南燕の公孫氏の戦い3

410年1月、半年を超える包囲戦により広固小城の城内は半数が病を患い、降伏する者が相次ぐ状況でしたが、慕容超は降伏を勧めた重臣を投獄したり、降伏するぐらいなら戦って死ぬと述べたりしており、慕容超は降伏するつもりがさらさら無かったようです。
(泣くほど追い詰められていましたが)

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙六年
春,正月,甲寅朔,南燕主超登天門,朝群臣於城上。乙卯,超與寵姬魏夫人登城,見晉兵之盛,握手對泣。韓𧨳諫曰:「陛下遭堙厄之運,正當努力自強以壯士民之志,而更為兒女子泣邪!」超拭目謝之。尚書令董詵勸超降,超怒,囚之。
(中略)
南燕賀賴盧、公孫五樓為地道擊晉兵,不能卻。城久閉,城中男女病腳弱者太半,出降者相繼。超輦而登城,尚書悅壽說超曰:「今天助寇為虐,戰士凋瘁,獨守窮城,絕望外援,天時人事亦可知矣。苟曆數有終,堯、舜避位,陛下豈可不思變通之計乎!」超歎曰:「廢興,命也。吾寧奮劍而死,不能銜璧而生!」
丁亥,劉裕悉眾攻城。或曰:「今日往亡,不利行師。」裕曰:「我往彼亡,何為不利!」四面急攻之。悅壽開門納晉師,超與左右數十騎踰城突圍出走,追獲之。裕數以不降之罪,超神色自若,一無所言,惟以母託劉敬宣而已。
裕忿廣固久不下,欲盡阬之,以妻女賞將士。韓範諫曰:「晉室南遷,中原鼎沸,士民無援,強則附之,既為君臣,必須為之盡力。彼皆衣冠舊族,先帝遺氏;今王師弔伐而盡阬之,使安所歸乎!竊恐西北之人無復來蘇之望矣。」裕改容謝之,然猶斬王公以下三千人,沒入家口萬餘,夷其城隍,送超詣建康,斬之。

そのような状況で賀頼盧公孫五楼が地下道から打って出て東晋軍への反撃を行いますが、相手を撤退させるまではいきませんでした。

結局、2月5日に落城する中で脱出を図った慕容超も捕らえられ、南燕は滅亡しました。
相当な長期戦に陥った怒りから劉裕は皆殺しにようと考えたほどでしたが、降伏した韓範に諌められると、殺しは「王公以下三千人」の処刑程度で終わらせました。
まもなく慕容超東晋の都に送られて処刑。


記録はありませんが、公孫五楼は王公以下三千人の処刑の際に死んだのではないでしょうか。あれほど権勢のある大物だったので、いかにもこの処刑対象に含まれそうです。
慕容超の矜持あるいは身勝手さにより南燕は最後まで粘りましたが、その終わりの目前でも公孫五楼は反撃を指揮したりと働いていました。割と武闘派。一種の忠臣。

公孫五楼は奸臣として悪評が残されていますが、決して無能や無責任な輩ではなかったのでしょう。

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南燕の公孫氏の戦い2

409年2月の公孫帰らの東晋攻撃・略奪は、大きな反撃を招きます。
それが5月に始まった、劉裕の北伐です。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
(五月)南燕主超聞有晉師,引群臣會議。
征虜將軍公孫五樓曰:「吳兵輕果,利在速戰,不可爭;宜據大峴,使不得入,曠日延時,沮其銳氣,然後徐簡精騎二千,循海而南,絕其糧道,別敕段暉帥兗州之眾,緣山東下,腹背擊之,此上策也。各命守宰依險自固,校其資儲之外,餘悉焚蕩,芟除禾苗,使敵無所資,彼僑軍無食,求戰不得,旬月之間,可以坐制,此中策也。縱賊入峴,出城逆戰,此下策也。」

そこで南燕の朝議で征虜将軍の公孫五楼が、東晋との短期決戦を避けるべきであり、「大峴で守って相手を足止めしながら、(東の)海沿いに騎兵を進ませ、(西の)段暉率いる兗州軍に山間を抜けさせ、背後を狙うのが上策」、「堅壁清野で瓦解を狙うのが中策」、「大峴を通らせた敵を野戦で迎撃するのが下策」と進言。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
超曰:「今歲星居齊,以天道推之,不戰自克。客主勢殊,以人事言之,彼遠來疲弊,勢不能久。吾據五州之地,擁富庶之民,鐵騎萬群,麥禾布野,柰何芟苗徙民,先自蹙弱乎!不如縱使入見,以精騎蹂之,何憂不克。」
輔國將軍廣寧王賀賴盧苦諫不從,退謂五樓曰:「必若此,亡無日矣!」

ところが君主の慕容超は相手を引き入れて精鋭騎兵で決着をつけたがっており、焦土作戦も却下。輔国将軍・広寧王賀頼盧が必死に諌めますが聞き入れません。
賀頼盧は退出すると、このままではすぐに滅亡すると公孫五楼にこぼしています。
また、太尉の桂林王慕容鎮は同様の戦略が聞き入れられずに退出した際に、これでは今年に滅亡すると韓𧨳に述べていました。ただ、これが慕容超に知られて投獄されます。

どうやら公孫五楼賀頼盧をチクらなかったようですね。
むしろ大峴山を起点に守る献策などで非常に理知的な発言を出しており、今まで史書が小物・奸臣扱いしていたのとギャップを感じます。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
六月,己巳,裕至東莞。
超先遣公孫五樓、賀賴盧及左將軍段暉等將步騎五萬屯臨朐;聞晉兵入峴,自將步騎四萬往就之,使五樓帥騎進據巨蔑水。前鋒孟龍符與戰,破之,五樓退走。裕以車四千乘為左右翼,方軌徐進,與燕兵戰於臨朐南,日向昃,勝負猶未決。
參軍胡藩言於裕曰:「燕悉兵出戰,臨朐城中留守必寡,願以奇兵從間道取其城,此韓信所以破趙也。」裕遣藩及諮議參軍檀韶、建威將軍河內向彌潛師出燕兵之後,攻臨朐,聲言輕丘自海道至矣。向彌擐甲先登,遂克之。超大驚,單騎就段暉於城南。裕因縱兵奮擊,燕眾大敗,斬段暉等大將十餘人,超遁還廣固,獲其玉璽、輦及豹尾。
裕乘勝逐北至固;丙子,克其大城。超收眾入保小城。裕築長圍守飲,湋高三丈,穿塹三重;撫維降附,采拔賢俊,華、夷大悅。於是因齊地糧儲,悉停江、淮漕運。

6月に東晋劉裕軍は無事に東莞を通り、大峴の先に到達。
対する南燕公孫五楼賀頼盧段暉ら歩騎5万を(都・広固の東南の)臨朐に置いていましたが、峴を劉裕軍が抜けると慕容超が歩騎4万を率いて合流し、公孫五楼に前進させて巨蔑水を守らせます。
両軍が衝突すると、まず公孫五楼が撃破され後退。
続いて臨朐の南で両軍拮抗しますが、劉裕が別働隊に臨朐城を直接襲撃・攻略させたことから、慕容超は慌てて逃げ出し、劉裕軍に南燕諸軍は大敗。段暉ら大将10人ほどが討ち取られ、慕容超は広固まで逃げ込み、さらに劉裕により包囲されました。
17日には大城が陥落し、南燕は広固の小城で必死の抵抗を続けることになります。

慕容超慕容鎮を釈放して重用し、また後秦に援軍を要請しますが、既に全て遅く、孤立無援で打つ手がないまま半年以上も包囲され続け、挙げ句に滅亡しました。

タグ:南燕 東晋

南燕の公孫氏の戦い1

405年に南燕の君主になった慕容超の記録上最初の戦は翌406年の慕容法慕容鍾段宏らの討伐です。公孫五楼慕容超の腹心になり、慕容鍾と対立してその排除を目論んでいたとされますが、この「慕容鍾の乱」平定に関わった記録はありません。指揮官は慕容鎮韓範
当時の官位は武衛将軍・領屯騎校尉だったと思われますが、禁軍を率いるだけで討伐には参加しなかったのでしょうか。あるいは中央で慕容超を補佐?

後に公孫五楼は征虜将軍となり、407年に慕容超後秦への称藩と宮廷楽隊の献上を条件に母と妻を取り戻した際に、彼女らの迎えのために国境まで出向いていますが、これも戦ではありません。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙六年
春,正月,庚寅朔,南燕主超朝會群臣,歎太樂不備,議掠晉人以補伎。領軍將軍韓𧨳曰:「先帝以舊京傾覆,戢翼三齊。陛下不養士息民,以伺魏釁,恢復先業,而更侵掠南鄰以讎敵,可乎!」超曰:「我計已定,不與卿言」。

さて、409年の元日に慕容超は宮廷音楽の不備を痛感し、東晋から拉致した者達で補おうと計画します。領軍将軍の韓𧨳は反対しますが、慕容超は決行。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙六年
二月,南燕將慕容興宗、斛穀提、公孫歸等帥騎寇宿豫,拔之,大掠而去,簡男女二千五百付太樂教之。歸,五樓之兄也。是時,五樓為侍中、尚書、領左衛將軍,專總朝政,宗親並居顯要,王公內外無不憚之。南燕主超論宿豫之功,封斛穀提等並為郡、縣公。桂林王鎮諫:「此數人者,勤民頓兵,為國結怨,何功而封?」超怒,不答。尚書都令史王儼諂事五樓,比歲屢遷,官至左丞。國人為之言曰:「欲得侯,事五樓。」超又遣公孫歸等寇濟南,俘男女千餘人而去。自彭城以南,民皆堡聚以自固。詔并州刺史劉道憐鎮淮陰以備之。

2月にさっそく慕容興宗斛穀提公孫帰らに宿豫を攻略させ、拉致した2500人の住民を楽隊として養成させました。
その後、慕容超は宿豫の戦いの軍功により斛穀提らに爵位を与えようとしますが、桂林王慕容鎮に反対され、激怒しています。

韓𧨳慕容鎮もこの戦を東晋の恨みを買う無益な行為として批判しており、案の定、劉裕の北伐を招き、ネタバレですが南燕は滅亡します。

この自殺行為、戦に参加した公孫帰公孫五楼の兄でした。
当時の公孫五楼は侍中・尚書・領左衛将軍の地位で朝政を掌握し、親族も軒並み出世・繁栄しており、内外で憚らぬ者はなかったとのこと。
公孫五楼はこの作戦を率先して推進したか、慕容超に追従して後押したか、その権勢や立場を思えば何らかの関与が疑われます。
また、載記では慕容鎮の批判の中で公孫帰が名指しで挙げられており、やはり関わりがありそうです。乗り気でなくても、止めなかった責任は免れない立場でしょう。

公孫帰は同月中にさらに東晋に攻め込んで住民を約千人を拉致しており、再び火に油を注ぐ活躍。(宋書では約千家の被害)
そして3月に劉裕の主導により東晋の北伐が決定されます。

タグ:南燕 東晋

南燕と公孫氏5

「南燕と公孫氏4」の続き。
376年に前秦前涼を滅ぼした後、慕容徳は張掖太守として涼州に着任。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容超
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
慕容超,字祖明,德兄北海王納之子。秦滅燕,以納為廣武太守,數歲去官,與母公孫太妃就弟德于張掖。德從符堅南征,留金刀,辭母而去。

兄の慕容納も広武太守となり、兄弟揃って涼州にいたようです。母の公孫氏は兄の方に随行したものと思われます。数年して慕容納は離任し、母と共に慕容徳のいる張掖に移住。

やがて慕容徳は南征に参加し、兄や母と別れます。その時に金刀を残しておきました。

383年の前秦の南征が「淝水の戦い」で大敗して終わると、従軍していた慕容垂は自立し、翌384年に燕王を称します。
同じく従軍していた慕容徳は異母兄の慕容垂に合流し、再興した燕、後燕に仕えました。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容超
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
及垂兵山東,張掖太守符昌誅納及德之諸子,公孫太妃以耄不合刑,納妻段氏以懷妊未決,執于郡獄。獄掾呼延平,德之故吏也,將公孫、段氏逃于羌中,而生超焉。公孫氏臨卒,授超金刀,曰:「聞汝伯已中興於鄴都,吾朽病將沒,相見理絕。汝脫得東歸,可以此刀還汝叔也。」

この慕容垂らの自立に対して、前秦の張掖太守の苻昌は領内にいた慕容納慕容徳の子供達を処刑します。
慕容納らと一緒にいた公孫氏は高齢を理由に処刑は免れ、まもなく慕容納の妻の段氏と共に獄掾の呼延平に連れられて羌中に逃げ込みました。
そして妊娠していた段氏は385年に男児を出産。彼が慕容超と呼ばれる人物であり、公孫氏の孫(唯一生き残った男の孫?)でした。

ちなみに、この385年に西域遠征から帰国した呂光が涼州を制圧し、張掖を含む河西一帯の新たな主となりました(後涼)。

公孫氏が20歳前後で慕容徳を生んだとすると、これらは70歳頃の出来事となりますね。

『晋書』巻一百二十八、慕容超載記
至是,將公孫及段氏逃于羌中,而生超焉。年十歲而公孫氏卒,臨終授超以金刀,曰:「若天下太平,汝得東歸,可以此刀還汝叔也。」平又將超母子奔于呂光。

公孫氏慕容超が10歳の時に死去。
公孫氏は臨終の際に慕容超に金刀を渡して「天下が太平になって東へ帰れた時は、この刀を叔父に返すように」言い残しました。
没年は394年。享年は80歳近くでしょうか。


その後、慕容超と母の段氏呼延平に連れられて呂光後涼に移住。
385年に羌中の地域に隣接する鮮卑禿髪部が後涼から爵位を貰ったり、西秦が一時的に後涼に屈して称藩しており、また翌年には後涼呂光が「天王」に即位していました。
ちょうど後涼の最盛期であり、それが呼延平らの移動の動機かもしれませんね。

後涼が滅亡した後、405年になって慕容超はようやく東部に逃れ、叔父の慕容徳が建てた南燕に入ります。そして慕容徳に金刀を返すと共に祖母・公孫氏の言葉を伝え、慕容徳から兄・慕容納の子として認められただけでなく、息子のいなかった慕容徳の後継者に選ばれることになりました。

タグ:南燕 後燕 前秦

南燕と公孫氏4

今回は慕容徳の母の公孫氏の生涯を見ていきましょう。

333年に鮮卑慕容部の首長の慕容廆が死ぬと三男の慕容皝(37歳)が勢力を継承しますが、そこで離反した兄や弟との戦いが336年まで続きました。
この頃に公孫氏慕容皝の側室の一員になったのではないでしょうか。また、少なくとも一人の男児を出産。これが慕容納です。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容徳
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
慕容德,字玄明,皝之少子。皝每對諸宮人言:「婦人姙娠,夢日入懷,必生天子。」公孫夫人方娠,夢日入臍中,獨喜而不敢言。晉咸康二年,晝寢生德,左右以告,方寤而起。皝曰:「此兒易生,似鄭莊公,必有大德。」遂以德為名。

慕容皝は常日頃から妻妾に「妊娠の際に太陽が懐に入る夢を見た者は天子を生む」と述べており、公孫氏はまさに妊娠する時に太陽が体に入る夢を見たことから、密かに喜びましたが、そのことは言わなかったそうです。
そして336年、公孫氏は寝ている時に出産。この時に生まれた子供に慕容皝は「徳」と名付けました。
これが慕容徳の誕生です。公孫氏が20歳前後ぐらいの時でしょうか。

337年に慕容皝は燕王に即位。上記の逸話は慕容皝が王になる前のこと。

348年、慕容皝が死去。王太子の慕容儁慕容徳の異母兄、30歳)が燕王に即位します。
時に慕容徳は12歳。寡婦となった公孫氏は30歳前後でしょうか。

354年に慕容納が北地王、慕容徳は梁公となります。
慕容徳は16歳。公孫氏は30代?

その後、前燕は最盛期を迎え、成人した慕容徳も軍功を挙げたりしましたが・・・。
370年、前燕が滅亡。慕容徳公孫氏前秦の長安に移されます。
時に慕容徳は35歳。公孫氏は50代?

タグ:南燕 前燕

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