豫州と梁の夏侯氏

夏侯亶夏侯夔(483年生まれ)兄弟はその生年から、少なくとも幼い頃は寿春(豫州)で暮らしていたはずです。
(父が豫州の外に転任したのは489年より後)


さて、寿春に住んでいたの武将といえば、裴邃がいます。

『梁書』巻二十八、裴邃伝
裴邃字淵明,河東聞喜人,魏襄州刺史綽之後也。祖壽孫,寓居壽陽,為宋武帝前軍長史。父仲穆,驍騎將軍。
邃十歲能屬文,善左氏春秋。齊建武初,刺史蕭遙昌引為府主簿。(中略)邃還壽陽,值刺史裴叔業以壽陽降魏,豫州豪族皆被驅掠,邃遂隨眾北徙,魏主宣武帝雅重之,以為司徒屬,中書郎,魏郡太守。魏遣王肅鎮壽陽,邃固求隨肅,密圖南歸。天監初,自拔還朝,除後軍諮議參軍。邃求邊境自効,以為輔國將軍、廬江太守。

裴邃初の祖父の代には寿陽(寿春)に住んでおり、晩渡北人かと思われます。
(誰かの「長史」になるぐらいなので北辺居住者の中では格が高く、士人上位層の移住先である江東を離れた一族ではなさそうです)

裴邃の一族は韋叡(襄陽の晩渡北人の中の名門)の一族と共ににおける「将門」として高く評価されますが、に入る際にとある災難を乗り越えていました。
それが寿陽の陥落。南斉の末期(500年)に豫州刺史の裴叔業北魏に帰順したことで寿陽一帯が制圧され、豫州にいた官吏・将兵や寿陽などの居住者が北魏傘下に入りました。
裴邃もその一人。

ところが裴邃北魏で厚遇されたにも関わらず南朝に亡命し、に仕えると自ら願い出て前線で(豫州奪還のために)戦い続けることになりました。


そして夏侯詳夏侯亶夏侯夔に話を戻すと、彼らにとっても寿陽(寿春)陥落は故郷の地を失う大事件でした。

北魏の支配下に置かれた夏侯一族もいました。

『魏書』巻五十九、蕭宝寅伝
蕭衍既克建業,殺其兄弟,將害寶夤,以兵守之,未至嚴急。其家閹人顏文智與左右麻拱、黃神密計,穿牆夜出寶夤。(中略)景明二年至壽春之東城戍。戍主杜元倫推檢,知實蕭氏子也,以禮延待,馳告揚州刺史、任城王澄,澄以車馬侍衞迎之。時年十六,徒步憔悴,見者以為掠賣生口也。澄待以客禮。乃請喪居斬衰之服,澄遣人曉示情禮,以喪兄之制,給其齊衰,寶夤從命。澄率官僚赴弔,寶夤居處有禮,不飲酒食肉,輟笑簡言,一同極哀之節。壽春多其故義,皆受慰唁,唯不見夏侯一族,以夏侯同蕭衍故也

蕭衍を建国する直前に蕭宝寅南斉の皇子)が寿春まで逃げ延びると、北魏の傘下にあった寿春の人々は兄弟を殺された蕭宝寅に対して哀悼の意を表しましたが、夏侯一族だけそれに参加しなかったそうです。
この夏侯一族の態度は夏侯詳蕭衍に従ったためでしたが、その後の北魏における生活は無事だったのか心配になりますね。


が始まる直前に失われた故郷、寿春(豫州)。
夏侯亶夏侯夔兄弟は後に裴邃のようにこの地域で北魏と戦うことになります。

タグ: 南斉

夏侯亶と王敬則

「王敬則の首級」の続き。ここからが夏侯氏絡みの本題。

500年に「崔慧景の乱」を平定した蕭懿東昏侯に殺されると、同年に雍州の蕭衍が挙兵し、荊州の夏侯詳らも同調。

『梁書』巻二十八、夏侯亶伝
夏侯亶字世龍,車騎將軍詳長子也。齊初,起家奉朝請。永元末,詳為西中郎南康王司馬,隨府鎮荊州,亶留京師,為東昏聽政主帥。及崔慧景作亂,亶以捍禦功,除驍騎將軍。及高祖起師,詳與長史蕭穎冑協同義舉,密遣信下都迎亶,亶乃齎宣德皇后令,令南康王纂承大統,封十郡為宣城王,進位相國,置僚屬,選百官。建康城平,以亶為尚書吏部郎,俄遷侍中,奉璽於高祖。天監元年,出為宣城太守。

崔慧景の乱」討伐に加わっていた夏侯亶は荊州で挙兵した父の夏侯詳の連絡を受け、荊州へ脱出。その際に「太后の命令(と称する文書)」を持ち込んだことで挙兵陣営は和帝を擁立。
そして501年に東昏侯を倒し、502年に和帝から禅譲を受けて蕭衍が即位。が建国され、天監元年となりました。

『南史』巻四十五、王敬則伝
朝廷漆其首藏在武庫,至梁天監元年,其故吏夏侯亶表請收葬,許之。

この天監元年(502年)に夏侯亶王敬則の埋葬を願い出ます。
南斉の大逆者だった王敬則は「首級に漆を塗って武庫に収蔵」されていましたが、王敬則の故吏だった夏侯亶はそれを回収し、の許可を得て埋葬しました。
古来から誅殺された者であっても故吏などによって正しく埋葬される例はあり、夏侯亶もまたそのような筋を通したわけですね。
にとっては前の王朝の大逆者なので、許しやすい状況だったでしょう)
なお、この時はまだ侍中として中央におり、それから宣城太守となったと思われます。


夏侯亶の父の夏侯詳殷琰から蕭鸞までずっと豫州に仕えていたことから、その次に王敬則が豫州刺史になった際に夏侯亶が彼の配下になった可能性は大いにあります。
また、夏侯亶の列伝では南斉初に奉朝請で起家し、次に永元末まで記録が飛んでいることから、記録に無い官歴として会稽時代の王敬則に仕えた可能性もあるでしょう。


『南史』巻四十五、崔慧景伝、崔恭祖
恭祖者,慧景宗人,驍果便馬矟,氣力絕人,頻經軍陣。討王敬則,與左興盛軍容袁文曠爭敬則首,訴明帝曰:「恭祖禿馬絳衫,手刺倒敬則,故文曠得斬其首。以死易勳而見枉奪。若失此勳,要當刺殺左興盛。」帝以其勇健,謂興盛曰:「何容令恭祖與文曠爭功。」慧景平後,恭祖繫尚方,少時殺之。

ちなみに王敬則を討ち取った崔恭祖は同族の崔慧景の乱に(嫌々ながら)参加して主力となっていたことから、先に降伏しましたが、平定後に処刑されました。
崔慧景の討伐に参加したことで、ある意味では夏侯亶は元上司のかたきを討ったことになるでしょう。

タグ: 南斉

王敬則の首級

明帝は半ば成り行きで皇帝になった矢先に地方が一斉に反乱を起こしたことから、禁軍・宿衛の将兵を大いに用いて事態に対処しました。
蕭道成沈攸之劉勔などの明帝時代に台頭した軍人は大体これです。

臨淮/晋陵の王敬則もその一人。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
泰始初,以敬則為龍驤將軍、軍主,隨寧朔將軍劉懷珍征壽春,殷琰遣將劉從築四壘於死虎,懷珍遣敬則以千人繞後,直出橫塘,賊眾驚退。(中略)

地方の一斉反乱の際には、北の豫州(殷琰)攻めに参加。(ちなみに蕭道成は東、沈攸之は西、劉勔は北の戦線に投入されていました)
この豫州の戦いは長引きましたが、最終的に夏侯詳が上司の殷琰を説得して降伏させて決着。

474年、後廃帝に対して桂陽王劉休範が挙兵すると、首都を守る劉勔が戦死する危機がありましたが、蕭道成により全て平定。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
元徽二年,隨太祖拒桂陽賊於新亭,敬則與羽林監陳顯達、寧朔將軍高道慶乘舸䒁於江中迎戰,大破賊水軍,焚其舟艦。

王敬則もこの戦いの本戦で活躍。

その3年後の後廃帝殺害・廃立の際に王敬則蕭道成のために尽力し、以降は蕭道成一派の重鎮として沈攸之らの反乱への対処にも功がありました。
そして南斉では元勲の一員となります。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
(永明)七年,出為使持節、散騎常侍、都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事、征西大將軍、豫州刺史,開府如故。進號驃騎。十一年,遷司空,常侍如故。世祖崩,遺詔改加侍中。高宗輔政,密有廢立意,隆昌元年,出敬則為使持節、都督會稽東陽臨海永嘉新安五郡軍事、會稽太守,本官如故。海陵王立,進位太尉。(中略)
明帝即位,進大司馬,增邑千戶。

王敬則は内外の要職を歴任し、(蕭鸞の後任として)489年から493年まで豫州の刺史・都督を務め、次に司空、会稽太守・都督に転任。本官は開府諸将軍→司空→太尉→大司馬。
ここまで栄達しましたが、そのため明帝(蕭鸞)から警戒されており、明帝が死にそうになると対策が図られました。そこで王敬則は江東で挙兵し建康を目指しますが、敗死。
498年夏のことでした。(その秋に明帝が崩御し東昏侯が即位)


『南史』巻四十五、王敬則伝
敬則以舊將舉事,百姓擔篙荷鍤隨逐之十餘萬眾。至武進陵口慟哭,乘肩輿而前。遇興盛、山陽二柴,盡力攻之。官軍不敵,欲退而圍不開,各死戰。胡松領馬軍突其後,白丁無器仗,皆驚散。敬則大叫索馬,再上不得上,興盛軍容袁文曠斬之傳首。

その時、王敬則軍は多くの民衆が従って約10万という大軍でしたが、騎兵が突撃してくると武装していなかった者達が逃げ散ってしまい、王敬則はその混乱の中で馬に乗れずにいるうちに左興盛の配下の袁文曠に斬られました。

この首級は都に送られ、論功行賞が行われますが、そこで首級を挙げたのは誰の功績かで紛糾します。

『南史』巻四十五、崔慧景伝、崔恭祖
恭祖者,慧景宗人,驍果便馬矟,氣力絕人,頻經軍陣。討王敬則,與左興盛軍容袁文曠敬則首,訴明帝曰:「恭祖禿馬絳衫,手刺倒敬則,故文曠得斬其首。以死易勳而見枉奪。若失此勳,要當刺殺左興盛。」帝以其勇健,謂興盛曰:「何容令恭祖與文曠爭功。」

討伐の将の一人の崔恭祖は「自分が王敬則を刺し倒したので袁文曠が首を落として手に入れることができた」と主張。その結果、明帝は勇猛で知られる彼の功績を認めました。

『南史』巻四十五、王敬則伝
敬則之來,聲勢甚盛,凡十日而敗。時年六十四。朝廷漆其首藏在武庫,(後略)

そして、大逆者となった王敬則の首級は「首級に漆を塗って武庫に収蔵」されました。過去には王莽などに見られる措置ですね。


ちなみに享年は64歳とありますが、

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
敬則之來,聲勢甚盛,裁少日而敗,時年七十餘。

南斉書では「七十餘」とあり、情報が違うのか「七十餘」≒「約70歳」は64歳も含む表現だったのでしょう。数の「十餘」という表現は要注意ですね。


タグ:南斉

夏侯氏と梁の建国

『梁書』巻五、斉和帝紀、中興元年
(三月)中興元年春三月乙巳,皇帝即位,大赦,改永元三年為中興,文武賜位二等。是夜彗星竟天。以相國左長史蕭穎冑為尚書令,加雍州刺史蕭衍尚書左僕射、都督征討諸軍。

501年3月、雍州の蕭衍と荊州の蕭穎冑が擁立した和帝が即位。
そして蕭衍が尚書左僕射・都督征討諸軍として征討軍を率い、蕭穎冑が尚書令・行荊州刺史として後方と荊州の朝廷を任されました。

『梁書』巻十、夏侯詳伝
高祖義兵起,詳與穎冑同創大舉。西臺建,以詳為中領軍,加散騎常侍、南郡太守。凡軍國大事,穎冑多決於詳。及高祖圍郢城未下,穎冑遣衞尉席闡文如高祖軍。詳獻議曰:「(中略)」高祖嘉納焉。

荊州に残っていた夏侯詳は中領軍・南郡太守の地位で蕭穎冑の右腕となり、また蕭衍らが郢州攻略に難航していると方策を進言しています。

7月に蕭衍らは郢州をようやく制圧し、すぐに江州も降して東進を続けますが、一方の荊州は西側から魯休烈東昏侯派から攻撃を受けていました。

『南斉書』巻七、和帝紀、中興元年
冬十一月乙未,以輔國將軍李元履為豫州刺史。壬寅,尚書令、鎮軍將軍蕭穎冑卒,以黃門郎蕭澹行荊州府州事。丁巳,蕭璝、魯休烈降。

10月に蕭衍らは征討軍は東昏侯の朝廷軍を大破し、遂に建康を包囲します。
このあと一歩のところで11月に荊州を統括する蕭穎冑が急死。

『梁書』巻十、夏侯詳伝
頃之,穎冑卒。時高祖弟始興王留守襄陽,乃遣使迎,共參軍國。和帝加詳禁兵,出入殿省,固辭不受。遷侍中、尚書右僕射。尋授使持節、撫軍將軍、荊州刺史。詳又固讓于憺。


『資治通鑑』巻一百四十四、斉紀十、中興元年
(十一月)巴東獻武公蕭穎冑蕭璝蔡道恭相持不決,憂憤成疾:壬午,卒。夏侯詳祕之,使似其書者假為教命,密報蕭衍亦祕之。徵兵雍州,蕭偉蕭憺將兵赴之。等聞建康已危,眾懼而潰,魯休烈皆降。乃發穎冑喪,贈侍中、丞相,於是眾望盡歸於夏侯詳請與蕭憺共參軍國,詔以為侍中、尚書右僕射,尋除使持節、撫軍將軍、荊州刺史。詳固讓于。乃以行荊州府州軍。

この荊州と和帝朝廷の危機に対して夏侯詳蕭穎冑の死を隠しつつ雍州から蕭憺蕭衍の末弟)ら増援を呼び寄せ、その蕭憺により魯休烈らが降伏して危機を脱しました。
夏侯詳は侍中・尚書右僕射となりますが、荊州刺史に任命されるとこれを蕭憺に譲ります。(蕭憺は翌年に正式に荊州刺史に就任)
蕭衍が左僕射だったので、夏侯詳の右僕射はかなりの重任ですね。


そしてその直後の12月に建康は降伏し、蕭衍和帝陣営の勝利が決まりました。

『南斉書』巻七、和帝紀、中興元年
十二月丙寅,建康城平。己巳,皇太后令以梁王為大司馬、錄尚書事、驃騎大將軍、揚州刺史,封建安郡公,依晉武陵王遵承制故事,百僚致敬。壬申,改封建安王寶寅鄱陽王。癸酉,以司徒、揚州刺史晉安王寶義為太尉,領司徒。

その後まもなく夏侯詳の子の夏侯亶が尚書吏部郎、夏侯夔が(晋安王の)司徒属となりました。


翌502年に蕭衍が皇帝に即位し、が建国されます。

『梁書』巻十、夏侯詳伝
天監元年,徵為侍中、車騎將軍,論功封寧都縣侯,邑二千戶。

夏侯詳(69歳)は侍中・車騎将軍として(荊州から)入朝。ただ、車騎将軍となったのは建国の直前の可能性もあり、その場合は相国・驃騎大将軍・梁王だった蕭衍に将軍号では次ぐ存在だったとも言えます。

元々挙兵陣営の重鎮だった夏侯詳は荊州筆頭の蕭穎冑が死に、更なる貢献もあったことから荊州諸将筆頭として他よりもかなり高い地位にありました。

タグ: 南斉

夏侯氏と蕭衍

『南斉書』巻三、武帝紀、建元四年
秋七月庚申,以衞尉蕭順之為豫州刺史。

夏侯詳は長らく豫州の刺史の部下を歴任していましたが、482年から数年(485年まで?)の上司は蕭順之だったと思われます。
この蕭順之の三男が蕭衍です。

夏侯詳が蕭鸞(明帝)の台頭に従って豫州の外でも色々起用されるようになったように、蕭衍もまた明帝によって刺史・将軍などに起用されだした人材でした。
蕭衍明帝が崩御する498年に雍州刺史となり、夏侯詳はその翌年に南康王蕭宝融蕭穎冑らと共に荊州に赴任しました。

南斉西部の2大拠点は前線の雍州中心地の荊州。当時の責任者は以下の者達。
雍州刺史:蕭衍
(その長史・襄陽太守:王茂先
荊州刺史:蕭宝融
(その長史・南郡太守:蕭穎冑
(その司馬・新興太守:夏侯詳

500年10月、南斉が都に居た蕭懿兄弟を殺害。また、密かに巴西太守の劉山陽に雍州刺史蕭衍を討つように命じます。
蕭懿は「崔慧景の乱」を平定した中央の有力者でしたが、その故に疑われて殺害)
蕭衍は兄の蕭懿らの死を受けて挙兵を決断し、(荊州と連携しようとしていた)劉山陽を排除するよう蕭穎冑に伝えます。

『南斉書』巻七、和帝紀、永元二年
二年十一月甲寅,長史蕭穎冑殺輔國將軍、巴西梓潼二郡太守劉山陽,奉梁王舉義。乙卯,教纂嚴。又教曰:「(略)」丙辰,以雍州刺史梁王為使持節、都督前鋒諸軍事、左將軍。丁巳,以蕭穎冑為右將軍、都督行留諸軍事。戊午,梁王上表勸進。
十二月乙亥,羣僚勸進,並不許。

11月、蕭穎冑劉山陽を殺し、蕭衍の挙兵に同調。
かくして蕭衍率いる雍州と蕭穎冑夏侯詳がまとめる荊州が挙兵し、南斉朝廷と敵対します。

『南斉書』巻三十八、蕭赤斧伝、蕭穎冑
穎冑有器局,既唱大事,虛心委己,眾情歸之。加穎冑右將軍,都督行留諸軍事,置佐史,本官如故。西中郎司馬夏侯詳加征虜將軍。

この時、夏侯詳に征虜将軍を加官。

挙兵陣営はまず荊州にいた南康王蕭宝融(皇帝蕭宝巻の弟)を君主として奉戴しようとします。

『南斉書』巻七、和帝紀、永元二年
壬辰,驍騎將軍夏侯亶自京師至江陵,稱宣德太后令:「西中郎將南康王宜纂承皇祚,光臨億兆,方俟清宮,未即大號,可且封(略)十郡為宣城王,相國、荊州牧,加黃鉞,置僚屬,選百官,西中郎府南康國並如故。須軍次近路,主者詳依舊典,法駕奉迎。」


『梁書』巻二十八、夏侯亶伝
夏侯亶字世龍,車騎將軍詳長子也。齊初,起家奉朝請。永元末,詳為西中郎南康王司馬,隨府鎮荊州,亶留京師,為東昏聽政主帥。及崔慧景作亂,亶以捍禦功,除驍騎將軍。及高祖起師,詳與長史蕭穎冑協同義舉,密遣信下都迎亶,亶乃齎宣德皇后令,令南康王纂承大統,封十郡為宣城王,進位相國,置僚屬,選百官。

そこへ夏侯詳の長男の夏侯亶が到着。
元々、夏侯亶は都の建康におり、東昏侯(蕭宝巻)の代に「崔慧景の乱」の戦いで功績があって驍騎将軍に任命されていました。夏侯詳らは挙兵すると密かに都に知らせ、それを受けた夏侯亶は「宣徳皇后(王宝明)が南康王の即位を命じる文書」(と称する物)を持って荊州に合流。

『南斉書』巻七、和帝紀、永元三年
三年正月乙巳,王受命,大赦,(中略)右將軍蕭穎冑為左長史,進號鎮軍將軍,梁王進號征東將軍。

これを名目に翌年に南康王蕭宝融は朝廷を設置。

『南斉書』巻七、和帝紀、中興元年
中興元年春三月乙巳,即皇帝位,大赦,改元。(中略)以相國左長史蕭穎冑為尚書令,(中略)散騎常侍夏侯詳為中領軍,領軍將軍蕭偉為雍州刺史。

さらに3月には皇帝に即位(南斉和帝)。


『梁書』巻十、夏侯詳伝
高祖義兵起,詳與穎冑同創大舉。西臺建,以詳為中領軍,加散騎常侍、南郡太守。凡軍國大事,穎冑多決於詳。

和帝の即位により夏侯詳は中領軍・南郡太守(+散騎常侍)となり、荊州に置かれた新しい朝廷を取りまとめ、蕭衍率いる征討軍の後方支援を担う尚書令蕭穎冑の最大の補佐役となります。

荊州の実質ナンバー2であり、ちょうど都に居た長男が「皇太后の命令」を都合よく持ってくるという大手柄のあった夏侯詳はこれで挙兵陣営の中でも屈指の重鎮となります。

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