安夷将軍・高梁亭侯の呂昺?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

「漢字が何となく似ている」と「将軍&列侯の可能性あり」を満たす者を探す方式で上尊号碑の穴埋めはまだまだできます。
信憑性はこじつけレベルのものが多いですけど。

今回は「安夷将軍 高梁亭侯 臣昺」の候補者。
部首に「日」が入っていて、列侯になれそうな人といえば・・・、

そうです。東平の呂曠です!

『三国志』巻一、武帝紀、建安八年
公之去鄴而南也,譚、尚爭冀州,譚為尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,公乃引軍還。冬十月,到黎陽,為子整與譚結婚。尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其眾降,封為列侯。

203年、袁尚から離反して陽平で曹操に降伏し、列侯に封じられたという人物。

この17年後に生きていた可能性はあるのか、また「昺」が魏志や魏書で「曠」と書かれる妥当性はあるのか、疑問は尽きませんが、候補といえば候補です。

ちなみに東平の近くに「高梁亭」があります。

『宋書』巻四十三、檀道済伝
加道濟都督征討諸軍事,率眾北討。軍至東平壽張縣,值虜安平公乙旃眷。(中略)大破之。轉戰至高梁亭,虜寧南將軍、濟州刺史壽昌公悉頰庫結前後邀戰,(中略)即斬悉頰庫結。道濟進至濟上,連戰二十餘日,前後數十交,虜眾盛,遂陷滑臺。道濟於歷城全軍而反。

後に檀道済が北伐で東平の寿張の次に高梁亭で戦っています。
(『読史方輿紀要 』曰く、寿張県の東北に在り)

東平人の呂曠(=呂昺?)が高梁亭侯となるのも自然な組み合わせ?

タグ: 創作

安衆将軍・元就亭侯の劉神?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

「安衆将軍・元就亭侯の尹神?」で上尊号碑の「安衆将軍 元就亭侯 臣神」の該当者を一人挙げました。今までの上尊号碑編に比べると歯切れ悪い感じでしたが。
その際に「候補の一つ」と書いたのは、実は他にも候補がいるからです。

次の有力候補(与太話のお相手)は、劉雄鳴です。

藍田の劉雄鳴は関中の小群雄でしたが、「雲霧を起こす力がある」と人々に噂された変わった人物です。

思いて学ばざれば
『劉雄鳴』


てぃーえすのメモ帳
『関中諸将』

経歴はこちらをご覧ください。

『三国志』巻八、張魯伝、注引『魏略』
劉雄鳴者,藍田人也。少以采藥射獵為事,常居覆車山下,每晨夜,出行雲霧中,以識道不迷,而時人因謂之能為雲霧。郭、李之亂,人多就之。建安中,附屬州郡,州郡表薦為小將。馬超等反,不肯從,超破之。後詣太祖,太祖執其手謂之曰:「孤方入關,夢得一神人,即卿邪!」乃厚禮之,表拜為將軍,遣令迎其部黨。部黨不欲降,遂劫以反,諸亡命皆往依之,有眾數千人,據武關道口。太祖遣夏侯淵討破之,雄鳴南奔漢中。漢中破,窮無所之,乃復歸降。太祖捉其鬚曰:「老賊,真得汝矣!」復其官,徙勃海。

劉雄鳴曹操に一旦は帰順して将軍に取り立てられますが、数千の仲間に担がれる形で離反し、撃破されると張魯のもとへ逃走。張魯が平定されると再び降伏し、元の官に再任されました。

劉神説」の鍵は3点。

その1。
劉雄鳴は「将軍」となっており、また曹操に帰順した者で小勢力の長だったという特別なステータスがありました。
将軍として上尊号碑に名を連ねていてもおかしくない経歴でしょう。
「安衆」という将軍号もいかにも帰順者です。

その2。
劉雄鳴は「雄鳴」と書かれていることから、姓が「劉」で名前/字/称号/通称などが「雄鳴」だったはずです。
当時は二文字の名前は珍しく、本名は魏略に載ってなく不明とするのが自然な解釈。
つまり実の名前は「神」であり、何らかの理由で書かれなかったとする筋書きは十分通用するでしょう。流石に「神」と書くのはどうかと思われたのでしょうか。

その3。
曹操劉雄鳴の1度目の帰順の際に、「夢の中で神人を得たが、あれは卿(あなた)のことだったのか!」と述べています。
ここで「神人」=「劉雄鳴」と考えたのは、劉雄鳴の本名が劉神だったからなのでは?


爵位に関する情報が無く、勃海に飛ばされたという記述を思えば果たして禅譲に関与できる立場になれたのかという疑問点もありますが、まあまあ良い案ではないでしょうか。

夏侯淵伝に「南山賊劉雄」が同一人物っぽく、劉雄(字や通称が「雄鳴」)だった可能性もありますが。

タグ: 後漢 創作

安衆将軍・元就亭侯の尹神?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

上尊号碑の「安衆将軍 元就亭侯 臣神」という人物って気になりませんか?
なんたって名前が「神」ですよ!!!

「神」の名を持つ者は、北魏李神李神軌李神儁(全員別の一族)が揃う紛らわしい状況がありましたが、全体としては余り見かけません。
三国志に近い時代でも思い当たりません。誰がご存知でしたらご連絡願います。


色々考えた結果(妄想とこじつけのはてに)、候補の一つが「尹礼」です。

この考え(妄想)の発端は、まず「神」に似た名前で「列侯になった可能性が高い者」を探した結果、尹礼にたどり着きました。
「神」と「礼」という漢字は部首が同じ。「示偏のある名前」。
泰山諸将の頭領の臧覇はさらに格上の立場で上尊号碑に載っており、尹礼がここに加わっても格や立場において不自然ではないでしょう。
「尹礼=尹盧説」を採ると尹礼が222年に将軍として健在だったことになり、都合が良いですね。

ただ、問題もいくつかあります。
最大のものは、「禮」(礼)と史書にある人物が、本当は「神」だったとするのは現実的なのかどうか。
審配の配下の馮禮(馮礼)が「馮札」だったり、禮と祇の二択の記述があったり、「神筆」が「伸筆」だったりした事例が見つかりましたが、特に良い根拠は思いつきませんでした。

尹禮の名前も帝紀で3回、臧覇伝で1回、裴注の魏略で1回見つかっており、尹礼という名前だった可能性はかなり高いでしょう。
「尹神」説に有利な情報は全くありません。(あまりにも公式記録としてふざけた名前だったので強引に書き換えられたと言い張ることもできるかもしれませんが・・・)

仮に理由をつけるとするなら、側に晩年の記録(名前の表記)が全く無く、「尹礼=尹盧説」を採っても呉側では「尹礼」という名前を使っていないため、実は晩年までに尹礼から尹神に改名したものの敵国(や後世)では「神」を使った名前で呼ぶつもりはなかったので、こうなった。とか?

以上、「状況的に不可能でない」こと一点突破なネタでした。

タグ: 創作

懐遠将軍・関内侯の侯巽(侯選)?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

上尊号碑の「懐遠将軍 関内侯 臣巽」は誰が該当するでしょうか。
これを傅巽に比定する見解がありますが、これは微妙な結論なのでは?
『献帝伝』では禅譲勧進の一員に「散騎常侍傅巽」がおり、禅譲勧進の途中で散騎常侍から懐遠将軍に遷官したとは考えづらいのではないでしょうか。
将軍になったという記録もありませんね。前後の官歴も考慮してもいきなり将軍号があるのも変な感じです。


この傅巽は一部の記録では「傅選」と書かれます。
「巽」にしんにょうの付いた「選」が使われており、部首の増減は史書の記述から碑文の書き方まで様々な状況で見られます。上尊号碑でも「董昭→董照」の変化があります。

つまり名前が「選」の者の可能性もあるのでは・・・?


さて、上尊号碑に出てくる者は三公九卿に持節の都督や宿将、そしてその他の爵位持ちの将軍や五校尉です。
爵位持ちの将軍の中には「冠軍将軍 好畤郷侯 臣秋」、つまり楊秋がいます。彼は実戦にも投入されていますが、基本的には降伏・帰順して客将待遇とされたような人物です。

楊秋のように関中で挙兵して曹操と戦い、最終的に帰順した者は他にも数人います。

その一人が侯選です。名前が「選」!
『魏略』で程銀侯選は「南入漢中,漢中破,詣太祖降,皆復官爵。」とありますね。

この「復官爵」から侯選には何らかの爵位があったことが分かります。
また、侯選よりも前に降って扱いも重かった楊秋も「復其爵位」とあり、結果的に上記の好畤郷侯の地位にありました。(後にさらに進爵)


侯選曹操に降ると、関内侯に爵位に加えて、「懐遠」将軍といういかにも帰順絡みのような将軍号を得ていたのではないでしょうか?

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奮武将軍・長安亭侯の閻豊?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。


『三国志』巻十五、張既伝、注引『魏略』
閻行,金城人也,後名豔,字彥明。少有健名,始為小將,隨韓約。(中略)會約使行別領西平郡。遂勒其部曲,與約相攻擊。行不勝,乃將家人東詣太祖。太祖表拜列侯

閻行は金城の群雄・韓遂(韓約)の有力な配下でしたが、曹操韓遂が争うようになると最終的に西平で離反して韓遂と衝突し、勝てないとなると曹操のもとへ帰順しました。
この時に閻行は「列侯」となっています。経歴を考えると、「亭侯」あたりが妥当。


さて、上尊号碑には「奮武将軍 長安亭侯 臣豊」という人物がいます。
そして閻行は後に「豔」(艶)と改名しました。

「奮武将軍・長安亭侯」の「豊」とは、この閻豔(閻行)のことではないでしょうか。

閻行→閻豔(閻艶)⇔閻豊

上尊号碑では部首が増えたり(董昭→董照)、部首が変わったり(許褚→許楮)しており、これは部首が省略されたというパターンとなります。

割と行けそうじゃないですか?

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