司馬師子

司馬師は三国志にも登場する司馬懿の長男であり、西晋創業者の一人。後世では景王や景帝とも呼ばれます。
字は子上。「劉備玄徳」形式なら「司馬師子上」。

司馬師の同母弟の年長者が司馬昭、異母弟の年長者が司馬亮です。
司馬亮西晋では宗室長老として重用されますが、「八王の乱」に絡む政変で殺害されました。

司馬亮の末裔は東晋まで生き延び、その一人の司馬景之東晋滅亡前後で北魏に亡命します。

『魏書』巻三十七、司馬景之伝
司馬景之,字洪略,晉汝南王亮之後。太宗時歸闕,爵蒼梧公,加征南大將軍。清直有節操,太宗甚重之。卒,贈汝南王。子師子襲爵。

この司馬景之の嫡男は司馬師子です。

司馬師子は景帝・司馬師の諱を犯すような名前ですが、司馬師の死から150年以上経ち、晋王朝も終わっていたのでセーフだったのでしょう。それとも二字名は別の判断なのでしょうか。

この司馬師子の名前の由来はおそらく「獅子」です。師子と獅子は同義。
ちなみに、司馬師子と同じ亡命二世に司馬金龍がおり、似たようなネーミングではないでしょうか。


余談ですが、逆に言えば「司馬師子上」の中に「獅子」が入っていることになりますね。
「司馬ライオン上」

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タグ:西晋 北魏

南燕と公孫氏3

慕容徳の生母の公孫氏公孫五楼は(それぞれ)どの「公孫氏」なのでしょうか。

まず、「公孫氏」は東西南北に様々な本籍地を持つ者が見つかるので、候補はいくらでもあります。
よって厳密に絞り込むのは無理でしょう。


慕容徳が生まれた頃の慕容部の勢力圏は昌黎・遼東の地域だけでしたが、「公孫氏」といえば遼東襄平の一族が特に有名です。
「遼東襄平の公孫氏」が側室にいた可能性は十分にあります。

北朝の墓誌では「遼東襄平の公孫氏」での高官だった者がおり、前燕の公孫氏は不明瞭ながら仕えていた漢人がいてもおかしくはなく、重臣がいた可能性もあるでしょう。

また、他の地域の漢人でこの時点の慕容部の傘下に入った者も多数記録にあるため、遼東以外の公孫氏でもチャンスはあります。

ただ、慕容皝の妻達で出自が推測できる者は鮮卑出身です。漢人の側室がいたのか、特に名のある一族から側室が出ていたのか、疑問も生じます。
この段階で胡人の側室に漢人が人を出すのかどうか。


『魏書』巻七、孝文帝紀上、太和九年
(十月)辛酉,侍中、司徒、魏郡王陳建薨。詔員外散騎常侍李彪、尚書郎公孫阿六頭使蕭賾。

『魏書』巻七、孝文帝紀上、太和十五年
(四月)甲戌,詔員外散騎常侍李彪、尚書郎公孫阿六頭使於蕭賾。

さて、後に北魏南斉に出した使者の中に公孫阿六頭という人物がいます。
記録はありませんが、「阿六頭」は漢人とは思えない名前ですね。

公孫阿六頭の2度目の遣使より後の使者は、宋弁房亮高聡賈禎盧昶王清石といった正使と副使を漢人コンビで務めています。

『南斉書』巻四十七、王融伝
又虜前後奉使,不專漢人,必介以匈奴,備諸覘獲。

しかしどうやら以前は漢人&胡人のペアで派遣していたようです。
つまり、李彪は漢人なので、公孫阿六頭は胡人と考えられます。「公孫」姓の胡人(鮮卑?)が居たということでしょう。

一方で北燕を建てた馮跋が鮮卑化した漢人だったように、鮮卑化した漢人の公孫氏がいた可能性もあるのではないでしょうか。


そして公孫五楼は漢人としては変わった名前です。

『晋書』巻一百二十八、慕容超載記
時公孫五樓為侍中、尚書,領左衞將軍,專總朝政,兄歸為冠軍、常山公,叔父穨為武衞、興樂公。五樓宗親皆夾輔左右,王公內外無不憚之。

兄が公孫帰、叔父が公孫穨
「帰」は慕容渉帰宇文逸豆帰乞伏乾帰などの鮮卑名で見られる文字。
「穨」は俗字の「頹」が代人の名前で度々見られます。
公孫五楼の一族は「鮮卑や胡人」、あるいは「鮮卑/胡人風の名前の漢人」?


公孫五楼は「公孫姓の胡人(鮮卑?)」か「胡化した公孫氏(漢人)」、慕容徳の生母の公孫氏はそれらに加えて「名族でない公孫氏(漢人)」のいずれかの可能性が高いのではないでしょうか。

タグ:南燕 北魏 前燕

劉庫仁の妻・公孫氏の一族

『北史』巻二十、劉庫仁伝
劉庫仁字沒根,獨孤部人,(中略)建國三十九年,昭成暴崩,道武未立,苻堅以庫仁為陵江將軍、關內侯,令與衞辰分國眾統之。河西屬衞辰,河東屬庫仁。(中略)苻堅處衞辰在庫仁下,衞辰怒,叛,攻庫仁。庫仁伐衞辰,破之。苻堅賜庫仁妻公孫氏,厚其資送。
慕容垂圍苻丕於鄴,又遣將平規攻堅幽州刺史王永于薊。庫仁遣妻兄公孫希助永擊規,大破之。

前秦は拓跋部の国を滅ぼすと(376年)、北方を分割して西部を匈奴鉄弗部の劉衛辰に、東部を独孤部の劉庫仁に統治させます。
後に劉庫仁は離反した劉衛辰を討伐し、前秦の君主苻堅から公孫氏を妻として賜りました。
劉庫仁前秦と友好的な関係を続けたようで、後に苻堅が大敗して前秦で反乱が続出すると、妻の兄の公孫希を増援として幽州に派遣しています。

『資治通鑑』巻一百五、晋紀二十七、太元九年
(八月)秦幽州刺史王永求救於振威將軍劉庫仁,庫仁遣其妻兄公孫希帥騎三千救之,大破平規於薊南,乘勝長驅,進據唐城。

公孫希の派遣は384年のこと。


さて、劉庫仁の妻となった公孫氏とは何者でしょうか?
(384年に「妻兄公孫希」とあることから、少なくともこの頃まで存命でしょう)

『魏書』巻三十、安同伝
安同,遼東胡人也。其先祖曰世高,漢時以安息王侍子入洛。歷魏至晉,避亂遼東,遂家焉。父屈,仕慕容暐,為殿中郎將。苻堅滅暐,屈友人公孫眷之妹沒入苻氏宮,出賜劉庫仁為妻。庫仁貴寵之。同因隨商販,見太祖有濟世之才,遂留奉侍。性端嚴明惠,好長者之言。
登國初,太祖徵兵於慕容垂,事在窟咄傳。同頻使稱旨,遂見寵異,以為外朝大人,(後略)

遼東の胡人の安同は父が前燕に仕え、自身は前燕滅亡後に友人の公孫眷と共に商人として生計を立てていました。安同は後に拓跋珪に仕え、部落を率いる代人に混じって外朝大人を拝命しました。
ここに出てくる「友人の公孫眷」の妹は前燕滅亡後に前秦の後宮に入れられ、後に劉庫仁に下賜されたとあります。
つまり、劉庫仁の妻の兄は公孫希の他に公孫眷がいました。

また、これらの経歴を見ると公孫眷の一族は前燕に仕えていたのはほぼ間違いないでしょう。遼東近辺の出身だった可能性も高いですね。
同族かどうかは不明ですが、北魏に仕えた公孫氏は複数おり、墓誌には「遼東襄平の公孫氏」もいます。その中には先祖がの上洛公という者がおり、遼東襄平には「漢人の大物」か漢人風の「胡人の大物」がいたようです。

劉庫仁の妻となった公孫氏はそのような一族の出身かもしれませんね。

タグ:北魏 前秦 前燕

公孫度の末裔、公孫表

『魏書』巻三十三、公孫表伝
公孫表,字玄元,燕郡廣陽人也。遊學為諸生。慕容沖以為尚書郎。慕容垂破長子,從入中山。慕容寶走,乃歸闕。以使江南稱旨,拜尚書郎。後為博士。(中略)
太宗初,表參功勞將軍元屈軍事,討吐京叛胡,為胡所敗。表以先諫止屈,太宗善之,賜爵固安子。(中略)時年六十四。

燕郡広陽の人である公孫表は360年に生まれ、(前秦で)遊学して諸生となり、後に西燕(384年~394年)に仕えて慕容沖の代には尚書郎となり、西燕を滅ぼした後燕にも仕えましたが、慕容宝(在位396年~398年)が北魏に破れて凋落すると、自ら北魏に投じ、道武帝から尚書郎や博士として用いられ、明元帝の代に固安子の爵位も授かりました。その後、423年に64歳で死亡。

おそらく生まれは前燕で、11歳の時に前秦の支配下に入り、25歳以降に西燕に従い、35歳から後燕に仕え、38歳頃から北魏の臣下になったという生涯でしょう。
このように次々に所属する国が変わる経歴は、当時は多くの漢人豪族・名士で見られたことでしょう。


さて、実は公孫表は「遼東公孫氏」の公孫度の末裔という記録があります。

『元和姓纂』巻一、公孫氏、遼東
後漢有公孫延,生度為遼東太守。子康生文懿,三代處遼東,後自立為燕王。魏明帝遣司馬宣王平之,三代五十年而滅。後魏廣州刺史、固安子公孫表稱度後。孫叡,尚書、燕郡公。曾孫遂,青州刺史。生長儒,北齊涇州刺史。孫正,唐揚州司法。

その一つがで書かれた『元和姓纂』です。
信憑性はさておき、公孫表の子孫である公孫正に仕えていることから、おそらく公孫正の一族経由で伝わった情報でしょう。

北朝では遼東襄平の公孫氏の記録が墓誌などで複数残っています。当時は公孫氏の中でも遼東襄平の一族がおそらく特に有名であり、さらに歴代の遼東公孫氏の中でも著名な公孫度がその始祖としてよく使われていたのかもしれませんね。


また、公孫表の本籍の広陽県は前燕が都を置いた薊城の近くにあります。前燕の代に一族が遼東から薊城一帯に移住し、本籍を移動させたとも考えられます。

タグ:北魏 前燕 後燕 西燕 後漢 前秦

夏侯兄弟vs源子恭

524年に始まった北伐は徐々に成果を挙げ、北魏の「州」を複数制圧し、はその倍の「州」を置きました。
(「州治」以外の獲得した要地にも新たに州を設置しています)

淮水中流~上流にかけて制圧した州は以下の通り。
526年、夏侯亶湛僧智元樹北魏の揚州/寿陽を制圧し、夏侯亶が寿陽の豫州刺史に就任。
527年、湛僧智夏侯夔北魏の東豫州/広陵を制圧し、湛僧智が広陵の西豫州刺史に就任。
528年、元樹夏侯夔北魏の郢州/義陽を制圧し、夏侯夔が義陽の北司州刺史に就任。

夏侯亶夏侯夔兄弟、南人の驍将の湛僧智北魏の亡命皇族の元樹の4人が主要な関係者ですね。


528年にはさらに北魏の潁州/汝陰への攻撃が行われます。
湛僧智の長史」の裴之礼裴邃の子)が汝陰を守る都督尉慶賓の子の尉豹を討ち取り、12月に潁州が降伏すると「夏侯亶の長史」の裴之高裴邃の兄子)が接収して潁州刺史に就任。
また、元樹爾朱栄討伐を要請し、武帝から兵を供給されて北魏領に侵攻していました。

『魏書』巻四十一、源賀伝、源子恭
除平南將軍、豫州刺史,尋加散騎常侍、撫軍將軍。
武泰初,郢州刺史元願達以城降蕭衍,詔徵都督尉慶賓還京師,回眾隸子恭以討之。衍將夏侯夔率眾數萬來寇,遠近不安。乘勢分兵,遂逼新蔡,自攻毛城。子恭隨方應援,賊並破走。蕭衍豫州刺史夏侯亶復遣四將,率眾三萬,入圍南頓,北攻陳項。子恭遣軍禦之,賊復奔退。加鎮南將軍,又兼尚書行臺。子恭勒眾渡淮,徙民於淮北,立郡縣,置戍而還。蕭衍直閤將軍、軍主胡智達等八將,與其監軍閻次洪入寇,屯於州城東北四十餘里。子恭擊破之,斬智達,生擒次洪。
元顥之入洛也,加子恭車騎將軍,子恭不敢拒之,而頻遣間使參莊帝動靜。未幾,顥敗,車駕還洛,進征南將軍、兼右僕射,假車騎將軍,後加散騎常侍。

さて、北魏は郢州が陥落すると、汝陰を守っていた都督尉慶賓を召喚して諸軍を豫州刺史の源子恭に配属させました。
北魏の豫州は数年前までは前線を後援する地域でしたが、各地が陥落して今や最前線。
その豫州にまず夏侯夔が数万を率いて攻め込み、懸瓠(豫州の州城)の東南の新蔡に軍を展開して、自身は毛城を攻撃。源子恭は救援に向かい、夏侯夔らを撃破。
次に夏侯亶が4人の武将(兵力3万)を侵攻させ、懸瓠城の東北にある南頓を包囲し、陳・項を攻撃。源子恭はまた軍を向かわせて軍を撤退させました。
源子恭はその後も淮水を超えての領内の住民を連れ去ったり、州城の東北に迫る軍を大破したりしています。

この源子恭夏侯夔夏侯亶らの攻防の時期は不明ですが、の動きは元樹が要請した北伐に関連したものと思われます。さらに528年中に南頓への侵攻ルートとなる新蔡の東北側や汝陰の制圧していることから、豫州の南部から東部にかけての複数の軍事行動は連動したものでしょう。
もし豫州まで制圧していたら、528年末に始まった陳慶之元顥の北伐の大きな助力となったはずであり、残念でしたね。
それでも全体ではいくらか前進。
なお、ここまでがの北上のほぼ限界点となり、他の北伐(陳慶之の北伐など)で得た領地はほとんど維持できずに終わります。


そして529年に夏侯亶が亡くなり、530年に夏侯夔が中央に戻り、北伐の中心人物ではなくなりました。
夏侯兄弟の最後の北伐が中期の北伐の限界点と重なるように感じます。

タグ: 北魏

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