隋の尚書令の韋孝寛

『周書』巻八、静帝、大象二年
十一月甲辰,達奚儒破楊永安於沙州。沙州平。乙巳,歲星守太微。丁未,上柱國、鄖國公韋孝寬薨

北朝の名将として名高い韋孝寛の最終官位は主に上柱国でした。(+相州総管)
「大周使持節太傅上柱国雍州牧鄖襄公」墓誌によると韋孝寛には「使持節・太傅・上柱国・都督懐衡黎相趙洺貝滄瀛魏冀十一州諸軍事・雍州牧」が追贈されています。
上柱国に、太傅や雍州牧などが追加。

この翌年に北周が終わり、が建国されます。通典によると、では上柱国が従一品、太傅が正一品であり、追贈で実質昇格ですね。

『新唐書』巻七十四、宰相世系表四上、韋氏、鄖公房
鄖公房:文惠公旭次子叔裕,字孝寬,隋尚書令、鄖襄公

ところが宰相世系表には「の尚書令」とあります。

北周の人物として扱われ、周書に立伝されている韋孝寛の官位を得ていた(もちろん追贈)というのが本当ならば面白いことですね。

『隋書』巻二、高祖紀、開皇十七年
夏四月戊寅,頒新曆。壬午,詔曰:「周曆告終,羣凶作亂,釁起蕃服,毒被生人。朕受命上玄,廓清區宇,聖靈垂祐,文武同心。申明公穆、鄖襄公孝寬、廣平王雄、蔣國公睿、楚國公勣、齊國公熲、越國公素、魯國公慶則、新寧公長叉、宜陽公世積、趙國公羅雲、隴西公詢、廣業公景、真昌公振、沛國公譯、項城公子相、鉅鹿公子幹等,登庸納揆之時,草昧經綸之日,丹誠大節,心盡帝圖,茂績殊勳,力宣王府。宜弘其門緒,與國同休。其世子世孫未經州任者,宜量才升用,庶享榮位,世祿無窮。」

が創業功臣として挙げた者達の中で二番手に鄖襄公韋孝寛の名前があり、何かによる追贈があってもおかしくはないでしょう。


なお、尚書令は正二品なので微妙に降格のようですが、(まともな任官で)行台尚書令でない尚書令は隋では珍しく、元勲の楊素ぐらい。
追贈なら何人か増えますが、宇文述のような大物か宗室などが対象。
韋孝寛に対する追贈官でもありうるものではないでしょうか。

タグ: 北周

東魏の堯雄

『魏書』巻四十二、堯暄伝
堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。
暄聰了,美容貌,為千人軍將、東宮吏。高宗以其恭謹,擢為中散。奉使齊州,檢平原鎮將及長史貪暴事,推情診理,皆得其實。除太尉中給事、兼北部曹事,後轉南部。太和中,遷南部尚書。于時始立三長,暄為東道十三州使,更比戶籍。賜獨車一乘,廐馬四匹。時蕭賾遣其將陳顯達寇邊,以暄為使持節、假中護軍、都督南征諸軍事、平陽公。軍次許昌,會陳顯達遁走,暄乃班師。暄前後從征及出使檢察三十餘許度,皆有克己奉公之稱。賞賜衣服二十具、綵絹十匹、細絹千餘段、奴婢十口,賜爵平陽伯。及改置百官,授太僕卿。車駕南征,加安南將軍。轉大司農卿。太和十九年,卒於平城。高祖為之舉哀。贈安北將軍、相州刺史,賻帛七百匹。
初,暄使徐州,見州城樓觀,嫌其華盛,乃令往往毀撤,由是後更損落。及高祖幸彭城,聞之曰:「暄猶可追斬。」
暄長子洪,襲爵。鎮北府錄事參軍。
子桀,字永壽。元象中,開府儀同三司、樂城縣開國公。
洪弟遵,伏波將軍、河州冠軍府長史、臨洮太守。卒,贈龍驤將軍,諡曰思。
遵弟榮,員外散騎侍郎。
子雄,字休武。元象中,儀同三司、豫州刺史、城平縣開國公。
雄弟奮,字彥舉。興和中,驃騎將軍、潁州刺史。
奮弟難宗,武定中,征西將軍、南岐州刺史、征羌縣開國伯。


堯雄は上党・長子の出身。東魏諸将の中では特に内地側の出身ですね。
高祖父は北魏道武帝後燕に侵攻した後から仕え、祖父の堯暄孝文帝の南征に従軍して最後は九卿に登ったという人物でした。
堯暄の長男の子の堯桀堯雄の従兄。
堯暄の子が堯雄堯奮堯難宗。4人とも東魏に仕えました。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
堯雄,字休武,上黨長子人也。祖暄,魏司農卿。父榮,員外侍郎。雄少驍果,善騎射,輕財重氣,為時輩所重。永安中,拜宣威將軍、給事中、持節慰勞恒燕朔三州大使。仍為都督,從叱列延討劉靈助,平之,拜鎮東將軍、燕州刺史,封城平縣伯,邑五百戶。
義旗初建,雄隨尒朱兆敗於廣阿,遂率所部據定州以歸高祖。時雄從兄傑,尒朱兆用為滄州刺史,至瀛州,知兆敗,亦遣使歸降。高祖以其兄弟俱有誠欵,便留傑行瀛州事。尋以雄為車騎大將軍、瀛州刺史以代傑,進爵為公,增邑五百戶。于時禁網疏闊,官司相與聚斂,唯雄義然後取,復能接下以寬恩,甚為吏民所懷附。

堯雄は当初は北魏孝荘帝に仕えて恒燕朔三州大使となり、(孝荘帝死後の)531年春に定州で劉霊助を討ち、燕州刺史となり城平県伯に封爵。この頃は洛陽以北、特に河北で活動していました。
劉霊助平定では堯雄は都督恒雲燕朔・山東行台の叱列延慶の下で参戦し、他に定州刺史侯淵が参加していました)
その夏に高歓が冀州で挙兵し、西南の広阿(殷州)を制圧。秋に并州から東進した爾朱兆が殷州を奪還し、冬に両軍が衝突。爾朱兆は号10万の大軍を率いましたが猜疑心により他の同族から支援が得られず、高歓に大破されました。
侯淵堯雄兄弟は爾朱兆側で参戦していましたが、ここで敗れると北隣の定州に戻って州ごと高歓に降伏。また従兄の堯桀も東隣の瀛州で高歓に帰順し、堯雄は瀛州刺史・城平県公とされます。
時に33歳。
彼らが冀州の北ごと高歓に降ったので、高歓がそのまま南下して爾朱氏らとの戦いに専念できたわけですから、大きな役割を果たしたといえるでしょう。

高歓は532年に爾朱氏を倒し、孝武帝を擁立して北魏で大権を掌握。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。

534年夏~秋に高歓孝武帝が決裂した際には、堯雄は瀛州刺史を離任していたものの并州刺史や相州刺史の軍勢と行動を共にする立場だったらしく、晋陽~鄴の辺りにいたようです。
秋に孝武帝が西の関中に逃れると高歓は洛陽を制圧して西にも対応しつつ、侯景高昂らに南の荊州刺史賀抜勝を討たせました。堯雄も三荊の平定に参加し、それから二豫揚郢四州都督・豫州刺史となります。
(豫州を拠点とし、南の東豫州、東?の揚州、南の郢州などに接する地域を管轄)
534年冬に東魏が成立。
そこから「独孤信の三荊平定2」で述べたように(豫州の北の)潁州の「元洪威の乱」で潁川で趙継宗が挙兵すると堯雄が討伐。
東魏初頭、豫州の西北にある洛陽南側の山岳地帯には西魏側につく勢力がおり、慕容紹宗らが討伐したものの滅ぼすことができていませんでした。また黄河以南はさらに東の地域にも反乱者が何度が発生しており、そこにの北伐が加わって不安定な情勢でした。

534年末に始まったの北伐。元慶和を擁して進められ、半年以上続きました。
李洪芝王当伯が平郷城を破って豫州に侵攻して来たところを堯雄が伏兵で一網打尽にしたというのは、その北伐軍との戦いの一貫でしょう。
平郷は南頓のすぐ西にある地名であり、豫州治所の懸瓠城の東北側。李洪芝らは項城(南頓の東隣の前線)を制圧した湛僧智らの先鋒だったのでしょう。
続いて陳慶之が州城に迫ると、堯雄は出撃して戦い「所向披靡」(向かう所敵なし/当たるを幸いなぎ倒す)のような奮戦で堯雄自身が2箇所負傷したものの勢いは凄まじく、陳慶之は敗れて輜重を捨てて逃走。
帝紀では535年2月21日に「蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。」とあり、この時のことでしょう。
そして元慶和を魏王として南境に侵攻すると、堯雄は軍を率いて元慶和を討ち、南頓で大破しました。帝紀では6月に「元慶和寇南豫州,刺史堯雄大破之。」とありますが、正しくは「元慶和寇南頓,豫州刺史堯雄大破之。」なのでしょう。
列伝ではこれらを一連の戦いの別個のように書いていますが、すべて「元慶和の北伐」に関するものですね。

この年の堯雄は「州城」、豫州治所の懸瓠城と南頓を短期間で往復して戦っていたようです。
時に36歳。(陳慶之は52歳)

また陳慶之が南荊州を包囲すると、堯雄は「の北面重鎮」である白苟堆が手薄であるとして攻撃をかけ、陳慶之に南荊州を諦めて白苟堆の救援に向かわせた上、536年5月に陥落させました。
(列伝の記述の位置は間違いでしょう)
そして冬の行台侯景の楚城(楚州)制圧にも参加。ただ、直後にこの軍は陳慶之に敗れ、輜重を捨てて逃走することになりました。
堯雄は転任するところを、豫州民が上書して刺史としての留任を求めたため、堯雄はまた行豫州事とされました。

この年の終わりから東魏の間で使者の往来と和議が始まります。そして翌年から西魏との戦いに突入。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。育,寶各還本州,據城降敵。雄收集散卒,保大梁。周文帝因延敬之敗,遣其右丞韋孝寬等攻豫州。雄都督郭丞伯、程多寶等舉豫州降敵,執刺史馮邕並家屬及部下妻子數千口,欲送之長安。至樂口,雄外兵參軍王恒伽、都督赫連儁等數十騎從大梁邀之,斬多寶,拔雄等家口還大梁。西魏以丞伯為潁川太守,雄仍與行臺侯景討之。雄別攻破樂口,擒丞伯。進討懸瓠,逐西魏刺史趙繼宗、韋孝寬等。復以雄行豫州事。西魏以是云寶為揚州刺史,據項城;義州刺史韓顯據南頓。雄復率眾攻之,一日拔其二城,擒顯及長史丘岳,寶遁走,獲其妻妾將吏二千人,皆傳送京師。加驃騎大將軍。仍隨侯景平魯陽,除豫州刺史。

537年春、西魏に侵攻した高歓の主力・竇泰が敗死。冬、高歓は再び攻め込みますが「沙苑の戦い」で大敗。西魏は逆侵攻し、独孤信らが洛陽を制圧。
そこへ潁州長史賀若統が潁州刺史田迅を捕らえて西魏に呼応。東魏は行台任祥堯雄・広州刺史趙育・揚州刺史是云宝らを率いさせて攻撃させますが、西魏怡峯らに敗れ、さらに趙育是云宝がそれぞれの州で西魏に寝返るという事態になります。(寡兵の宇文貴堯雄らが大敗し、さらに宇文貴怡峯任祥も撃破されたという流れ)
豫州もまた西魏韋孝寛が攻め込んでくると堯雄の配下の郭丞伯程多宝らが寝返って豫州刺史馮邕を捕らえて降伏。この時、堯雄は大梁(梁州、潁州の北)におり、まず部下に程多宝を討ち取らせると、次に行台侯景と共に攻めて潁州で郭丞伯を捕らえ、豫州から趙継宗韋孝寛を追い払い、是云宝らが占拠する項城・南頓も攻め落とし、魯陽の奪還にも参加してまた豫州刺史となりました。
豫州などの奪還は翌538年春のことで、行台任祥・大行台侯景・司徒高昂・大都督万俟受洛干などの大物が多数投入された作戦でした。
東魏は同年秋の「河橋の戦い」で勝利して西魏を追い返しますが高昂の死などの犠牲も大きく、さらには冬に洛陽が再奪還されてしまいます。堯雄はこの戦いには不参加のようですが、再占領した豫州一帯の押さえとして動かせなかったのではないでしょうか。

(ちなみに539年に陳慶之が死去)


『北斉書』巻二十、堯雄伝
雄雖武將,而性質寬厚,治民頗有誠信,為政去煩碎,舉大綱而已。撫養兵民,得其力用,在邊十年,屢有功績,豫人於今懷之。又愛人物,多所施與,賓客往來,禮遺甚厚,亦以此見稱。興和三年,徵還京師,尋領司、冀、瀛、定、齊、青、膠、兗、殷、滄十州士卒十萬人,巡行西南,分守險要。四年,卒於鄴,時年四十四。贈使持節、都督青徐膠三州軍事、大將軍、司徒公、徐州刺史,諡武恭。

堯雄は541年まで豫州を統治した後、首都・鄴に召喚されます。10州の兵10万を西南に配備し、542年に死去。享年44歳。
同年8月に侯景が河南道大行台となり、豫州を中心に河南の広範囲(13州)を管轄するようになりました。

その翌年に東魏はまた西魏の侵攻を受けたところ「邙山の戦い」で大破して洛陽一帯を回収。
そして数年後に侯景による3国を巻き込む大波乱が幕を開けることになります。

タグ:東魏 北魏 西魏 北斉 北周

独孤信の三荊平定2

「独孤信の三荊平定1」の続き。今度は東魏側を見ましょう。

『魏書』巻七十七、辛雄伝、辛纂
永熙三年,除使持節、河內太守。齊獻武王赴洛,兵集城下,纂出城謁王曰:「纂受詔於此,本有禦防。大王忠貞王室,扶奬顛危,纂敢不匍匐。」王曰:「吾志去姦佞,以康國道,河內此言,深得王臣之節。」因命前侍中司馬子如曰:「吾行途疲弊,宜代吾執河內手也。」便入洛。
九月,行西荊州事、兼尚書、南道行臺,尋正刺史。時蠻酋樊五能破析陽郡,應宇文黑獺。纂議欲出軍討之,纂行臺郎中李廣諫曰:「析陽四面無民,唯一城之地耳。山路深險,表裏羣蠻。今若少遣軍,則力不能制賊;多遣,則減徹防衞,根本虛弱。脫不如意,便大挫威名。人情一去,州城難保。」纂曰:「豈得縱賊不討,令其為患日深!」廣曰:「今日之事,唯須萬全。且慮在心腹,何暇疥癬。聞臺軍已破洪威,計不久應至。公但約勒屬城,使各修完壘壁,善撫百姓,以待救兵。雖失析陽,如棄雞肋。」纂曰:「卿言自是一途,我意以為不爾。」遂遣兵攻之,不克而敗,諸將因亡不返。城人又密招西賊,黑獺遣都督獨孤如願率軍潛至,突入州城,遂至廳閤。纂左右惟五六人,短兵接戰,為賊所擒,遂害之。

荊州・穣城を守っていた辛纂孝武帝の河内太守でしたが高歓の南下に応じ、9月に行西荊州事・南道行台、続いて刺史となっていました。
城内の者が独孤信を引き入れたとあり、それが城内突入のきっかけになったとも解釈できそうですが、そもそも派兵の要因だったとも読み取れます。資治通鑑は独孤信が出撃した後に引き入れた話を載せていますが、実際は独孤信の派兵前や穣城制圧直前の出来事かもしれませんね。

辛纂伝から独孤信の侵攻は9月以降なのは確実でしょう。
ただ、「賀抜勝の亡命」で述べたように10月に侯景が荊州を攻め取り賀抜勝は敗れたという情報があります。
少なくとも10月に侯景の荊州攻めか賀抜勝の敗走があると考えると、独孤信の侵攻は10月以降であり、さらに賀抜勝の敗走直後なら侯景高昂らが穣城の近くに居るので、10月上旬に「賀抜勝の敗走」・下旬に「独孤信の侵攻」のように間隔が空いていたはずですね。
間隔が最大のパターンなら8月に「賀抜勝の敗走」、11月に「独孤信の荊州平定」。


さて、辛纂伝の李広の発言には「台軍が洪威を破ったのでもうじき来るはず。今は出撃せずに城を守って待っているべき」という内容があります。
この洪威とは何者でしょうか。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。

高昂と共に穣城の賀拔勝を破った堯雄は三荊を平定して豫州刺史となりました。
そして元洪威が潁州で反乱を起こし、潁川太守邵招を殺した趙継宗がそれに呼応しようとすると堯雄趙継宗を討伐して敗走させます。
さらにまた住民が王長を刺史に立てて反乱を起こし西魏を引き入れると、堯雄侯景と共にこれを平定しました。

「洪威」とはこの元洪威のことでしょう。北魏の傍流宗室だったようです。

『北史』巻十五、魏諸宗室伝、高涼王拓跋孤、元洪威
宣武又以大曹從兄子洪威紹。恭謙好學,為潁川太守,有政績。孝靜初,在潁川聚眾應西魏,齊神武遣將討平之。

宗室伝には、潁川太守だった元洪威孝静帝東魏)の初頭に潁川で挙兵して西魏に通じたところ、高歓の武将に平定されたとあります。
この記述から元洪威孝静帝が即位した後に反乱を起こしたと判断できますね。

堯雄伝の元洪威趙継宗も大統三年(537年)に東魏と戦っており、完全には平定されていませんが、ひとまず潁川からは追い払われたようです。

「潁川の元洪威」はおそらく侯景(・高昂?)・堯雄などによって撃破され、これが李広辛纂に述べた出来事なのでしょう。
孝静帝が即位した10月17日以降の出来事。

『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平元年
冬十月丙寅,即位于城東北,大赦天下,改永熙三年為天平元年。庚午,以太師、趙郡王諶為大司馬,以司空、咸陽王坦為太尉,以開府儀同三司高盛為司徒,以開府儀同三司高昂為司空

同月21日に高昂が司空とされています。

『北斉書』巻二十一、高乾伝、高昂
太昌初,始之冀州。尋加侍中、開府,進爵為侯,邑七百戶。兄乾被殺,乃將十餘騎奔晉陽,歸於高祖。及斛斯椿釁起,高祖南討,令昂為前驅。武帝西遁,昂率五百騎倍道兼行,至於崤陝,不及而還。尋行豫州刺史,仍討三荊諸州不附者,並平之。天平初,除侍中、司空公。昂以兄乾薨於此位,固辭不拜,轉司徒公。

高昂が行豫州刺史を解除され、堯雄が豫州刺史となったのがそのタイミングなのでしょう。そして列伝通りなら堯雄元洪威など(や独孤信?)を討ったのはそれ以降となりますね。

辛纂伝の記述から、「潁川(元洪威)の反乱発生」「析陽の樊五能の乱発生」→「東魏が潁川(元洪威)をひとまず撃破」→「辛纂の析陽討伐(失敗)」→「独孤信の穣城攻撃」→「穣城陥落(辛纂死亡)」という流れが推測できます。独孤信が荊州に到着したのは10月下旬以降?
辛纂の析陽討伐(失敗)」の後に「独孤信の侵攻に対して淅陽で迎撃(失敗)」があると思われるので、独孤信らが迅速に決着をつけていない限りは11月下旬ぐらいに荊州が陥落したと考えても良さそうです。

タグ:西魏 東魏 北周

独孤信の三荊平定1

534年の秋、孝武帝が関中に逃れると南道大行台・荊州刺史の賀抜勝もまた関中に向かおうとします。しかし孝武帝を追っていた高歓が潼関を落とすと賀抜勝は荊州に引き返そうとしますが、既に侯景高昂に押さえられており、敗れた賀抜勝へ亡命しました。
ここから関中側を西魏高歓側を東魏としましょう。

『資治通鑑』巻一百五十六、梁紀十二、中大通六年
魏賀拔勝之在荊州也,表武衛將軍獨孤信為大都督。東魏既取荊州,魏以信為都督三荊州諸軍事、尚書右僕射、東南道行臺、大都督、荊州刺史以招懷之。
蠻酋樊五能攻破淅陽郡以應魏,東魏西荊州刺史辛纂欲討之,行臺郎中李廣諫曰:「淅陽四面無民,唯一城之地,山路深險,表裏群蠻。今少遣兵,則不能制賊;多遣,則根本虛弱;脫不如意,大挫威名,人情一去,州城唑保。」纂曰:「豈可縱賊不討!」廣曰:「今所憂在心腹,何暇治疥癬!聞臺軍不久應至,公但約勒屬城,使完壘撫民以待之,雖失淅陽,不足惜也。」纂不從,遣兵攻之,兵敗,諸將因亡不返。
城民密召獨孤信。信至武陶,東魏遣恆農太守田八能帥群蠻拒信於淅陽,又遣都督張齊民以步騎三千出信之後。信謂其眾曰:「今士卒不滿千人,首尾受敵,若還擊齊民,則土民必謂我退走,必爭來邀我;不如進擊八能,破之,齊民自潰矣。」遂擊破八能,乘勝襲穰城;辛纂勒兵出戰,大敗,還趣城。門未及闔,信令都督武川楊忠為前驅,忠叱門者曰:「大軍已至,城中有應,爾等求生,何不避走!」門者皆散。忠帥眾入城,斬纂以徇,城中懾服。信分兵定三荊。居半歲,東魏高敖曹、侯景將兵奄至城下,信兵少不敵,與楊忠皆來奔。

この時、荊州の賀抜勝の下で南征にも参加していた独孤信孝武帝に合流して関中に居ました。
荊州が陥落すると、西魏独孤信を東南道行台・荊州刺史として送り込みます。
一方、東魏の西荊州刺史辛纂は蛮の樊五能西魏に呼応して淅陽郡を攻めると、行台郎中李広の反対に従わず樊五能を討ち、敗北していました。
(淅陽郡は荊州の関中側・西北側の近くにある郡)

独孤信が武陶(淅陽の西北の武関?)まで進軍すると、東魏は恒農太守田八能と群蛮に淅陽で防がせ、都督張斉民と歩騎3千を独孤信の後背に出し、前後で挟撃させます。この時、独孤信の兵は1千未満だったようですが、前進を選び田八能を撃破、穣城(荊州の治所)まで進み、迎撃に出た辛纂も大破します。そして東魏軍が逃げ込んだ穣城の城門が閉まる前に独孤信の先鋒の楊忠が追いつき、辛纂を城内で斬って制圧しました。
独孤信はさらに諸軍に三荊一帯を制圧させますが、半年ほどして東魏高昂侯景らに攻められると独孤信らは寡兵で敵わず梁に逃げ込みました。

533年の南征でを苦しめた賀抜勝独孤信もまとめてに亡命したというのも奇妙な話です。


さて、資治通鑑ではの中大通六年(534年)の最後の記事に「独孤信の三荊平定」を載せています。年末か年内の時期不明の出来事ということなのでしょう。

『周書』巻十六、独孤信伝
尋徵信入朝,魏孝武雅相委任。
及孝武西遷,事起倉卒,信單騎及之於瀍澗。孝武歎曰:「武衞遂能辭父母,捐妻子,遠來從我。世亂識貞良,豈虛言哉。」即賜信御馬一疋,進爵浮陽郡公,邑一千戶。
時荊州雖陷東魏,民心猶戀本朝。乃以信為衞大將軍、都督三荊州諸軍事,兼尚書右僕射、東南道行臺、大都督、荊州刺史以招懷之。信至武陶,東魏遣其弘農郡守田八能,率蠻左之眾,拒信於淅陽;又遣其都督張齊民,以步騎三千出信之後。信謂其眾曰:「今我士卒不滿千人,而首尾受敵。若卻擊齊民,則敵人謂為退走,必來要截。未若先破八能。」遂奮擊,八能敗而齊民亦潰。信乘勝襲荊州。東魏刺史辛纂勒兵出戰。士庶既懷信遺惠,信臨陣喻之,莫不解體。因而縱兵擊之,纂大敗,奔城趨門,未及闔,信都督楊忠等前驅斬纂。語在忠傳。於是三荊遂定。就拜車騎大將軍、儀同三司。
東魏又遣其將高敖曹、侯景等率眾奄至。信以眾寡不敵,遂率麾下奔梁。居三載,梁武帝方始許信還北。信父母既在山東,梁武帝問信所往,信答以事君無二。梁武帝深義之,禮送甚厚。
大統三年秋,至長安。自以虧損國威,上書謝罪。

ところが、独孤信に(足掛け)3年滞在した後、大統三年(537年)に帰国しています。つまり、への亡命は535年のはず。

『北史』巻五、西魏文帝紀、大統元年
大統元年春正月戊申,皇帝即位於城西,大赦,改元。追尊皇考為文景皇帝,皇妣楊氏為皇后。己酉,進丞相、略陽公宇文泰都督中外諸軍、錄尚書事、大行臺,改封安定郡公。以尚書令斛斯椿為太保,廣平王贊為司徒。乙卯,立妃乙氏為皇后,立皇子欽為皇太子。甲子,以廣陵王欣為太傅,以儀同三司万俟壽樂干為司空。東魏將侯景攻陷荊州。二月,前南青州刺史大野拔斬兗州刺史樊子鵠,以州降東魏。

西魏側の記録でも東魏が荊州を落としたのを大統元年(535年)としています。

なお、列伝には荊州で独孤信がまだ慕われていたことから説得により荊州軍が揺らいでいたことが書かれていますね。


『周書』巻十九、楊忠伝
從獨孤信破梁下溠戍,平南陽,並有功。
及齊神武舉兵內侮,忠時隨信在洛,遂從魏孝武西遷,進爵為侯。仍從平潼關,破回洛城。除安西將軍、銀青光祿大夫。東魏荊州刺史辛纂據穰城,忠從獨孤信討之,纂戰敗退走。信令忠與都督康洛兒、元長生為前驅,馳至其城,叱門者曰:「今大軍已至,城中有應,爾等求活,何不避走!」門者盡散。忠與洛兒、長生乘城而入,彎弓大呼,纂兵衞百餘人莫之敢禦,斬纂以狥,城中懾服。居半歲,以東魏之逼,與信奔梁。梁武帝深奇之,以為文德主帥、關外侯。
大統三年,與信俱歸闕。太祖召居帳下。


『周書』巻二十九、宇文虬伝
魏孝武初,從獨孤信在荊州,破梁人於下溠,遂平歐陽、酇城。虬俘獲甚多。又攻南陽、廣平二城,擒郡守一人。以功加安西將軍、銀青光祿大夫、員外、直閤將軍、閤內都督,封南安縣侯,邑九百戶。及孝武西遷,以獨孤信為行臺,信引虬為帳內都督。破田八能及擒東魏荊州刺史辛纂,虬功居多。尋隨信奔梁。
大統三年,歸闕。朝廷論前後功,增邑四百戶,進爵為公。

その独孤信のもとには楊忠宇文虬がいました。この二人は独孤信と同郷で南征時も同行しており、その後の入朝や関中への移動、そしてこの三荊平定まで基本的にずっと独孤信と共に行動していたようです。
そして仲良く揃ってへ亡命し、一緒に帰国。

官位では宇文虬が先行していますが、この戦いでは楊忠康洛児元長生らと共に穣城突入と辛纂平定と目立つ戦果を挙げていますね。

そして列伝には楊忠は潼関奪還に参加してから独孤信と共に荊州を攻めたとあります。
潼関奪還は9月末(以降)。独孤信の作戦は早くても冬10月に始まったか、楊忠が途中から合流したのでしょう。(楊忠宇文虬と違い、道中で田八能と戦ったかどうか不明)
終了も10月以降のはず。

10月平定なら閏12月があるので、翌年1月までに足掛け5ヶ月。「居半歲」にちょうど良さそうな長さです。
「居半歲」には最低でも足掛け4ヶ月がほしいので、穣城平定の下限は11月ですね。

独孤信らは10月か11月から翌年初頭まで荊州を占領していたという認識で大きく外れることはないでしょう。

タグ:東魏 西魏 北周

南安侯蕭恬の余談2

蕭恬の兄弟の蕭循は後に漢中(梁州)から色々あって元帝・蕭繹に合流しており、また侯景に一時的に捕まっていた蕭泰もまた合流に成功しています(こちらの方が先)。

『南史』巻五十二、梁宗室伝下、鄱陽忠烈王蕭恢、蕭循
時王子侯多為近畿小郡,曆試有績,乃得出為邊州。帝以脩識量宏達,自衞尉出鎮鍾離,徙為梁、秦二州刺史。在漢中七年,移風改俗,人號慈父。

蕭循は宗室中でも特に優秀であり、太守などを挟まずに衛尉→北徐州刺史→梁秦二州刺史と転任。
元帝の下でも任用され、江陵が陥落し陳覇先が権力を得た後にも太保まで登った生き残り宗室の最重鎮の一人。

『陳書』巻十三、周敷伝
時觀寧侯蕭永、長樂侯蕭基、豐城侯蕭泰避難流寓,聞敷信義,皆往依之。敷愍其危懼,屈體崇敬,厚加給䘏,送之西上。

蕭泰蕭永らと共に周敷の助けを得て西に逃れることができたそうです。
蕭恬はどうなったのでしょうか・・・)

『資治通鑑』巻一百六十六、梁紀二十二、太平元年
八月,己酉,鄱陽王循卒於江夏,弟豐城侯泰監郢州事。(中略)
十一月,辛丑,豐城侯泰奔齊,齊以為永州刺史。

色々あった末に556年に蕭循が死ぬと、その弟の蕭泰が代わって江夏(郢州)に割拠し、王琳に敗れた後に北斉に亡命。

『周書』巻四十二、蕭世怡伝
蕭世怡,梁武帝弟鄱陽王恢之子也。以名犯太祖諱,故稱字焉。

蕭泰はさらに西魏に降伏し、そのまま北周にも仕えるという数奇な運命をたどりました。
(そこでは宇文泰の避諱として字を名乗ることに)

蕭恬が仮に蕭繹に合流していたとしても、(味方か敵により)で死んでいても、北斉西魏北周で死んでいてもおかしくはないという非常に混沌とした時代でした。
蕭繹に合流できずに侯景側に殺された可能性もありますが。
(なお、蕭恬の年齢は550年時点で25歳~51歳)

ちなみに、彼らの兄の蕭諮は交州刺史(「李賁の乱」の原因)や衛尉を務め、傀儡の簡文帝に近侍して侯景一党により殺された人物。550年10月没。
また、兄弟の蕭退陳慶之の援軍に送られたり、青冀二州刺史となったりしましたが、侯景に勝てずに東魏に亡命し、北斉に仕えたという人物。

多様な展開を迎えた兄弟達ですね。

タグ: 北斉 北周

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム