東魏の堯雄

『魏書』巻四十二、堯暄伝
堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。
暄聰了,美容貌,為千人軍將、東宮吏。高宗以其恭謹,擢為中散。奉使齊州,檢平原鎮將及長史貪暴事,推情診理,皆得其實。除太尉中給事、兼北部曹事,後轉南部。太和中,遷南部尚書。于時始立三長,暄為東道十三州使,更比戶籍。賜獨車一乘,廐馬四匹。時蕭賾遣其將陳顯達寇邊,以暄為使持節、假中護軍、都督南征諸軍事、平陽公。軍次許昌,會陳顯達遁走,暄乃班師。暄前後從征及出使檢察三十餘許度,皆有克己奉公之稱。賞賜衣服二十具、綵絹十匹、細絹千餘段、奴婢十口,賜爵平陽伯。及改置百官,授太僕卿。車駕南征,加安南將軍。轉大司農卿。太和十九年,卒於平城。高祖為之舉哀。贈安北將軍、相州刺史,賻帛七百匹。
初,暄使徐州,見州城樓觀,嫌其華盛,乃令往往毀撤,由是後更損落。及高祖幸彭城,聞之曰:「暄猶可追斬。」
暄長子洪,襲爵。鎮北府錄事參軍。
子桀,字永壽。元象中,開府儀同三司、樂城縣開國公。
洪弟遵,伏波將軍、河州冠軍府長史、臨洮太守。卒,贈龍驤將軍,諡曰思。
遵弟榮,員外散騎侍郎。
子雄,字休武。元象中,儀同三司、豫州刺史、城平縣開國公。
雄弟奮,字彥舉。興和中,驃騎將軍、潁州刺史。
奮弟難宗,武定中,征西將軍、南岐州刺史、征羌縣開國伯。


堯雄は上党・長子の出身。東魏諸将の中では特に内地側の出身ですね。
高祖父は北魏道武帝後燕に侵攻した後から仕え、祖父の堯暄孝文帝の南征に従軍して最後は九卿に登ったという人物でした。
堯暄の長男の子の堯桀堯雄の従兄。
堯暄の子が堯雄堯奮堯難宗。4人とも東魏に仕えました。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
堯雄,字休武,上黨長子人也。祖暄,魏司農卿。父榮,員外侍郎。雄少驍果,善騎射,輕財重氣,為時輩所重。永安中,拜宣威將軍、給事中、持節慰勞恒燕朔三州大使。仍為都督,從叱列延討劉靈助,平之,拜鎮東將軍、燕州刺史,封城平縣伯,邑五百戶。
義旗初建,雄隨尒朱兆敗於廣阿,遂率所部據定州以歸高祖。時雄從兄傑,尒朱兆用為滄州刺史,至瀛州,知兆敗,亦遣使歸降。高祖以其兄弟俱有誠欵,便留傑行瀛州事。尋以雄為車騎大將軍、瀛州刺史以代傑,進爵為公,增邑五百戶。于時禁網疏闊,官司相與聚斂,唯雄義然後取,復能接下以寬恩,甚為吏民所懷附。

堯雄は当初は北魏孝荘帝に仕えて恒燕朔三州大使となり、(孝荘帝死後の)531年春に定州で劉霊助を討ち、燕州刺史となり城平県伯に封爵。この頃は洛陽以北、特に河北で活動していました。
劉霊助平定では堯雄は都督恒雲燕朔・山東行台の叱列延慶の下で参戦し、他に定州刺史侯淵が参加していました)
その夏に高歓が冀州で挙兵し、西南の広阿(殷州)を制圧。秋に并州から東進した爾朱兆が殷州を奪還し、冬に両軍が衝突。爾朱兆は号10万の大軍を率いましたが猜疑心により他の同族から支援が得られず、高歓に大破されました。
侯淵堯雄兄弟は爾朱兆側で参戦していましたが、ここで敗れると北隣の定州に戻って州ごと高歓に降伏。また従兄の堯桀も東隣の瀛州で高歓に帰順し、堯雄は瀛州刺史・城平県公とされます。
時に33歳。
彼らが冀州の北ごと高歓に降ったので、高歓がそのまま南下して爾朱氏らとの戦いに専念できたわけですから、大きな役割を果たしたといえるでしょう。

高歓は532年に爾朱氏を倒し、孝武帝を擁立して北魏で大権を掌握。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。

534年夏~秋に高歓孝武帝が決裂した際には、堯雄は瀛州刺史を離任していたものの并州刺史や相州刺史の軍勢と行動を共にする立場だったらしく、晋陽~鄴の辺りにいたようです。
秋に孝武帝が西の関中に逃れると高歓は洛陽を制圧して西にも対応しつつ、侯景高昂らに南の荊州刺史賀抜勝を討たせました。堯雄も三荊の平定に参加し、それから二豫揚郢四州都督・豫州刺史となります。
(豫州を拠点とし、南の東豫州、東?の揚州、南の郢州などに接する地域を管轄)
534年冬に東魏が成立。
そこから「独孤信の三荊平定2」で述べたように(豫州の北の)潁州の「元洪威の乱」で潁川で趙継宗が挙兵すると堯雄が討伐。
東魏初頭、豫州の西北にある洛陽南側の山岳地帯には西魏側につく勢力がおり、慕容紹宗らが討伐したものの滅ぼすことができていませんでした。また黄河以南はさらに東の地域にも反乱者が何度が発生しており、そこにの北伐が加わって不安定な情勢でした。

534年末に始まったの北伐。元慶和を擁して進められ、半年以上続きました。
李洪芝王当伯が平郷城を破って豫州に侵攻して来たところを堯雄が伏兵で一網打尽にしたというのは、その北伐軍との戦いの一貫でしょう。
平郷は南頓のすぐ西にある地名であり、豫州治所の懸瓠城の東北側。李洪芝らは項城(南頓の東隣の前線)を制圧した湛僧智らの先鋒だったのでしょう。
続いて陳慶之が州城に迫ると、堯雄は出撃して戦い「所向披靡」(向かう所敵なし/当たるを幸いなぎ倒す)のような奮戦で堯雄自身が2箇所負傷したものの勢いは凄まじく、陳慶之は敗れて輜重を捨てて逃走。
帝紀では535年2月21日に「蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。」とあり、この時のことでしょう。
そして元慶和を魏王として南境に侵攻すると、堯雄は軍を率いて元慶和を討ち、南頓で大破しました。帝紀では6月に「元慶和寇南豫州,刺史堯雄大破之。」とありますが、正しくは「元慶和寇南頓,豫州刺史堯雄大破之。」なのでしょう。
列伝ではこれらを一連の戦いの別個のように書いていますが、すべて「元慶和の北伐」に関するものですね。

この年の堯雄は「州城」、豫州治所の懸瓠城と南頓を短期間で往復して戦っていたようです。
時に36歳。(陳慶之は52歳)

また陳慶之が南荊州を包囲すると、堯雄は「の北面重鎮」である白苟堆が手薄であるとして攻撃をかけ、陳慶之に南荊州を諦めて白苟堆の救援に向かわせた上、536年5月に陥落させました。
(列伝の記述の位置は間違いでしょう)
そして冬の行台侯景の楚城(楚州)制圧にも参加。ただ、直後にこの軍は陳慶之に敗れ、輜重を捨てて逃走することになりました。
堯雄は転任するところを、豫州民が上書して刺史としての留任を求めたため、堯雄はまた行豫州事とされました。

この年の終わりから東魏の間で使者の往来と和議が始まります。そして翌年から西魏との戦いに突入。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。育,寶各還本州,據城降敵。雄收集散卒,保大梁。周文帝因延敬之敗,遣其右丞韋孝寬等攻豫州。雄都督郭丞伯、程多寶等舉豫州降敵,執刺史馮邕並家屬及部下妻子數千口,欲送之長安。至樂口,雄外兵參軍王恒伽、都督赫連儁等數十騎從大梁邀之,斬多寶,拔雄等家口還大梁。西魏以丞伯為潁川太守,雄仍與行臺侯景討之。雄別攻破樂口,擒丞伯。進討懸瓠,逐西魏刺史趙繼宗、韋孝寬等。復以雄行豫州事。西魏以是云寶為揚州刺史,據項城;義州刺史韓顯據南頓。雄復率眾攻之,一日拔其二城,擒顯及長史丘岳,寶遁走,獲其妻妾將吏二千人,皆傳送京師。加驃騎大將軍。仍隨侯景平魯陽,除豫州刺史。

537年春、西魏に侵攻した高歓の主力・竇泰が敗死。冬、高歓は再び攻め込みますが「沙苑の戦い」で大敗。西魏は逆侵攻し、独孤信らが洛陽を制圧。
そこへ潁州長史賀若統が潁州刺史田迅を捕らえて西魏に呼応。東魏は行台任祥堯雄・広州刺史趙育・揚州刺史是云宝らを率いさせて攻撃させますが、西魏怡峯らに敗れ、さらに趙育是云宝がそれぞれの州で西魏に寝返るという事態になります。(寡兵の宇文貴堯雄らが大敗し、さらに宇文貴怡峯任祥も撃破されたという流れ)
豫州もまた西魏韋孝寛が攻め込んでくると堯雄の配下の郭丞伯程多宝らが寝返って豫州刺史馮邕を捕らえて降伏。この時、堯雄は大梁(梁州、潁州の北)におり、まず部下に程多宝を討ち取らせると、次に行台侯景と共に攻めて潁州で郭丞伯を捕らえ、豫州から趙継宗韋孝寛を追い払い、是云宝らが占拠する項城・南頓も攻め落とし、魯陽の奪還にも参加してまた豫州刺史となりました。
豫州などの奪還は翌538年春のことで、行台任祥・大行台侯景・司徒高昂・大都督万俟受洛干などの大物が多数投入された作戦でした。
東魏は同年秋の「河橋の戦い」で勝利して西魏を追い返しますが高昂の死などの犠牲も大きく、さらには冬に洛陽が再奪還されてしまいます。堯雄はこの戦いには不参加のようですが、再占領した豫州一帯の押さえとして動かせなかったのではないでしょうか。

(ちなみに539年に陳慶之が死去)


『北斉書』巻二十、堯雄伝
雄雖武將,而性質寬厚,治民頗有誠信,為政去煩碎,舉大綱而已。撫養兵民,得其力用,在邊十年,屢有功績,豫人於今懷之。又愛人物,多所施與,賓客往來,禮遺甚厚,亦以此見稱。興和三年,徵還京師,尋領司、冀、瀛、定、齊、青、膠、兗、殷、滄十州士卒十萬人,巡行西南,分守險要。四年,卒於鄴,時年四十四。贈使持節、都督青徐膠三州軍事、大將軍、司徒公、徐州刺史,諡武恭。

堯雄は541年まで豫州を統治した後、首都・鄴に召喚されます。10州の兵10万を西南に配備し、542年に死去。享年44歳。
同年8月に侯景が河南道大行台となり、豫州を中心に河南の広範囲(13州)を管轄するようになりました。

その翌年に東魏はまた西魏の侵攻を受けたところ「邙山の戦い」で大破して洛陽一帯を回収。
そして数年後に侯景による3国を巻き込む大波乱が幕を開けることになります。

タグ:東魏 北魏 西魏 北斉 北周

元慶和の北伐

527年の北伐では陳慶之らが「渦陽の戦い」で北魏を大破した他、東西で成景儁・蘭欽や湛僧智・夏侯夔ら諸軍が勝利し、梁は複数の州を獲得・設置しました。
この時に降伏した者の中に、北魏の傍流皇族の元慶和がいました。

534年10月、はその元慶和を総大将として北伐を開始。

『梁書』巻三、武帝紀下、中大通六年
冬十月丁卯,以信武將軍元慶和為鎮北將軍,率眾北伐。


『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平元年
十有一月,兗州刺史樊子鵠、南青州刺史大野拔據瑕丘反。(中略)
閏月,蕭衍以元慶和為鎮北將軍、魏王,入據平瀨鄉。宇文黑獺既害出帝,乃以南陽王寶炬僭尊號。

元慶和は「魏王」に立てられ、閏12月には東魏の領内の「平瀨郷」を占拠しました。

この時、東魏高歓主導で10月に成立したばかりであり、さらに11月に大物の樊子鵠が瑕丘(兗州)で反乱を起こし、また西方の関中では宇文泰を中心とする西魏が形成されていました。


いずれも放置できない相手ですが、翌年に高歓西魏方面や山胡の劉蠡升などの西側に対応し、その後も西北の晋陽に留まります。

『北史』巻六、斉神武帝紀、天平二年
二年正月,西魏渭州刺史可朱渾道元擁眾內屬,神武迎納之。壬戌,神武襲擊劉蠡升,大破之。己巳,魏帝褒詔,以神武為相國,假黃鉞,劍履上殿,入朝不趨,神武固辭。
三月,神武欲以女妻蠡升太子,候其不設備,辛酉,潛師襲之。其北部王斬蠡升首以送,其眾復立其子南海王。神武進擊之,又獲南海王,及其弟西海王、北海王、皇后、公卿已下四百餘人,胡、魏五萬戶。壬申,神武朝于鄴。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
(正月)己巳,東魏以丞相歡為相國,假黃鉞,殊禮;固辭。
東魏大行臺尚書司馬子如帥大都督竇泰、太州刺史韓軌等攻潼關,魏丞相泰軍于霸上。子如與軌回軍,從蒲津宵濟,攻華州。(中略)子如等遂引去。


『北史』巻五、西魏文帝紀、大統元年
大統元年春正月戊申,皇帝即位於城西,大赦,改元。(中略)東魏將侯景攻陷荊州。
二月,前南青州刺史大野拔斬兗州刺史樊子鵠,以州降東魏。


その535年1月時点で大行台尚書司馬子如竇泰韓軌を率いて潼関などで西魏と戦ったり(まもなく撤退)、侯景高昂らが荊州を制圧したりしており、大物や主力は西側に注力していました。


『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平二年
二年春正月,寶炬渭州刺史可朱渾道元擁部來降,齊獻武王迎納之,賑其廩食。(中略)乙亥,兼尚書右僕射、東南道行臺元晏討元慶和 ,破走之。
二月(中略)己丑,前南青州刺史大野拔斬樊子鵠以降,兗州平。戊戌,蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。
三月(中略)齊獻武王討平山胡劉蠡升,斬之。(中略)
夏四月,前青州刺史侯淵反,攻掠青齊。癸未,濟州刺史蔡儁討平之。


一方、元慶和に対しては東南道行台元晏らが討伐し、535年1月には撃破。
2月に樊子鵠も平定。また、この月にの司州刺史陳慶之が豫州に侵攻し、東魏の豫州刺史の堯雄が撃退したという出来事もありました。

『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
二年正月,衍將湛僧珍寇南兗州,州軍擊破之。行臺元晏又破湛僧珍等於項城,虜其・・刺史楊㬓。二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。

より詳細を見ると、南兗州に侵攻した湛僧智を州軍が撃破し、また行台元晏湛僧智らを項城で破り刺史を捕らえる戦果を挙げていました。
の主力は湛僧智であり、豫州と徐州の間の地域を攻撃していたようですね。(南兗州の西南に項城)

4月に蔡儁が東部の侯淵の乱を平定。

『北斉書』巻十九、蔡儁伝
天平中,為都督,隨領軍婁昭攻樊子鵠於兗州,又與行臺元子思討元慶和,俱平之。侯深反,復以儁為大都督,率眾討之,深敗走。

蔡儁婁昭の下で樊子鵠を討ち、また行台元子思と共に元慶和と戦い、さらに侯淵を討伐していました。
侯淵は青州方面、樊子鵠はその西の兗州で反乱を起こしており、兗州との間には徐州があるという立地)
投入された「2人目」の行台の元子思は、2月か3月に東寄り(徐州と南兗州の中間)で元慶和(北伐軍)と交戦したのでしょう。


どうやら元慶和の北伐は数州にまたがる広範囲なものであり、さらに何度か撃破したこの時点でもなお東魏を脅かしていたようです。

『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
東魏以封延之為青州刺史,代侯淵。淵既失州任而懼,行及廣川,遂反,夜,襲青州南郭,劫掠郡縣。夏,四月,丞相歡使濟州刺史蔡儁討之。淵部下多叛,淵欲南奔,於道為賣漿者所斬,送首於鄴。
元慶和攻東魏城父,丞相歡遣高敖曹帥三萬人趣項,竇泰帥三萬人趣城父,侯景帥三萬人趣彭城,以任祥為東南道行臺僕射,節度諸軍。
五月,魏加丞相泰柱國。
元慶和引兵逼東魏南兗州,東魏洛州刺史韓賢拒之。
六月,慶和攻南頓,豫州刺史堯雄破之。


4月の段階で元慶和(北伐軍)は城父(南兗州の南部)を攻撃していたことから、東魏高昂と兵3万を項(揚州)へ、竇泰と兵3万を城父(南兗州)へ、侯景と兵3万を彭城(徐州)へ向かわせ、任祥を東南道行台僕射として諸軍を節度させました。
「東南道行台」は任祥に交代したようですね。

そして翌5月に元慶和(北伐軍)が南兗州に侵攻すると、洛州刺史韓賢が防衛に出たとあります。洛州の任地はいささか離れており、むしろ西魏方面の要の一つ。
年初に西魏に対処していた高昂竇泰侯景という主力3人を揃えて投入しており、「正史には明記されていない」東魏側の危機感が伝わってきますね。

『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
五月,衍仁州刺史黃道始寇北濟陰,徐州刺史任祥討破之。

別の記録では、同5月に(行台僕射・)徐州刺史の任祥が北済陰(徐州西北部)に攻め込んできたの仁州刺史を撃破したとあります。

6月には南頓(項城の西)を攻め込んできた元慶和(北伐軍)を堯雄が撃破。

『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平二年
六月,元慶和寇南豫州,刺史堯雄大破之。

帝紀では「南豫州」を攻めてきたので大破。

この頃でも複数の州での攻防・臨戦態勢が並行して続いていたようです。


『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
十月,衍將梁秉儁寇單父,祥又大敗之,俘斬萬餘人。十一月,衍雍州刺史蕭恭遣將柳仲禮寇荊州,刺史王元軌破之於牛飲,斬其將張殖、王世興。


『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平二年
八月(中略)甲午,發眾七萬六千人營新宮。(中略)
冬十有一月丁未,蕭衍將柳仲禮寇荊州,刺史王元擊破之。

冬に入ってもは侵攻しており、10月に任祥が単父(北済陰)でを大破し、11月に荊州刺史王則が攻め込んできた雍州軍の柳仲礼を撃破しています。

早く西魏攻撃に注力したかったであろう東魏にとって1年にも及ぶ広範なの北伐は非常に迷惑だったことでしょう。
ただ、8月に僕射高隆之らにより首都・鄴の大規模な増改築が実施されており、秋には脅威度が下がっていたのかもしれません。
元慶和の本隊が撤退し、散発的な攻撃に移行?)

タグ: 東魏 北斉

陳慶之vs東魏2

まず、陳慶之東魏の「4つの戦い」の時系列を整理してみましょう。
「楚州を落とした侯景7万の撃破」は陳慶之伝に「大同二年(536年)」とあり、「懸瓠・溱水・楚城の戦い」は列伝にある「中大通二年(530年)」から536年までの間の出来事となるでしょう。

『資治通鑑』巻一百五十四、梁紀十、中大通二年
是歲,詔以陳慶之為都督南、北司等四州諸軍事、南、北司二州刺史。慶之引兵圍魏懸瓠,破魏潁州刺史婁起等於溱水,又破行臺孫騰等於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸漕運,江、湖諸州並得休息;開田六千頃,二年之後,倉廩充實。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同二年
九月,壬寅,東魏以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,督諸將入寇。
魏以扶風王孚為司徒,斛斯椿為太傅。
冬,十月,乙亥,詔大舉伐東魏。東魏侯景將兵七萬寇楚州,虜刺史桓和;進軍淮上,南、北司二州刺史陳慶之擊破之,景棄輜重走。十一月,己亥,罷北伐之師。



資治通鑑でも同様。ただ、注釈では「并、冀、殷、相の辺りに居た孫騰」と中大通二年(530年)時点で戦っているはずがないので時期はここではないとツッコまれていますね。
堯雄が豫州刺史となるのは534年の賀抜勝撃破後なので、同年の東魏成立以降なのはほぼ確実でしょう。(それ以前は河北で活動しています)

それとさらっと書かれていますが侯景を撃破する前に南北が遠征軍を動員しており、陳慶之が勝っていなければそのまま衝突していていたようですね。(資治通鑑の書き方は侯景の南征に対してが北伐軍を動員し、陳慶之が勝ったので中止となったというものです)


それでは堯雄伝の2つの戦いはどうでしょうか。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。


『北史』巻二十七、堯喧伝、堯雄
魏孝武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城,仍除豫州刺史。元洪威據潁川叛,叛人趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,北應洪威。雄討之,繼宗敗走。城內因雄之出,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。
梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,雄並禽之。又破梁司州刺史陳慶之,復圍南荊州。東救未至,雄陷其城。梁以元慶和為魏王,侵擾南境,雄大破之於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州人上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。
潁州長史賀若統執刺史田迅,據州降西魏。詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是寶,隨行臺任祥攻之。西魏將怡鋒敗祥等,育、寶各還,據城降敵。

列伝では、堯雄賀抜勝や三荊の討伐の後に豫州刺史となり、「潁川の元洪威の反乱」による趙継宗などの反乱者を撃破し、李洪芝王当伯が侵攻して来ると迎撃して捕らえ、「陳慶之との戦い」があり、元慶和を南頓で破り、行台侯景と共にの楚城を破り、豫州の民が希望によりまた行豫州事となり、潁州長史賀若徽の反乱が起きると広州刺史趙育・揚州刺史是云宝・行台任祥と共に討伐に向かうも西魏怡鋒らに敗れたという流れです。

趙継宗らの討伐や李洪芝らとの戦いの後、元慶和との戦いや侯景の楚城攻撃より前に「陳慶之との戦い」×2が載っています。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
(二月)戊戌,司州刺史陳慶之伐東魏,與豫州刺史堯雄戰,不利而還。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
五月,魏加丞相泰柱國。
元慶和引兵逼東魏南兗州,東魏洛州刺史韓賢拒之。六月,慶和攻南頓,豫州刺史堯雄破之。

どうやら「堯雄陳慶之撃退」は大同元年(535年)2月のようです。
同年6月に堯雄元慶和との戦い。

よって、「陳慶之の南荊州攻めと堯雄の白苟堆攻め」は2月~6月の出来事となるはずですが・・・。

『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
(天平二年)二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。(中略)三年五月,豫州刺史堯雄攻衍白苟堆鎮,克之,擒其北平太守苟元曠。十月,行臺侯景攻陷衍楚城,獲其楚州刺史桓和兄弟。

堯雄が苟堆鎮を攻め、攻略し、苟元曠を捕らえたのは536年(天平三年)5月の出来事という情報があります。

堯雄伝の2度目の陳慶之への対応の記述の位置がおかしい?
記述では「後慶之復圍南荊州」とあるので、後にまた陳慶之に対処することになった戦いをまとめて載せたということなのでしょうか。
具体的な年月の記述の方が列伝の記述順よりも確度が大体勝るので、最も妥当な案。

それとも本当は「天平二年(535年)」5月の出来事だったものが、手違いにより翌年に挿入されたというパターン?
翌月に南頓まで取って返して元慶和を撃破する必要があるので、可能ですが慌ただしいスケジュールとなります。
とりあえず、「天平三年(536年)」説を優先して考えましょう。


陳慶之東魏の戦いの主な時系列は、以下の通り。
534年冬以降、「懸瓠・溱水・楚城の戦い」
535年2月、「堯雄の陳慶之撃退」
536年5月、「陳慶之の南荊州攻めと堯雄の白苟堆攻め」
536年10月、「楚州を落とした侯景7万の撃破」

タグ: 東魏 北斉

陳慶之vs東魏1

陳慶之は洛陽を落とした北伐の後、北兗州刺史として「僧強の乱」を平定し、また司州刺史として東魏と戦いました。そして陳慶之は司州刺史のまま死去。記録上は東魏が最後に交戦した相手となるでしょう。

この東魏との戦いであの侯景を破っており、一方で「堯雄に負けた」という話もあります。
そんな「東魏との戦い」について見ていきましょう。

『梁書』巻三十二、陳慶之伝
中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。慶之至鎮,遂圍懸瓠。破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是云寶於溱水,又破行臺孫騰、大都督侯進、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸轉運,江湖諸州並得休息。開田六千頃,二年之後,倉廩充實。高祖每嘉勞之。又表省南司州,復安陸郡,置上明郡。
大同二年,魏遣將侯景率眾七萬寇楚州,刺史桓和陷沒,景仍進軍淮上,貽慶之書使降。敕遣湘潭侯退、右衞夏侯夔等赴援,軍至黎漿,慶之已擊破景。時大寒雪,景棄輜重走,慶之收之以歸。進號仁威將軍。是歲,豫州饑,慶之開倉賑給,多所全濟。州民李昇等八百人表請樹碑頌德,詔許焉。五年十月,卒,時年五十六。


『南史』巻六十一、陳慶之伝
中大通二年,除南北司二州刺史,加都督。慶之至鎮,遂圍縣瓠,破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是云寶於溱水。又破行臺孫騰、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸轉運,江湘諸州並得休息。開田六千頃,二年之後,倉廩充實。又表省南司州,復安陸郡,置上明郡。
大同二年,魏遣將侯景攻下楚州,執刺史桓和。景仍進軍淮上,慶之破之。時大寒雪,景棄輜重走。是歲豫州饑,慶之開倉振給,多所全濟。州人李昇等八百人表求樹碑頌德,詔許焉。五年卒,諡曰武。

梁書・南史とも陳慶之が南北司二州刺史として着任した最初の出来事として、「懸瓠を包囲した」ことを載せています。続いて「魏の潁州刺史婁起と揚州刺史是云宝を溱水で破った」、また「行台孫騰・豫州刺史堯雄・梁州刺史司馬恭を楚城で破った」とも書いています。
相違点は「楚城で破った相手」の中に梁書では大都督侯進もいることですね。(南史で削られたのか、梁書に間違って入っているだけなのか)

孫騰堯雄は列伝のある大物。是云宝司馬恭は何度か史書に登場する人物。婁起侯進は不明。

懸瓠は(北魏東魏の)豫州の治所。
溱水は豫州の西南の地域。(懸瓠のすぐ南で汝水に合流する河川で、そこから西南、途中から西北に伸びて東荊州の東端に向かうものです)
楚城は溱水から南下した先の淮水の北岸にあります。(その南岸近くには北司州の治所である義陽があります)
戦場が南下していますね。


次の戦いは「大同二年(536年)」に侯景が楚州を攻め落として楚州刺史桓和を捕らえ、淮上に進軍したところを陳慶之が撃破し、大寒雪の中を侯景は輜重を捨てて逃走したというものです。

梁書ではそれに加えて、「侯景の兵力が7万」、「侯景は淮上に進軍すると陳慶之に降伏を勧める書簡を送った」、「は湘潭侯蕭退・右衛将軍夏侯夔らを援軍に向かわせたが、援軍が黎漿まで進んだところで陳慶之は既に侯景を撃破していた」、「陳慶之侯景が捨てた輜重を回収して帰還」という情報が挟まっています。


一方の東魏側の記録はどうでしょうか。列伝で陳慶之と戦った情報があるのは堯雄伝だけです。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。

陳慶之との戦いだけを抜き出すと「の司州刺史陳慶之が州城に迫ると、堯雄は出撃して負傷しつつも奮戦し、陳慶之は輜重を捨てて逃走した」というものが1つ目。
2つ目は「陳慶之が南荊州を包囲すると、堯雄の要所の白苟堆を襲えば勝てる上に荊州の包囲も解けると判断して攻め、陳慶之が荊州からやって来たものの到着前に堯雄が城を落としての鎮将苟元広と兵2千人を捕らえた」というもの。

『北史』巻二十七、堯喧伝、堯雄
又破梁司州刺史陳慶之,復圍南荊州。東救未至,雄陷其城。

北史では非常にシンプルな上、「堯雄が南荊州を包囲して東からの救援が到着する前にその城を落とした」という別の内容まで載っています。(校勘などでこれは北斉書の内容を勘違いして書いたものだろうとツッコんでいますね)


「懸瓠・溱水・楚城の戦い」
「楚州を落とした侯景7万の撃破」
「堯雄の陳慶之撃退」
「陳慶之の南荊州攻めと堯雄の白苟堆攻め」
これら4つが各列伝にある戦いです。
(「懸瓠・溱水・楚城の戦い」はそれぞれ個別の戦いの可能性もありますが)

これぐらいなら原文を読めばわかるもので、今ではウィキペディアにも載っています。
それでは、掘り下げてみるとどうなるでしょうか。

タグ: 東魏 北斉

南安侯蕭恬の余談2

蕭恬の兄弟の蕭循は後に漢中(梁州)から色々あって元帝・蕭繹に合流しており、また侯景に一時的に捕まっていた蕭泰もまた合流に成功しています(こちらの方が先)。

『南史』巻五十二、梁宗室伝下、鄱陽忠烈王蕭恢、蕭循
時王子侯多為近畿小郡,曆試有績,乃得出為邊州。帝以脩識量宏達,自衞尉出鎮鍾離,徙為梁、秦二州刺史。在漢中七年,移風改俗,人號慈父。

蕭循は宗室中でも特に優秀であり、太守などを挟まずに衛尉→北徐州刺史→梁秦二州刺史と転任。
元帝の下でも任用され、江陵が陥落し陳覇先が権力を得た後にも太保まで登った生き残り宗室の最重鎮の一人。

『陳書』巻十三、周敷伝
時觀寧侯蕭永、長樂侯蕭基、豐城侯蕭泰避難流寓,聞敷信義,皆往依之。敷愍其危懼,屈體崇敬,厚加給䘏,送之西上。

蕭泰蕭永らと共に周敷の助けを得て西に逃れることができたそうです。
蕭恬はどうなったのでしょうか・・・)

『資治通鑑』巻一百六十六、梁紀二十二、太平元年
八月,己酉,鄱陽王循卒於江夏,弟豐城侯泰監郢州事。(中略)
十一月,辛丑,豐城侯泰奔齊,齊以為永州刺史。

色々あった末に556年に蕭循が死ぬと、その弟の蕭泰が代わって江夏(郢州)に割拠し、王琳に敗れた後に北斉に亡命。

『周書』巻四十二、蕭世怡伝
蕭世怡,梁武帝弟鄱陽王恢之子也。以名犯太祖諱,故稱字焉。

蕭泰はさらに西魏に降伏し、そのまま北周にも仕えるという数奇な運命をたどりました。
(そこでは宇文泰の避諱として字を名乗ることに)

蕭恬が仮に蕭繹に合流していたとしても、(味方か敵により)で死んでいても、北斉西魏北周で死んでいてもおかしくはないという非常に混沌とした時代でした。
蕭繹に合流できずに侯景側に殺された可能性もありますが。
(なお、蕭恬の年齢は550年時点で25歳~51歳)

ちなみに、彼らの兄の蕭諮は交州刺史(「李賁の乱」の原因)や衛尉を務め、傀儡の簡文帝に近侍して侯景一党により殺された人物。550年10月没。
また、兄弟の蕭退陳慶之の援軍に送られたり、青冀二州刺史となったりしましたが、侯景に勝てずに東魏に亡命し、北斉に仕えたという人物。

多様な展開を迎えた兄弟達ですね。

タグ: 北斉 北周

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム