劉備の大大大系図

劉備の親戚の親戚の親戚の親戚の親戚の・・・などを集めた巨大系図抜粋 をご用意しました!

蜀漢大系図

タグ:蜀漢 後漢 西晋 前趙

三百斤の強弓使い

『晋書』巻一百二、劉聡載記
十五習擊刺,猿臂善射,彎弓三百斤,膂力驍捷,冠絕一時。

三百斤の強弓を使うことができた劉聡は猿臂で射撃を得意とし、当代屈指の膂力の持ち主でした。
この劉聡前趙の人物で、匈奴出身。

三百斤の強弓使いは彼が唯一ではありませんでした。

『後漢書』巻十八、蓋延伝
蓋延字巨卿,漁陽要陽人也。身長八尺,彎弓三百斤。邊俗尚勇力,而延以氣聞。

最も古いのはおそらく後漢蓋延。最北、幽州出身にして建国の功臣となった猛将。
「身長八尺」の長身でもありますね。

『後漢書』巻二十、祭遵伝、祭肜
肜有勇力,能貫三百斤弓。虜每犯塞,常為士卒前鋒,數破走之。

次が後漢の祭彤(祭肜)。光武帝の代から長らく遼東太守として最辺境におり、そこでは常に先陣きって外敵を返り討ちにしていたとか。

『太平御覧』巻二百三十、職官部二十八、太僕
『東観漢記』
祭彤膂力過人,常貫三百斤弓,馬爲太僕;從帝過孔子講堂,帝指子路室曰︰「太僕,吾之御侮也。」

祭肜は「膂力過人」だったとも言われていますね。呂布と同タイプ。

(その次の使い手が劉聡
時は流れて五胡十六国時代。

『北史』巻二十七、谷渾伝
谷渾字元沖,昌黎人也。父袞,彎弓三百斤,勇冠一時。仕慕容垂,位廣武將軍。

後燕に仕えた谷袞もまた三百斤の強弓を使い、勇力は当代屈指だったとのこと。
北東端の昌黎の出身ですね。

『北史』巻二十二、長孫嵩伝、長孫頹
子頹,善騎射,彎弓三百斤。

北魏では、太武帝の頃の長孫頹。鮮卑の名族出身で、騎射に優れました。

『北史』巻十五、魏諸宗室伝、昭成子孫、常山王拓跋遵、元淑
贊弟淑,字買仁。彎弓三百斤,善騎射。

その後には孝文帝の頃の元淑北魏宗室傍流で騎射に優れました。

『太平御覧』巻三百八十六、人事部二十七、健
『後魏書』
玄淑字買仁,有膂力,彎弓三百斤,善騎射。

やはり膂力があったという記録があります。

『北史』巻四十五、傅永伝、傅叔偉
叔偉膂力過人,彎弓三百斤,左右馳射,能立馬上與人角騁,見者以為得永武而不得永文。

そして北魏末期の傅叔偉。「膂力過人」(上述)で「左右馳射」(董卓と同じ)、馬上に立つこともできたそうです。
傅叔偉は父の傅永も身体能力が高く、武勇では引けを取らなかったというところでしょうか。


タグ:北魏 後燕 後漢 前趙

猿臂

『魏書』巻九十五、匈奴劉聡伝
猿臂善射,彎弓三百斤。

劉聡は「猿臂」であり、弓術に秀でていました。また強弓を引くことができたようです。

『晋書』巻一百一、劉淵載記
(前略)猿臂善射,膂力過人。

その父の劉淵もまた「猿臂」で、弓術に秀で、膂力は常人以上。

「猿臂」は「猨臂」とも書かれ、他にも形容された人物がいます。

『三国志』巻四十九、太史慈伝
慈長七尺七寸,美鬚髯,猨臂善射,弦不虛發。

例えば、三国志の太史慈
後漢末期に孫策に仕えた人物で、身長は七尺七寸、猿臂で射撃が上手く、無駄に弦を弾くことはなかったとのこと(すなわち百発百中)。

『晋書』巻一百九、慕容皝載記、慕容翰
慕容翰字元邕,廆之庶長子也。性雄豪,多權略,猨臂工射,膂力過人。

その後には慕容翰がいます。
鮮卑の慕容廆の庶長子であり、膂力は人に勝り、猿臂で射撃に巧みでした。

「猿臂」で「射撃・弓術に優れる」ことを示すことは詩賦でもあるようです。
「猿のような腕」が弓術に向いているイメージがあったのでしょうか。
また、「猿のような腕」とは長い腕なのか、曲がりが独特な「猿腕」のことなのか。最終的には修辞的表現となっていますが、元々はどうだったのでしょうね。

『史記』巻一百九、李広伝
廣為人長,猨臂,其善射亦天性也,雖其子孫他人學者,莫能及廣。

その原点は李広でしょう。前漢の名将ですね。
彼は弓術にまつわる非凡な逸話があり、それとセットで「猨臂」だったとありますね。

「猿臂」と聞けば、かの李広のような弓の名手、というニュアンスもあったのでしょう。

『史記』巻一百九、李広伝
廣居右北平,匈奴聞之,號曰「漢之飛將軍」,避之數歲,不敢入右北平。

ちなみに李広はその武勇により匈奴から飛将軍と呼ばれていたそうです。

『三国志』巻七、呂布伝
布便弓馬,膂力過人,號為飛將。

後漢末の呂布は飛将と呼ばれており、弓術にも秀でていました。これも李広のような武勇(弓術込み)の持ち主という意図があったのかもしれませんね。
(後の使い方を見ると、相手を恐れさせるほどの武威武勇という感じですが)

タグ:後漢 前燕 前趙

垂手過膝vs長上短下

垂手過膝と長上短下が何人か出てきたので、関係者とその国家について適当に見てみましょう。

「垂手過膝の劉備」と「長上短下の孫権」。
この戦いは、「劉備の建てた蜀漢」と「孫権の建てた」の戦いとみなしても明白に白黒ついていませんが、直接対決ではが勝利しており、生き延びた年数もが勝ります。
まずは「長上短下」の判定勝ちではないでしょうか。

次に現れるのが「垂手過膝の司馬炎」。
司馬炎の建てた西晋」は建国の前段階で「劉備の建てた蜀漢」を滅ぼし、建国後の大事業として「孫権の建てた」を滅ぼして統一を成し遂げました。
「垂手過膝」の勝利。三国時代の勝者でもあります。

ただ、「司馬炎の建てた西晋」も「垂手過膝の劉曜」を擁する前趙(漢)によって滅ぼされてしまいますが。

その後、「垂手過膝」が何人も登場する五胡十六国時代を経て南北朝時代に入ります。
南北朝後期になると北朝は分裂し、「垂手過膝の宇文泰」が率いる西魏と「長上短下の侯景」を擁する東魏との戦いに突入。戦いは一進一退でしたが、侯景が南朝のに帰順し、続けて反乱を起こしてを乗っ取る大事件が発生。まもなく侯景は「垂手過膝の陳覇先」らに倒され、が復活。
局地的に「垂手過膝」の勝利。
そのまま南北共に新しい段階に進み、宇文泰の息子達が北周を建て、陳覇先を建国。

最終的な勝者は「長上短下の楊堅」。「楊堅の建てた」は北周に代わって成立したものであり、を滅ぼして統一を達成。魏晋南北朝時代を終わらせました。

魏晋南北朝時代において「垂手過膝」は数が多く、一度は統一を達成しましたが、締めは「長上短下」の方でしたね。もっともも短期間で倒れて最後の北朝として名を連ね、が長期的な覇者となりましたが。

タグ: 西魏 東魏 北周 西晋 蜀漢 前趙

垂手過膝と魏晋南北朝3

五胡十六国時代の「垂手過膝」は4人、と見せかけてもう一人います。

『太平御覧』巻一百十九、偏霸部三、前趙劉曜
『十六国春秋・前趙録』
幼而聰慧,性托落高亮,與眾不群。鐵厚一寸,射而洞之。身長九尺三寸,手垂過膝,生而眉白,目有赤光,須不過百餘根,皆長五尺。

まずは前趙の劉曜。驚異の「身長九尺三寸」。匈奴族。

『太平御覧』巻七百四十四、工芸部一、射上
『晋書』
劉曜,字永明。身長九尺六寸,垂手過膝。雄武有膂力,射鐵,入一寸焉,時號神射也。

膂力があり、鉄を射抜く「神射」の使い手。「手垂過膝」か「垂手過膝」。
ちなみに同族に猿臂が二人いますね。

『太平御覧』巻一百四十二、皇親部八、劉曜劉后
崔鴻『三十国春秋・前趙録』
劉皇后,侍中暟女。年十三,長七尺八寸,手垂過膝,髮與身齊,姿色才德,邁于列后。

そして劉曜の皇后(劉芳)。皇后としては最も長身であろう「七尺八寸」で、髪は背丈と同じ長さ。
弓の名手ということでは特にないようです。
彼女の情報は正史にはなく、特にマイナーでしょう。

『晋書』巻一百十六、姚襄載記
襄字景國,弋仲之第五子也。年十七,身長八尺五寸,臂垂過膝,雄武多才藝,明察善撫納,士眾愛敬之,咸請為嗣。


『太平御覧』巻三百六十九、人事部十、臂
『後秦記』
姚襄垂臂過膝

次に羌の姚襄。「臂垂過膝」か「垂臂過膝」。晋書や十六国春秋より古い『後秦記』の時点で存在。
姚襄は身長八尺五寸ですね。後秦の始祖の一人。

『晋書』巻一百二十三、慕容垂載記
少岐嶷有器度,身長七尺七寸,手垂過膝


『太平御覧』巻一百二十五、偏霸部九、後燕慕容垂
崔鴻『十六国春秋・後燕録』
垂少有器度,身長七尺七寸,手垂過膝

その次に鮮卑の慕容垂。「手垂過膝」。前燕の宗室、後燕の建国者。
一族・兄弟の中では小柄かもしれませんが、それでも「七尺七寸」もあるとのこと。
小柄の「垂手過膝」の人物はいるのでしょうか?

『晋書』巻一百十三、苻堅載記上
臂垂過膝,目有紫光。


『太平御覧』巻一百二十二、偏霸部六、前秦苻堅
崔鴻『十六国春秋・前秦録』
姿貌魁杰,臂垂過膝,目有紫光。祖洪奇而愛之,名「堅頭」,因而謂健曰:「此兒頭大鎮重,身長任大,足短安下,非常相。」

そして氐の苻堅前秦の君主。「姿貌魁杰,臂垂過膝」。
前燕慕容恪が「身長八尺七寸,容貌魁傑」、吐谷渾の吐延が「身長七尺八寸,雄姿魁傑」とあることから、彼も大柄だったと思われます。

匈奴、羌、鮮卑、氐。劉芳はおそらく漢人。バリエーション豊かですね。
前の時代の劉備司馬炎と違い、建国者となったのは慕容垂のみ。
劉曜は(ほぼ)最後の君主、苻堅は大偉業で全盛期を築き上げ、大失敗で壊滅させた人物。
姚襄は声望がありましたが、志半ばで敗死。
(ちなみに、苻堅姚襄を破った側であり、慕容垂を配下にしていたこともありました)

「垂手過膝」や同種の異相は、建国者のものとは限らないようですね。

タグ:前秦 前趙 後秦 後燕

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