前燕の流民4郡と内史

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年
是時中國流民歸廆者數萬家,廆以冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,幷州人為唐國郡

流民の出身地に合わせて冀陽郡・成周郡・営丘郡・唐国郡が前燕(の前身)に置かれました。「郡」なので、普通ならこれら4郡は「太守」が長官のはず。

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康七年
春,正月,燕王皝使唐國內史陽裕等築城於柳城之北,龍山之西,立宗廟、宮闕,命曰龍城。

ところが341年に「唐国内史」陽裕が出てきます。
「内史」は通常の制度なら「王国」に置かれる官です。
まさか「唐国国」だったのでしょうか?

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康四年
虎遣使四出,招誘民夷,燕成周內史崔燾、居就令游泓、武原令常霸、東夷校尉封抽、護軍宋晃等皆應之,凡得三十六城。泓,邃之兄子也。冀陽流寓之士共殺太守宋燭以降於趙;燭,晃之從兄也。營丘內史鮮于屈亦遣使降趙。武寧令廣平孫興曉諭吏民共收屈,數其罪而殺之,閉城拒守。朝鮮令昌黎孫泳帥衆拒趙。大姓王清等密謀應趙,泳收斬之;同謀數百人惶怖請罪,泳皆釋之,與同拒守。

実は338年の後趙侵攻の際に「成周内史」崔燾や「営丘内史」鮮于屈が出てきます。
おそらく、唐国・成周・営丘などは王国でなくても内史が置かれていたようです。

このパターンは複数の郡に渡る封地を持つ郡王がいる時に発生するようです。
前年に君主の慕容皝が燕王に即位しており、「燕王国」の一部として扱ったのではないでしょうか。

まあ、同時に冀陽郡には「太守」の宋燭がおり、誤字や適当だった可能性もありますが。

タグ:地理 前燕

唐国郡

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年
是時中國流民歸廆者數萬家,廆以冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,幷州人為唐國郡

『晋書』巻一百八、慕容廆載記
時二京傾覆,幽冀淪陷,廆刑政修明,虛懷引納,流亡士庶多襁負歸之。廆乃立郡以統流人,冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,并州人為唐國郡

慕容廆は314年頃に傘下に逃れてきた各地の流民に合わせて郡を置きました。
その一つが并州人を対象とする「唐国郡」です。
郡なのに「国」が入っているという変わったネーミングですね。
由来は并州の地域にかつては唐が置かれていたためのようです。


ここは「郡」なので本来の制度ならば太守が長官のはず。

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康七年
春,正月,燕王皝使唐國內史陽裕等築城於柳城之北,龍山之西,立宗廟、宮闕,命曰龍城。

ところが、341年に「唐国内史」陽裕が出てきます。

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康七年
秋,七月,郭悕、劉翔等至燕,燕王皝以翔為東夷護軍、領大將軍長史,以唐國內史陽裕為左司馬,典書令李洪為右司馬,中尉鄭林為軍諮祭酒。

この官位は1月と7月に2度に見られます。就任者は前燕の漢人重臣の陽裕

面白いですね。

『新唐書』巻一、高祖紀、義寧元年
十二月癸未,隋帝贈唐襄公為景王;仁公為元王;夫人竇氏為唐國妃,謚曰穆。以建成為唐國世子;世民為唐國內史,徙封秦國公;元吉為齊國公。丞相府置長史、司錄以下官。

ちなみに後世、の末期に李淵が唐王に昇格した直後の人事で次男の李世民が「唐国内史」となっています。

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南燕と公孫氏4

今回は慕容徳の母の公孫氏の生涯を見ていきましょう。

333年に鮮卑慕容部の首長の慕容廆が死ぬと三男の慕容皝(37歳)が勢力を継承しますが、そこで離反した兄や弟との戦いが336年まで続きました。
この頃に公孫氏慕容皝の側室の一員になったのではないでしょうか。また、少なくとも一人の男児を出産。これが慕容納です。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容徳
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
慕容德,字玄明,皝之少子。皝每對諸宮人言:「婦人姙娠,夢日入懷,必生天子。」公孫夫人方娠,夢日入臍中,獨喜而不敢言。晉咸康二年,晝寢生德,左右以告,方寤而起。皝曰:「此兒易生,似鄭莊公,必有大德。」遂以德為名。

慕容皝は常日頃から妻妾に「妊娠の際に太陽が懐に入る夢を見た者は天子を生む」と述べており、公孫氏はまさに妊娠する時に太陽が体に入る夢を見たことから、密かに喜びましたが、そのことは言わなかったそうです。
そして336年、公孫氏は寝ている時に出産。この時に生まれた子供に慕容皝は「徳」と名付けました。
これが慕容徳の誕生です。公孫氏が20歳前後ぐらいの時でしょうか。

337年に慕容皝は燕王に即位。上記の逸話は慕容皝が王になる前のこと。

348年、慕容皝が死去。王太子の慕容儁慕容徳の異母兄、30歳)が燕王に即位します。
時に慕容徳は12歳。寡婦となった公孫氏は30歳前後でしょうか。

354年に慕容納が北地王、慕容徳は梁公となります。
慕容徳は16歳。公孫氏は30代?

その後、前燕は最盛期を迎え、成人した慕容徳も軍功を挙げたりしましたが・・・。
370年、前燕が滅亡。慕容徳公孫氏前秦の長安に移されます。
時に慕容徳は35歳。公孫氏は50代?

タグ:南燕 前燕

南燕と公孫氏3

慕容徳の生母の公孫氏公孫五楼は(それぞれ)どの「公孫氏」なのでしょうか。

まず、「公孫氏」は東西南北に様々な本籍地を持つ者が見つかるので、候補はいくらでもあります。
よって厳密に絞り込むのは無理でしょう。


慕容徳が生まれた頃の慕容部の勢力圏は昌黎・遼東の地域だけでしたが、「公孫氏」といえば遼東襄平の一族が特に有名です。
「遼東襄平の公孫氏」が側室にいた可能性は十分にあります。

北朝の墓誌では「遼東襄平の公孫氏」での高官だった者がおり、前燕の公孫氏は不明瞭ながら仕えていた漢人がいてもおかしくはなく、重臣がいた可能性もあるでしょう。

また、他の地域の漢人でこの時点の慕容部の傘下に入った者も多数記録にあるため、遼東以外の公孫氏でもチャンスはあります。

ただ、慕容皝の妻達で出自が推測できる者は鮮卑出身です。漢人の側室がいたのか、特に名のある一族から側室が出ていたのか、疑問も生じます。
この段階で胡人の側室に漢人が人を出すのかどうか。


『魏書』巻七、孝文帝紀上、太和九年
(十月)辛酉,侍中、司徒、魏郡王陳建薨。詔員外散騎常侍李彪、尚書郎公孫阿六頭使蕭賾。

『魏書』巻七、孝文帝紀上、太和十五年
(四月)甲戌,詔員外散騎常侍李彪、尚書郎公孫阿六頭使於蕭賾。

さて、後に北魏南斉に出した使者の中に公孫阿六頭という人物がいます。
記録はありませんが、「阿六頭」は漢人とは思えない名前ですね。

公孫阿六頭の2度目の遣使より後の使者は、宋弁房亮高聡賈禎盧昶王清石といった正使と副使を漢人コンビで務めています。

『南斉書』巻四十七、王融伝
又虜前後奉使,不專漢人,必介以匈奴,備諸覘獲。

しかしどうやら以前は漢人&胡人のペアで派遣していたようです。
つまり、李彪は漢人なので、公孫阿六頭は胡人と考えられます。「公孫」姓の胡人(鮮卑?)が居たということでしょう。

一方で北燕を建てた馮跋が鮮卑化した漢人だったように、鮮卑化した漢人の公孫氏がいた可能性もあるのではないでしょうか。


そして公孫五楼は漢人としては変わった名前です。

『晋書』巻一百二十八、慕容超載記
時公孫五樓為侍中、尚書,領左衞將軍,專總朝政,兄歸為冠軍、常山公,叔父穨為武衞、興樂公。五樓宗親皆夾輔左右,王公內外無不憚之。

兄が公孫帰、叔父が公孫穨
「帰」は慕容渉帰宇文逸豆帰乞伏乾帰などの鮮卑名で見られる文字。
「穨」は俗字の「頹」が代人の名前で度々見られます。
公孫五楼の一族は「鮮卑や胡人」、あるいは「鮮卑/胡人風の名前の漢人」?


公孫五楼は「公孫姓の胡人(鮮卑?)」か「胡化した公孫氏(漢人)」、慕容徳の生母の公孫氏はそれらに加えて「名族でない公孫氏(漢人)」のいずれかの可能性が高いのではないでしょうか。

タグ:南燕 北魏 前燕

慕容徳の母と兄

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
慕容德字玄明,皝之少子也。(中略)慕容儁之僭立也,封為梁公,歷幽州刺史、左衞將軍。及暐嗣位,改封范陽王,稍遷魏尹,加散騎常侍。(中略)
後遇暐敗,徙于長安,苻堅以為張掖太守,數歲免歸。(中略)
及垂稱燕王,以德為車騎大將軍,復封范陽王,居中鎮衞,參斷政事。(中略)
寶既嗣位,以德為使持節、都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事、特進、車騎大將軍、冀州牧,領南蠻校尉,鎮鄴,罷留臺,以都督專總南夏。(中略)
先是,慕容和亦勸德南徙,於是許之。隆安二年,乃率戶四萬、車二萬七千乘,自鄴將徙于滑臺。(中略)
引師而南,兗州北鄙諸縣悉降,置守宰以撫之。存問高年,軍無私掠,百姓安之,牛酒屬路。
德遣使喻齊郡太守辟閭渾,渾不從,遣慕容鍾率步騎二萬擊之。德進據琅邪,徐兗之士附者十餘萬,自琅邪而北,迎者四萬餘人。(中略)德遂入廣固。
四年,僭即皇帝位于南郊,大赦,改元為建平。

慕容皝の少子・慕容徳前燕の范陽王や魏尹となり、前秦では張掖太守をしばらく務め、後燕では車騎大将軍・范陽王として重んじられました。
その後、北魏の侵攻が進む中、冀州牧として鄴を任されていた慕容徳は滑台に拠点を移して半独立勢力となり、さらに兗州・徐州を経由して青州に入り、広固を都として皇帝に即位しました。
17歳で兄の皇帝即位(前燕)、35歳で故国前燕の滅亡、48歳で前秦から離脱(後燕へ)、65歳で皇帝即位(南燕)。

小さな帝国の主となった慕容徳でしたが、母と兄の安否が気がかりでした。

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
德母兄先在長安,遣平原人杜弘如長安問存否。弘曰:「臣至長安,若不奉太后動止,便即西如張掖,以死為效。臣父雄年踰六十,未沾榮貴,乞本縣之祿,以申烏鳥之情。」(中略)乃以雄為平原令。弘至張掖,為盜所殺,德聞而悲之,厚撫其妻子。

そこで杜弘を母・兄がかつて住んで居た長安に派遣し探らせますが、杜弘は長安を超えて張掖まで行ったものの殺害され、安否は判らないままでした。
(なお、目的は果たせませんでしたが、慕容徳杜弘との約束どおりにその父を県令に取り立て、残された妻子も手厚く扱いました)

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
德故吏趙融自長安來,始具母兄凶問。德號慟吐血,因而寢疾。

その後、長安から来た者により始めて母兄の訃報が伝えられます。慕容徳は悲しみの余り吐血し、病に臥せました。
(兄は384年頃、母は394年に亡くなっていました)

『資治通鑑』巻一百一十三、晋紀三十五、元興二年
(夏四月)南燕主備德故吏趙融自長安來,始得母兄凶問,備德號慟吐血,因而寢疾。

これは資治通鑑では403年四月、屠本では三月の出来事。
慕容徳が67歳の時です。

流石に兄も母も生きていなくてもおかしくない年ですが、凶報には変わりなく、両者の最後を思えば悲しみも一層増したことでしょう。

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