拓跋猗盧と共に攻撃を計画していたようですが、今度は拓跋猗盧が殺されてしまい、またも果たせませんでした。
そして拓跋猗盧の勢力を吸収して一時期は気を大きくしたものの、石勒に敗れ、かえって并州を失ってしまいました。
劉琨拓跋猗盧前趙、いずれもそれぞれの思惑あって戦ったり、決戦を避けたりしてきましたが、結果的に石勒が雄飛するお膳立てをしたようなものとなってしまいましたね。

タグ:西晋 代国 前趙

拓跋猗盧、西晋を救えず4

311年、劉聡前趙)は西晋を壊滅させますが、河南の地はほとんど統治できておらず、展開していた諸軍が食料不足に苦しむ中、石勒王弥らを殺して自立を進めていたという状況でした。
さらに南の華南には前趙の勢力は及ばず、西の関中では西晋残党が勢力を結集しつつあり、翌312年には長安を奪取するほどでした。そして東の并州や冀州も部分的にしか影響がなく、その状況の一因であるすぐ近くの勢力の劉琨はまさに目の上のたんこぶでした。

312年初頭に劉聡軍が劉琨を攻めますが、代公拓跋猗盧の救援により敗走。

『資治通鑑』巻八十八、晋紀十、永嘉六年
(七月)
劉琨移檄州郡,期以十月會平陽,擊漢。

逆に劉琨劉聡の首都の平陽に攻め込もうと計画しますが、その前にまたも攻め込まれ、むしろ自身の本拠の晋陽が陥落する事態となりました。
そしてやはり代公拓跋猗盧が増援に来ると、劉聡軍は敗走。

『魏書』巻一、序紀、穆帝
五年,劉琨遣使乞師以討劉聰、石勒。帝以琨忠義,矜而許之。會聰遣其子粲襲晉陽,(中略)琨固請進軍,帝曰:「吾不早來,致卿父母見害,誠以相愧。今卿已復州境,然吾遠來,士馬疲弊,且待終舉。賊奚可盡乎?」饋琨馬牛羊各千餘,車令百乘,又留勁銳戍之而還。
是年,(中略)帝復戒嚴,與琨更剋大舉。命琨自列晉行臺,部分諸軍,帝將遣十萬騎從西河鑒谷南出,晉軍從蒲坂東度,會於平陽,就食聰粟,迎復晉帝。事不果行。

劉琨はさらなる追撃を望みますが、拓跋猗盧は乗らず、撤退してしまいます。

魏書では同年に関中の西晋残党と劉琨拓跋猗盧が東西から劉聡を攻め、皇帝を迎えようとしたもの、未遂に終わったとあります。

『資治通鑑』巻八十八、晋紀十、建興元年
六月,劉琨與代公猗盧會于陘北,謀擊漢。秋,七月,琨進據藍谷,猗盧遣拓跋普根屯于北屈。琨遣監軍韓據自西河而南,將攻西平。漢主聰遣大將軍粲等拒琨,驃騎將軍易等拒普根,蕩晉將軍蘭陽等助守西平。琨等聞之,引兵還。聰使諸軍仍屯所在,爲進取之計。

資治通鑑ではこの計画と思われる軍事行動はその次の年、313年の出来事としていますね。
ただ、劉琨拓跋猗盧のみの軍事行動しか記されておらず(関中側との連携は不明)、劉聡が迎撃の姿勢を見せると撤退しています。

ちなみに資治通鑑では拓跋猗盧拓跋普根を派遣したとあり、魏書では10万騎を派遣したとあります。これは拓跋普根が率いた数でしょうか?
数を盛っているとしても10万以上は拓跋猗㐌拓跋猗盧ぐらいしか率いた記録のない規模であり、拓跋普根は実はただの配下に収まらないほどの大物だったのでしょうか。
なお、拓跋六脩は資治通鑑によると同年は東の段部と戦っていますね。

攻め寄せる劉聡軍を何度も破りつつも、劉琨拓跋猗盧は攻め込んだり、他州を救援したりするような作戦はうまく行っておらず、特に拓跋猗盧は消極的な印象です。

タグ:西晋 代国 前趙

拓跋猗盧、西晋を救えず3

資治通鑑などによると310年に、拓跋猗盧劉琨を助け、劉琨により拓跋猗盧が代公となり、そして劉琨拓跋猗盧が洛陽を救援しようとするも宰相の東海王司馬越により断られました。

それでは翌311年はどうでしょうか。東海王司馬越が死ぬとその軍勢を石勒が襲撃して壊滅させ、続いて石勒を含む漢(前趙)の諸軍が結集して洛陽を陥落させ、西晋の皇帝を捕らえました。
この由々しき事態に忠臣なる劉琨や協力者の拓跋猗盧はどう動いたのでしょうか?
救援に動いたか、あるいは前趙の本拠を直接叩いたか。


結論をいえば、よくわかりません。
資治通鑑では、この年に劉琨王浚と冀州の中山や幽州の代郡などを巡って争っていたそうです。また、拓跋猗盧が支援のために息子の拓跋六脩を并州に置くが、それが離反者を招いたとしています。
その他、拓跋猗盧は代郡を巡って王浚と衝突しており、また并州北部の獲得と移住も行っていましたが、これらの一部が311年の行動にもあったかもしれませんね。

劉琨らは西や南に進んで前趙と戦うのではなく、北や東で王浚と争っていた疑いがあり、彼らが西晋のために尽力したかといえば、怪しいところがあるといえるでしょう。

(なお、王浚伝では劉琨王浚の争いは石勒王浚が戦い始めた後としており、さらに石勒討伐軍が劉琨側への攻撃に投入されています。つまり、石勒王浚との戦いを劉琨が足を引っ張るという構図。そしてこれを採用するならば、311年中の劉琨の動きは全くの謎となります。なかなかの食わせ者ですね)

ところで、311年の記述に劉琨石虎らを石勒に送り届けたことが載っています。河南の石勒と北の劉琨がどのようにやり取りをしたのか不明ですが、これもまた時期的に色々な解釈が可能な出来事でしょう。

タグ:後趙 代国 西晋

拓跋猗盧、西晋を救えず2

『魏書』巻一、序紀、穆帝
劉琨又遣使乞師救洛陽,帝遣步騎二萬助之,晉太傅東海王司馬越辭以洛中飢饉,師乃還。

まずはこれの検討。

『資治通鑑』巻八十七、晋紀九、永嘉四年
(劉)琨遣使言於太傅越,請出兵共討劉聰、石勒;越忌苟晞及豫州刺史馮嵩,恐爲後患,不許。琨乃謝猗盧之兵,遣歸國。

資治通鑑では、太傅・東海王司馬越が断った理由を「洛中飢饉」ではなく、「苟晞馮嵩」を警戒していたからとしています。これは劉琨集にあった記述がベースらしく(胡注)、魏書側がやや不利。

そして、目的が洛陽救出か劉聡石勒らの討伐という違いもあります。

さて、馮嵩は豫州刺史でしたが、310年11月に東海王司馬越が豫州に入ると、その司馬となり、代わりに司馬越が豫州牧となります。

『晋書』巻五十九、東海王司馬越伝
越自誅王延等,大失眾望,而多有猜嫌。散騎侍郎高韜有憂國之言,越誣以訕謗時政害之,而不自安。乃戎服入見,請討石勒,且鎮集兗豫以援京師。帝曰:「今逆虜侵逼郊畿,王室蠢蠢,莫有固心。朝廷社稷,倚賴於公,豈可遠出以孤根本!」對曰:「臣今率眾邀賊,勢必滅之。賊滅則不逞消殄,已東諸州職貢流通。此所以宣暢國威,藩屏之宜也。若端坐京輦以失機會,則釁弊日滋,所憂逾重。」遂行。留妃裴氏,世子、鎮軍將軍毗,及龍驤將軍李惲并何倫等守衞京都。表以行臺隨軍,率甲士四萬東屯于項,王公卿士隨從者甚眾。詔加九錫。越乃羽檄四方曰:「皇綱失御,社稷多難,孤以弱才,備當大任。自頃胡寇內逼,偏裨失利,帝鄉便為戎州,冠帶奄成殊域,朝廷上下,以為憂懼。皆由諸侯蹉𧿶,遂及此難。投袂忘履,討之已晚。人情奉本,莫不義奮。當須合會之眾,以俟戰守之備。宗廟主上,相賴匡救。檄至之日,便望風奮發,忠臣戰士效誠之秋也。」所徵皆不至。而苟晞又表討越,語在晞傳。越以豫州刺史馮嵩為左司馬,自領豫州牧。


『晋書』巻五、懐帝紀、永嘉四年
冬十月(中略)壬寅,石勒圍倉垣,陳留內史王讚擊敗之,勒走河北。壬子,以驃騎將軍王浚為司空,平北將軍劉琨為平北大將軍。京師饑。東海王越羽檄徵天下兵,帝謂使者曰:「為我語諸征鎮,若今日,尚可救,後則無逮矣。」時莫有至者。石勒陷襄城,太守崔曠遇害,遂至宛。王浚遣鮮卑文鴦帥騎救之,勒退。浚又遣別將王申始討勒于汶石津,大破之。
十一月甲戌,東海王越帥眾出許昌,以行臺自隨。宮省無復守衞,荒饉日甚,殿內死人交橫,府寺營署並掘塹自守,盜賊公行,枹鼓之音不絕。越軍次項,自領豫州牧,以太尉王衍為軍司。


その前の月に西晋朝廷は全土に招集をかけ、人が集まらないという悲劇が起きていました。
しかしこれは劉琨側の記述と矛盾しませんか?

晋書によると東海王司馬越らは増援がほしかったが人が来なかったという一方で、劉琨側の情報では東海王司馬越がせっかく乗り気だった劉琨拓跋猗盧らの介入を拒んだということになります。
そして魏書では京師の食糧不足が辞退した要因とありますが、晋書帝紀でも京師の飢饉が述べられています。時期は10月。

折衷案としては、東海王司馬越は確かに劉聡石勒対策として招集をかけましたが、兗州(苟晞勢力圏)・豫州(馮嵩勢力圏)の掌握も企図しており、并州からわざわざ劉琨らの介入を招くつもりはなかったことから、洛陽の飢饉を理由に派兵を辞退したというのはどうでしょうか。

首都防衛では涼州(張軌)からの増援が活躍しており、また幽州(王浚)の軍勢が司馬越の敵対者の打倒・排除に大きな役割を果たしてきたことから、ここで并州の助力を得ておけば、翌年の西晋壊滅・洛陽陥落は免れたかもしれませんね。

タグ:西晋 代国

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