3文字の小字

小名・小字は基本的に1文字か2文字。3文字はかなりレアでしょう。

『北史』巻十一、隋文帝紀
隋高祖文皇帝姓楊氏,諱堅,小名那羅延

の文帝・楊堅の小名は「那羅延」で3文字。これは仏教由来ですね。

『晋書』巻七十四、桓彝伝、桓沖
初,彝亡後,沖兄弟並少,家貧,母患,須羊以解,無由得之,溫乃以沖為質。羊主甚富,言不欲為質,幸為養買德郎買德郎,沖小字也。及沖為江州,出射,羊主於堂邊看,沖識之,謂曰:「我買德也。」遂厚報之。

東晋桓沖も「買徳郎」で3文字のようですが、名乗りは「買徳」なので、「買徳」+「郎」の構成だった可能性もあります。

『晋書』巻一百二十五、馮跋載記
馮跋字文起,長樂信都人也,小字乞直伐,其先畢萬之後也。

そして北燕馮跋。「乞直伐」。漢人のはずですが、鮮卑風の小字です。

ちなみに、3文字の字(あざな)や諱は胡人・北族(鮮卑系など)で時々見られますね。

タグ: 東晋 北燕

上党馮氏(胡)

元々、上党郡は并州の東南にあり、辺境扱いの并州の中では最も内地にありました。
東隣が魏郡(鄴など)、南隣が河内郡(洛陽のすぐ北)という立地。
ただ、周りが山だらけであり(大行山脈)、後漢末期には黒山賊の根城となった他、後には胡族の石勒の一族が住んだりして平野部とは異なる環境にもありました。
并州の内地に進出していた匈奴からは直接攻撃を受けることもありましたね。

西晋末期、五胡十六国時代に突入した辺りでは当然のようにここに非漢人勢力が出現しました。

『晋書』巻一百四、石勒載記上
胡部大張㔨督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因說㔨督曰:「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能。」勒曰:「如其不能者,兵馬當有所屬。今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計。」㔨督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海。元海署㔨督為親漢王,莫突為都督部大,以勒為輔漢將軍、平晉王以統之。勒於是命㔨督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也。


例えば、上党に割拠した胡部大の張㔨督馮莫突。彼らは石勒によって漢王劉淵前趙)に帰順し、張㔨督は親漢王、馮莫突は都督部大となり、さらに張㔨督は「石会」と改名して石勒の兄として遇されたそうです。
資治通鑑では307年の出来事としていますね。

馮莫突・・・?
まさか上党の馮氏?
しかし「都督部大」となっていることから、明らかに胡人のような扱いです。
たまたま「馮」の入った名前だったのか、それとも漢人の「上党の馮氏」にあやかったのか。

ともかく、この頃の上党には胡人の有力者に「馮」姓?の胡人が居たようですね。

時に永嘉年間。
永嘉年間の馮氏・・・。

『晋書』巻一百二十五、馮跋載記
馮跋字文起,長樂信都人也,小字乞直伐,其先畢萬之後也。萬之子孫有食采馮鄉者,因以氏焉。永嘉之亂,跋祖父和避地上黨。

馮跋の祖父の馮和とも接点があったかもしれませんね。
タグ:後趙 北燕

馮跋の胡化3

馮跋はおそらく379年以前の生まれ。370年代?
西燕が上党を支配したのは386年~394年。この期間に馮跋の父の馮安西燕に仕えていました。
馮跋の一族が上党に移住したのは遥か前のことなので、馮跋は生まれも育ちも西燕でしょう。

379年以前の生まれなら、7歳以上から16歳以上まで「鮮卑族が統治する西燕」で暮らしていたことになります。

昌黎への移住は早くて394年(末)。北魏の并州襲撃が始まる時(396年秋)より前。
そこから407年頃まで「後燕の昌黎」(鮮卑慕容部の総本山)に馮跋は暮らしていました。
16歳以上から29歳以上まで?

『魏書』巻九十七、海夷馮跋伝
海夷馮跋,字文起,小名乞直伐,本出長樂信都。慕容永僭號長子,以跋父安為將。永為垂所滅,安東徙昌黎,家于長谷。(中略)既家昌黎,遂同夷俗。

馮跋は小名が「乞直伐」と鮮卑らしい物であるので、成人前に鮮卑化がある程度あったと思われます。

後燕の昌黎」で暮らしていた期間は十分長いものの、成人前となるとその前の話です。
馮跋は鮮卑化は実は西燕時代に始まっていたのでは?

馮跋は「外様の漢人」ながら後燕末期には影響力のある地位に居たらしく(さもなくばクーデターはあれほど上手くいかなかったでしょう)、その一因は馮跋が「鮮卑化した漢人」だったからではないかと思っています。
そしてこの鮮卑化は西燕時代から培われてきたものだったのではないでしょうか。

西燕が残した「鮮卑化した漢人」馮跋後燕を滅ぼし、取って代わった。そのような因縁があったかもしれませんね。

タグ:北燕 西燕

馮跋の生年考

(1)馮跋が親しくした高雲の武功は397年。
馮跋高雲を評価し、親しくしたとあるので、高雲と年が近いか年長でしょう。
(目上からの対応?)
397年には成人以上だった高雲と同等以上ならば、生年は370年代かそれ以前。

(2)馮跋が仕えたとされる慕容宝の治世は396年~398年、慕容盛の治世は398年~401年、慕容熙の治世は401年~407年。
それぞれ20歳前後以上とすると、生年が380年を超えることはなさそうです。

(3)馮跋慕容熙の代までに将軍となり、407年までに慕容熙に殺されかけて山中に逃亡。
(4)馮跋は407年に弟達と共に挙兵し、慕容熙を殺して高雲を立て、弟達と共に大権を掌握。
(5)馮跋は409年に即位して親政。
400年代にかなり若い(20歳前後)ということは無さそうです。
逆に400年代にかなり高齢(70代以上)ということも無いでしょうね。
妥当な範囲は340年頃~380年頃?

(6)411年に馮跋の息子は大単于となり、娘は柔然に嫁ぎました。
子供が411年時点で成人又は結婚適齢期。つまり生年は398年前後以前。
親子の年齢差が15歳なら馮跋の生年は383年頃以前。
親子の年齢差が20歳なら馮跋の生年は378年頃以前。

(7)馮跋西燕に仕えた記録なし。
西燕滅亡(386年~394年)までに40代以上なら何か就任していそうなものですが。
生年は347年以降。354年以降?
ただ、記録がそもそも少ないので欠落の可能性もあるでしょう。

(8)馮跋は430年に死去。
極めて高齢だったとも書いていないので、没年は90歳以下?
生年は340年以降?

(9)馮跋は最終的に「百餘人」の子供(息子)がいたそうです。
8割以上は権勢掌握後(407年~430年)に生まれたとするのが妥当でしょう。
407年時点で高齢だったとは思えませんね。
60歳以下なら、生年は348年以降。
50歳以下なら、生年は358年以降。
40歳以下なら、生年は368年以降。

ちなみに、
慕容宝の生年は355年。
慕容盛の生年は373年。
慕容熙の生年は385年。


馮跋の生年の妥当な範囲は350年代、360年代、370年代でしょう。
そして、(6)から385年以前なのは、ほぼ確実。慕容熙より年長。
(9)から345年以降なのも、ほぼ確実でしょう。


生年が380年ならば、15歳で西燕滅亡、30歳で即位、51歳で死去。
生年が370年ならば、25歳で西燕滅亡、40歳で即位、61歳で死去。
生年が360年ならば、35歳で西燕滅亡、50歳で即位、71歳で死去。
生年が350年ならば、45歳で西燕滅亡、60歳で即位、81歳で死去。

360年代後半か370年代が色々と都合が良さそうですが、どうでしょうか。

タグ:北燕

馮跋の胡化2

『魏書』巻九十七、海夷馮跋伝
海夷馮跋,字文起,小名乞直伐,本出長樂信都。慕容永僭號長子,以跋父安為將。永為垂所滅,安東徙昌黎,家于長谷。跋飲酒至一石不亂。母弟素弗,次丕,次洪,皆任俠放逸,不修行業,跋恭慎勤稼穡。既家昌黎,遂同夷俗。

魏書が言うには、馮跋の父は慕容永西燕)に仕え、西燕慕容垂後燕)に滅ぼされると昌黎の長谷に移住し、また昌黎で暮らしていた馮跋は、(現地の)夷狄の風俗と同じようになりました。
昌黎は前燕創業期から鮮卑慕容部の本拠地として栄えた地域であり、そこに住めば「鮮卑風」に同化するのは自然な流れでしょう。

『北史』巻六、斉神武帝紀
齊高祖神武皇帝姓高氏,諱歡,字賀六渾,勃海蓨人也。六世祖隱,晉玄菟太守。隱生慶,慶生泰,泰生湖,三世仕慕容氏。及慕容寶敗,國亂,湖率眾歸魏,為右將軍。湖生四子。第三子謐,仕魏,位至侍御史,坐法徙居懷朔鎮。謐生皇考樹生,性通率,不事家業,住居白道南,數有赤光紫氣之異,隣人以為怪,勸徙居以避之。皇考曰:「安知非吉?」居之自若。
及神武生而皇妣韓氏殂,養於同產姊壻鎮獄隊尉景家。神武既累世北邊,故習其俗,遂同鮮卑。長而深沈有大度,輕財重士,為豪俠所宗。

北斉の創業者、高歓も(とある記録上は)勃海の漢人一族出身ながら、祖父の代から北辺の懐朔鎮に住むようになり、鮮卑と同じようになったそうです。
「鮮卑化した漢人」の一例でしょう。(真偽については要検討ですが)

ただ、馮跋の場合は昌黎への移住の時期が明らかであり、その時点から官に就いて世に出るまでが「短い」という特徴があります。

西燕滅亡は394年後半。馮跋の出仕は慕容宝の時(~398年)。
間は満4年もありません。

また、馮跋の生年は360年代か370年代が妥当?
出仕の時期から、379年以前は堅いでしょう。
そこから、西燕滅亡時に16歳以上(おそらく40歳以下)。

馮跋は幼い頃からずっと昌黎の鮮卑文化圏と接していたから、鮮卑化した、というわけではなさそうですね。
高歓とは事情が違うようです。

「遂同夷俗」は出仕後の期間も含み、鮮卑の国家で公私に渡って生活する上で自然に、或いは将来を見据えて能動的に、鮮卑の習俗を身に着けていったのかもしれませんね。

タグ:北燕 北斉

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