蒋琬の親族

『三国志』巻四十四、蒋琬伝
蔣琬字公琰、零陵湘鄉人也。弱冠與外弟泉陵劉敏俱知名。

零陵・湘郷の蒋琬の外弟は零陵・泉陵の劉敏です。
「外兄弟」は「姑(父の姉妹)の息子」。いわゆる「いとこ」。

『三国志』巻六十一、潘濬伝、注引『江表伝』
時濬姨兄零陵蔣琬為蜀大將軍,或有閒濬於武陵太守衞旌者,云濬遣密使與琬相聞,欲有自託之計。旌以啟權,權曰:「承明不為此也。」即封旌表以示於濬,而召旌還,免官。

『三国志』巻六十一、潘濬伝
潘濬字承明,武陵漢壽人也。弱冠從宋仲子受學。

また、武陵・漢寿の潘濬から見て蒋琬は姨兄でした。
「姨兄弟」は「従母(母の姉妹)の息子」。これも「いとこ」。

つまり、以下の通り。
蒋琬系図


呉の潘濬は荊州人の中で孫権から最も重んじられた者であり、二重に姻戚となり、230年代の荊州方面の重鎮でした。
一方、蜀漢の蒋琬は230年代前半に丞相諸葛亮の留府長史として後方を統括し、230年代後半には諸葛亮の後任の宰相として国を率いました。
近い親族が隣接する国の重鎮にある状況は、やはり内通や結託の可能性が疑われるものであり、では(蜀漢の国境に隣接する)武陵郡の太守が君主にそのような情報を報告したという話もあります。ただ、君主の孫権はありえないと述べ、潘濬にその報告内容を送って見せると共に武陵太守を召喚&免官しています。

さて、「近い親族が隣接する国の重鎮にある状況」は既に諸葛瑾諸葛亮兄弟の時代にありました。その時も諸葛瑾を疑う上表がありましたが、孫権はやはり文書を諸葛瑾に送っています。讒言に応じず、信じているとの意思を示したのでしょう。

諸葛瑾諸葛亮は公私混同はしませんでしたが、手紙を送りあって交流がありました。諸葛亮諸葛瑾の長男の適正について(の陸遜)に助言したという逸話もあり、情報交換や互いへの配慮が度々行われていたと思われます。
そう考えると、諸葛亮の死後に蒋琬がトップに立つことで、蜀漢は呉の上層との私的な繋がりを再び持つことができたのは大きなメリットでしょう。

ところが、蒋琬が北伐の準備に入った矢先の239年に潘濬は死去。そして240年代には蜀漢側の動き(造船など)がから警戒を呼んだりしており、蜀漢の荊州の間で連携が取れていませんでした。このような中で蒋琬蜀漢朝廷から抑えられ、まもなく死去。
潘濬が生きていたら、この展開も変わったかもしれませんね。

タグ:蜀漢

関羽vs馬超&黄忠

『三国志』巻三十六、関羽伝
先主西定益州,拜羽董督荊州事。羽聞馬超來降,舊非故人,羽書與諸葛亮,問超人才可誰比類。亮知羽護前,乃答之曰:「孟起兼資文武,雄烈過人,一世之傑,黥、彭之徒,當與益德並驅爭先,猶未及髯之絕倫逸羣也。」羽美鬚髯,故亮謂之髯。羽省書大悅,以示賓客。

馬超劉備に仕え始めると、関羽は書簡で諸葛亮馬超の人物・才能は比類するか訪ねています。
諸葛亮は(空気を読んで)馬超を褒めて張飛並と述べつつ、関羽には及ばないと返答し、関羽を大いに喜ばせました。
馬超を格下と見ていたらここまで喜ばないでしょう。関羽馬超を大物と見て、ある種のライバル意識を持っていたのでしょうね。


『三国志』巻四十一、費詩伝
先主為漢中王,遣詩拜關羽為前將軍,羽聞黃忠為後將軍,羽怒曰:「大丈夫終不與老兵同列!」不肯受拜。詩謂羽曰:「夫立王業者,所用非一。昔蕭、曹與高祖少小親舊,而陳、韓亡命後至,論其班列,韓最居上,未聞蕭、曹以此為怨。今漢王以一時之功,隆崇於漢升,然意之輕重,寧當與君侯齊乎!且王與君侯,譬猶一體,同休等戚,禍福共之,愚為君侯,不宜計官號之高下,爵祿之多少為意也。僕一介之使,銜命之人,君侯不受拜,如是便還,但相為惜此舉動,恐有後悔耳!」羽大感悟,遽即受拜。

後に関羽黄忠と同時に同格の将軍に任命される人事に当初は反発していました。
黄忠と同列に扱われたくなかったようです。その点を踏まえた費詩の発言に納得してその場で受け入れていますが。


漢中王の前後左右将軍となった関羽張飛馬超黄忠は当時の軍人筆頭達ですが、その中で関羽は他と同列ではなく上位にあるとの自負があったのではないでしょうか。

ただ、数奇なことに関羽は「馬超黄忠を合わせたような者」に破れます。

『三国志』巻四十七、呉主伝、建安二十四年
關羽還當陽,西保麥城。權使誘之。羽偽降,立幡旗為象人於城上,因遁走,兵皆解散,尚十餘騎。權先使朱然、潘璋斷其徑路。十二月,璋司馬馬忠獲羽及其子平、都督趙累等於章鄉,遂定荊州。

敗走した関羽捕らえるというとどめを刺した者の名は馬忠
馬忠馬超黄忠

関羽馬超黄忠にそれぞれ勝ったかもしれませんが、混ぜたような者の馬忠に破れたと思えば面白いですね。

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劉備の大大大系図

劉備の親戚の親戚の親戚の親戚の親戚の・・・などを集めた巨大系図抜粋 をご用意しました!

蜀漢大系図

タグ:蜀漢 後漢 西晋 前趙

魏の尹礼/尹盧

『三国志』巻一、武帝紀、建安三年
太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨各聚眾。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附於海以委焉,分瑯邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。

尹礼は泰山の臧覇らと共に徐州北部にいた小群雄であり、徐州の呂布を滅ぼした曹操臧覇らと共に帰順し、青州・徐州方面を委ねられた者の一人です。
(資治通鑑などで「泰山諸将」と呼ばれる集団の一員)

『三国志』巻十八、臧覇伝
太祖以霸為琅邪相,敦利城、禮東莞、觀北海、康城陽太守,割青、徐二州,委之於霸。(中略)東州擾攘,霸等執義征暴,清定海岱,功莫大焉,皆封列侯。霸為都亭侯,加威虜將軍。

この時に尹礼は東莞郡の太守に就任。
その後、青州方面の争乱への対応に大きな功績があったとして臧覇らは列侯に封じられました。筆頭格の臧覇は威虜将軍となり、後にさらに出世して上尊号碑に「使持節・行都督督軍・徐州刺史・鎮東将軍・武安郷侯」として載るほどの大物となりました。

これら泰山諸将の中で、その後の記録が明確なのは臧覇孫観だけです。
孫観臧覇と共に州刺史まで登りますが(臧覇が徐州・孫観が青州)、216年~217年の濡須口の戦いによる負傷が原因で死亡。最終的な官爵は振威将軍と呂都亭侯でした。

臧覇もこの戦いに参加しており、でも222年の南征に加わりました。

『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武元年
冬十一月,大風,範等兵溺死者數千,餘軍還江南。曹休使臧霸以輕船五百、敢死萬人襲攻徐陵,燒攻城車,殺略數千人。將軍全琮、徐盛追斬魏將尹盧,殺獲數百。


『三国志』巻六十、全琮伝
魏以舟軍大出洞口,權使呂範督諸將拒之,軍營相望。敵數以輕船鈔擊,琮常帶甲仗兵,伺候不休。頃之,敵數千人出江中,琮擊破之,梟其將軍尹盧。遷琮綏南將軍,進封錢唐侯。

側の記録では、臧覇が参加した地域で「尹盧」というの将軍が戦死しています。

そしてこの「尹盧」を尹礼とする見解があります。

『三国志』巻十八、臧覇伝、注引『魏略』
霸一名奴寇。孫觀名嬰子。吳敦名黯奴。尹禮名盧兒

尹礼の別名が「(尹)盧児」だったという記録が主な根拠。
尹盧児=尹盧

さて、上記の臧覇伝の経歴から考えると、尹礼の建国後も存命なら将軍&列侯だったのは間違いなく、もしかしたら郡や州の長官も兼ねていたかもしれませんね。

を建国した時に臧覇が徐州刺史のままでしたが、孫観の後任の青州刺史が空いており、刺史ならば青州がありえそうです。
側の記録ではの「刺史」であることよりも、「将軍」だったことの方が載っているように見えるので、「刺史」だった情報が省かれた可能性は十分あるでしょう。

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曹丕と四将軍3

西・南・東の三方に散っていた張郃徐晃張遼ら四将軍は222年に始まる南征で再び同じ方面に投入されます。

『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武元年
秋九月,魏乃命曹休、張遼、臧霸出洞口,曹仁出濡須,曹真、夏侯尚、張郃、徐晃圍南郡。權遣呂範等督五軍,以舟軍拒休等,諸葛瑾、潘璋、楊粲救南郡,朱桓以濡須督拒仁。

正確には、張遼が洞口に出る東部諸軍、張郃徐晃が江陵を狙う西部諸軍に参加していました。

『三国志』巻十七、徐晃伝
與夏侯尚討劉備於上庸,破之。以晃鎮陽平,徙封陽平侯。明帝即位,拒吳將諸葛瑾於襄陽。


『三国志』巻十七、張郃伝
詔郃與曹真討安定盧水胡及東羌,召郃與真並朝許宮,遣南與夏侯尚擊江陵。郃別督諸軍渡江,取洲上屯塢。明帝即位,遣南屯荊州,與司馬宣王擊孫權別將劉阿等,追至祁口,交戰,破之。

江陵方面の主な参加者は、220年時点で既に荊州に居た夏侯尚徐晃、そして当初は雍州に居てこの年に中央に戻ってきた曹真張郃
この江陵の戦いで軍は色々やったのですが、突破できずに撤退。
その微妙な結果のためか、張郃伝では順調だった時点の戦果である「中洲の制圧」ぐらいしか記録がなく、徐晃伝に至っては完全に省略されてしまっています。

その後、張郃徐晃明帝の初頭にまた荊州で軍と戦っており、この時は迎撃戦で勝ったおかげかもう少し記録がありますね。


『三国志』巻十七、張遼伝
疾小差,還屯。孫權復叛,帝遣遼乘舟,與曹休至海陵,臨江。權甚憚焉,敕諸將:「張遼雖病,不可當也,慎之!」是歲,遼與諸將破權將呂範。遼病篤,遂薨于江都。帝為流涕,諡曰剛侯。子虎嗣。
六年,帝追念遼、典在合肥之功,詔曰:「合肥之役,遼、典以步卒八百,破賊十萬,自古用兵,未之有也。使賊至今奪氣,可謂國之爪牙矣。其分遼、典邑各百戶,賜一子爵關內侯。」虎為偏將軍,薨。子統嗣。

一方の曹休張遼らはの大将を撃破し、最後は撤退したとはいえども攻め込んだ3方面の中では最も大きな被害を与えていました。
ただ、張遼は既に病に罹って一時は任地に入らずに療養していたほどで、従軍する頃にはいくらか回復し、また病の状態でも呉から恐れられていましたが、そのまま前線で亡くなってしまいました。
文帝(曹丕)はその死を泣いて悲しみ、また225年に爵位・食邑に関して追加の恩典を与えています。

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