巴西宕渠の李特

『魏書』巻九十六、賨李雄伝
賨李雄,字仲儁,蓋廩君之苗裔也。其先居於巴西宕渠。

『太平御覧』巻一百二十三、偏霸部七、蜀李特
李特,字玄休,巴西宕渠人。

賨の李特李雄の先祖は宕渠県に住んでおり、本籍で言えば巴西宕渠人です。

さて、賨(板楯蛮)は元々は「巴郡閬中夷」でした。

『太平御覧』巻一百六十七、州郡部十三、山南道上、閬州
『三巴記』
閬中有渝水,賨民銳氣喜舞。故高祖樂其猛銳,數觀其舞,使樂人習之,故樂府中有巴渝舞。

『三巴記』に賨民の舞から「巴渝舞」が生まれた話があり、『後漢書』によると「巴郡閬中夷」(後の板楯蛮)が閬中県の渝水の周りに住んでいたことが「巴渝舞」の由来として示されています。

後漢末期の群雄割拠時代に巴郡の西北部が分離され、「巴西郡」が置かれます。治所は「閬中県」。
「宕渠県」も巴西郡の一部でしたが、劉備蜀漢が「巴西郡」の東部を分割した時には「宕渠郡」の治所となりました。

『続漢書』と注と後の地誌などを見ると、後漢の初期の巴郡には、西部の閬水沿いの北に閬中、南に安漢があり、その東の宕渠水付近に宕渠が置かれていました。
「閬中県」と「宕渠郡」は隣接していますが、明らかに異なる河川を軸にした地域です。

渝水付近に住む「巴郡閬中夷」がどのように「巴西宕渠人」となったのか。

実は閬水は一般に羌水や西漢水と呼ばれ、

『水経注』巻三十三、江水
又東北至巴郡江州縣東,强水、涪水、漢水、白水、宕渠水,五水合,南流注之。
<强水,即羌水也。宕渠水,即潛水、渝水矣。>

宕渠水は潜水や「渝水」とも言われました。

『読史方輿紀要』巻六十八、四川三、保寧府、広安州、渠県
宕渠城<縣東北七十里。漢置縣,屬巴郡,後漢因之。應劭曰:「石過水為宕,水所蓄為渠,故縣以是名。」劉先主嘗分巴郡之宕渠、宣漢、漢昌三縣置宕渠郡,晉省入巴西郡,惠帝復分巴西置宕渠郡。>

宕渠県が置かれたのはの時であり、「巴郡閬中夷」と呼ばれた劉邦時代ではまだ宕渠が閬中の領域に含まれていたのでしょう。
「宕渠」県の由来は「石過水為『宕』」「水所蓄為『渠』」と応劭先生は述べていますが、「洞穴(宕)の首領(渠)の地」ぐらいのニュアンスかもしれませんね。
(閬中の南の「安漢」県もが置いたものであり、の時よりも細かく統治するようになったのでしょう)

『華陽国志』巻一、巴志、宕渠郡
長老言:「宕渠蓋為故賨國。今有賨城、盧城。」秦始皇時,有長人二十五丈見宕渠。秦史胡母敬曰:「是後五百年外,必有異人為大人者。」及雄之王,祖世出自宕渠,有識者皆以為應之。

この宕渠は「賨城」が残っており、かつて賨の国があったと言われる土地でした。
また、始皇帝の時に25丈(約60メートル!)の巨人が宕渠に現れたことで「500年後には異人から大人物(皇帝)が出るだろう」と予言する者がいました。

そして宕渠人の子孫である李雄が王となったことで予言が成就されました。

タグ:成漢 蜀漢 地理

蜀漢≒蜀漢

蜀漢について正史で「蜀漢」と書く時があります。

『三国志』巻四十八、孫皓伝、元興元年、注
漢晉春秋載晉文王與晧書曰:「(中略)方今主上聖明,覆幬無外,僕備位宰輔,屬當國重。唯華夏乖殊,方隅圮裂,六十餘載,金革亟動,無年不戰,暴骸喪元,困悴罔定,每用悼心,坐以待旦。將欲止戈興仁,為百姓請命,故分命偏師,平定蜀漢,役未經年,全軍獨克。(中略)」

晋王司馬昭の皇帝孫皓に送った手紙にある蜀漢平定を命じて1年経たずに達成したという文中で「平定蜀漢」とあります。

『三国志』巻三十五、諸葛亮伝、注引『黙記』
昔樂毅以弱燕之眾,兼從五國之兵,長驅彊齊,下七十餘城。今蜀漢之卒,不少燕軍,君臣之接,信於樂毅,加以國家為脣齒之援,東西相應,首尾如蛇,形勢重大,不比於五國之兵也,何憚於彼而不可哉?

また、張儼蜀漢について論じた文の中で、「今蜀漢之卒不少燕軍」と蜀漢の兵力は昔々に楽毅が率いたの軍勢ほど少なくは無いと述べています。

これだけを見ると蜀漢は当時も「蜀漢」と書かれていたように考えてしまいますが、実は「蜀漢」は蜀や漢中の地域を指す由緒ある表現です。
例えば史記にも見られ、劉邦が漢王として向かった場所、そして挙兵した場所として複数の記述があります。

『三国志』巻十、荀彧伝
彧曰:「不先取呂布,河北亦未易圖也。」太祖曰:「然。吾所惑者,又恐紹侵擾關中,亂羌、胡,南誘蜀漢,是我獨以兗、豫抗天下六分之五也。為將奈何?」

三国志でも蜀漢と関係ない事例として、197年頃の荀彧曹操の会話の中で、河北の袁紹が関中に手を広げてさらに南の「蜀漢」を引き入れることを危惧する発言があります。

つまり、劉備が立てたは現在では蜀漢とも呼ばれますが、「蜀漢」の地にあったことから当時でも「蜀漢」という表現が使われることがあったわけですね。


余談ですが、当ブログは「文中の強調箇所」の他、「人名」や「国名」を太字で示すスタイルです。そのため、本記事のタイトルは「蜀漢≒蜀漢」という表記になります。

タグ:蜀漢 後漢 地理

前燕の流民4郡と内史

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年
是時中國流民歸廆者數萬家,廆以冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,幷州人為唐國郡

流民の出身地に合わせて冀陽郡・成周郡・営丘郡・唐国郡が前燕(の前身)に置かれました。「郡」なので、普通ならこれら4郡は「太守」が長官のはず。

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康七年
春,正月,燕王皝使唐國內史陽裕等築城於柳城之北,龍山之西,立宗廟、宮闕,命曰龍城。

ところが341年に「唐国内史」陽裕が出てきます。
「内史」は通常の制度なら「王国」に置かれる官です。
まさか「唐国国」だったのでしょうか?

『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康四年
虎遣使四出,招誘民夷,燕成周內史崔燾、居就令游泓、武原令常霸、東夷校尉封抽、護軍宋晃等皆應之,凡得三十六城。泓,邃之兄子也。冀陽流寓之士共殺太守宋燭以降於趙;燭,晃之從兄也。營丘內史鮮于屈亦遣使降趙。武寧令廣平孫興曉諭吏民共收屈,數其罪而殺之,閉城拒守。朝鮮令昌黎孫泳帥衆拒趙。大姓王清等密謀應趙,泳收斬之;同謀數百人惶怖請罪,泳皆釋之,與同拒守。

実は338年の後趙侵攻の際に「成周内史」崔燾や「営丘内史」鮮于屈が出てきます。
おそらく、唐国・成周・営丘などは王国でなくても内史が置かれていたようです。

このパターンは複数の郡に渡る封地を持つ郡王がいる時に発生するようです。
前年に君主の慕容皝が燕王に即位しており、「燕王国」の一部として扱ったのではないでしょうか。

まあ、同時に冀陽郡には「太守」の宋燭がおり、誤字や適当だった可能性もありますが。

タグ:地理 前燕

毌丘興の墓

『三国志』巻二十九、方技伝、管輅
輅隨軍西行,過毌丘儉墓下,倚樹哀吟,精神不樂。人問其故,輅曰:「林木雖茂,無形可久;碑誄雖美,無後可守。玄武藏頭,蒼龍無足,白虎銜尸,朱雀悲哭,四危以備,法當滅族。不過二載,其應至矣。」卒如其言。

管輅毌丘倹の墓を通りかかった時、毋丘倹は2年も経たずに族滅に遭うと予言して当てたという逸話があります。

予言の内容はさておき、毌丘倹が死んでいないのに、その墓があったのでしょうか。

これはおそらく、水経注にもある「毌丘倹の父の毌丘興の墓」のことでしょう。

『水経注』巻十六、穀水
穀水又東逕新安縣故城南,北夾流而西接崤黽。(中略)穀水又東逕魏將作大匠毌丘興墓南,二碑存焉。儉父也。《管輅別傳》曰:輅嘗隨軍西征,過其墓而歎,謂士友曰:玄武藏頭,青龍無足,白虎銜尸,朱雀悲哭,四危已備,法應滅族。果如其言。穀水又東逕函谷關南,東北流,皁澗水注之,水出新安縣,東南流逕毌丘興墓東,又南逕函谷關西,關高嶮陿,路出廛郭。(中略)皁澗水又東流入于穀。


弘農の通る大きな河川は「北側の黄河」、「南側の洛水」、そして「東部の穀水」の3種。
その穀水は新安県の南を通り、東の「毌丘興の墓」の南も通り、さらに東の函谷関の南を通って東へ流れていました。

また、新安県から出た皁澗水は東南に流れて「毌丘興の墓」の東を通り、函谷関の西を抜けて穀水に合流していたそうです。

つまり「毌丘興の墓」は、穀水の北、新安県の東、函谷関の西、皁澗水の西南となる場所にありました。(の弘農郡の東端付近)

わざわざ河川の流れる地域の説明に2度も言及されるぐらいですから(それも数百年後の記録)、「毌丘興の墓」は知名度があり、ランドマークとなる程の規模のものだったと思われます。

それにしても、本籍の河東でも無い場所にそれほどの墓があったのは不思議ですね。弘農に移住したか、基盤があったのでしょうか。

タグ: 地理

鄧至羌の由来

南北朝時代の周辺勢力の中に羌族が率いる「鄧至」という国がありました。

『南史』巻七十九、夷貊伝下、西戎、鄧至国
鄧至國,居西涼州界,羌別種也。世號持節、平北將軍、西涼州刺史。宋文帝時,王象屈耽遣使獻馬。梁天監元年,詔以鄧至王象舒彭為督西涼州諸軍事,進號安北將軍。五年,舒彭遣使獻黃耆四百斤,馬四匹。其俗呼帽曰突何。其衣服與宕昌同。


『北史』巻九十六、四夷伝下、鄧至
鄧至者,白水羌也,世為羌豪,因地名號,自稱鄧至。其地自亭街以東,平武以西,汶嶺以北,宕昌以南,土風習俗,亦與宕昌同。其王像舒治遣使內附,高祖拜龍驤將軍、鄧至王,遣貢不絕。周文命章武公導率兵送之。

君主は象屈耽像舒治象舒彭など「象氏」。
鄧至の由来はそこの地名によるものとあります。

鄧至は仇池氐の西、宕昌羌の南におり、南北朝どちらにも遣使していましたが、西魏北周の頃に滅亡したようです。

『旧唐書』巻四十一、地理志四、剣南道、扶州
同昌
歷代吐谷渾所據。西魏逐吐谷渾,於此置鄧州及鄧寧郡,蓋以平定鄧至羌為名。隋初,改置扶州及同昌縣。煬帝又為同昌郡。流於此也。

その故地には鄧州と鄧寧郡が置かれました。
鄧至羌を平定してできた州と郡なので、鄧州と鄧寧郡。そのままですね。
後に鄧州は扶州に改称し、また同昌県や同昌郡が置かれました。


また、この地域には「鄧至山」がありました。これが「鄧至」の由来でしょう。

『隋書』巻二十九、地理志上、梁州、同昌郡
同昌郡<西魏逐吐谷渾,置鄧州。開皇七年改曰扶州。統縣八,戶一萬二千二百四十八。>
(中略)
同昌<西魏置。有鄧至山,云鄧艾所至,故名焉。>

そして鄧至山は「鄧艾が至った場所」だったため、名付けられたそうです。

つまり、遡ると鄧艾が鄧至羌の由来だったことになります。
種族名・勢力名として残るとは本人も夢にも思っていなかったでしょうね。

(鄧艾→鄧至山→鄧至羌→鄧州・鄧寧郡)

タグ: 西魏 地理

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