韋祖思と韋玄と韋叡の祖父

『晋書』巻一百三十、赫連勃勃載記
勃勃歸于長安,徵隱士京兆韋祖思。既至而恭懼過禮,勃勃怒曰:「吾以國士徵汝,柰何以非類處吾!汝昔不拜姚興,何獨拜我?我今未死,汝猶不以我為帝王,吾死之後,汝輩弄筆,當置吾何地!」遂殺之。

晋書の載記には、赫連勃勃が京兆の韋祖思を殺した逸話があり、その箇所に韋祖思は隠士であり、また過去に後秦姚興に謁見拝礼しなかったとあります。

『宋書』巻九十五、索虜伝
京兆人韋玄隱居養志,有高名,姚興備禮徵,不起,高祖辟為相國掾,宋臺通直郎,又並不就。佛佛召為太子庶子,玄應命。佛佛大怒,曰:「姚興及劉公相徵召,並不起,我有命即至,當以我殊類,不可理其故耶。」殺之。

宋書の索虜伝には、赫連勃勃が京兆の韋玄を殺した逸話があり、その箇所に韋玄は隠棲の志があり、また過去に後秦姚興東晋劉裕の招きに応じていなかったとあります。

ここまで共通点があるので、普通に考えると韋祖思韋玄は同一人物でしょう。
その場合、「祖思」は韋玄の字のはず。


『梁書』巻十二、韋叡伝
韋叡字懷文,京兆杜陵人也。自漢丞相賢以後,世為三輔著姓。祖玄,避吏隱於長安南山。宋武帝入關,以太尉掾徵,不至。伯父祖征,宋末為光祿勳。父祖歸,寧遠長史。

そして梁書には、京兆の韋叡の祖父に韋玄がおり、元は長安南山に隠棲し、後に劉裕の太尉掾に招かれても応じなかった人物だったとあります。

これらも同一人物と考えるのが自然でしょう・・・か?

韋叡の祖父」韋玄の息子は韋祖征韋祖帰です。
赫連勃勃に殺された隠士の韋祖思と「韋叡の祖父」が同一人物なら、親子で字の文字がかぶってしまいます。
これはありうるのでしょうか?


矢野主税氏の「韋氏研究」では(赫連勃勃に殺された)韋祖思韋玄の子(つまり韋祖征韋祖帰の兄弟)としています。
この解釈は全ての記述を満たす上に命名の慣習にも合致する最良の案。
ただ、全て正しいとすると韋玄韋祖思は親子で隠士であり、さらに共に赫連勃勃に殺されたことになります。ありえなくはありませんが、それなら何らかの言及があったも良さそうなものです。
違和感はありますが、整合性が取れる解釈と言えるでしょう。

一応、「韋玄劉裕赫連勃勃から官位を授けられた記録がある」一方で「韋祖思は(単に)隠士や国士とみなされていた」という点から、韋玄はいきなり官位を与えられるだけの年齢にあり、その息子の韋祖思は名声があったが若手だったとも考えられますね。


このような「隠士の韋祖思韋玄韋叡の祖父)の子」という解釈も面白いでしょう。

タグ: 夏国 後秦

赫連勃勃と韋祖思と韋玄

417年、東晋劉裕の北伐により、長安が陥落し、後秦が滅亡。
同年末に劉裕が帰還すると、赫連勃勃が長安を狙って動き出します。
418年、劉裕が宋公に進み、この2年後に東晋から禅譲を受けてを建国することになります。
一方、この年に赫連勃勃が長安を制圧し、皇帝に即位しました。

『晋書』巻一百三十、赫連勃勃載記
于是為壇于灞上,僭即皇帝位,赦其境內,改元為昌武。遣其將叱奴侯提率步騎二萬攻晉并州刺史毛德祖于蒲坂,德祖奔于洛陽。以侯提為并州刺史,鎮蒲坂。
勃勃歸于長安,徵隱士京兆韋祖思。既至而恭懼過禮,勃勃怒曰:「吾以國士徵汝,柰何以非類處吾!汝昔不拜姚興,何獨拜我?我今未死,汝猶不以我為帝王,吾死之後,汝輩弄筆,當置吾何地!」遂殺之。


『資治通鑑』巻一百一十八、晋紀四十、元熙元年
(正月)
夏主勃勃徵隱士京兆韋祖思祖思既至恭懼過甚,勃勃怒曰:「我以國士徵汝,汝乃以非類遇我!汝昔不拜姚興,今何獨拜我?我在,汝猶不以我為帝王;我死,汝曹弄筆,當置我於何地邪!」遂殺之。

419年、長安を得た赫連勃勃のもとに隠士の「京兆の韋祖思」が訪れます。
ところが韋祖思赫連勃勃に対して過剰に恭敬を尽くすと、その態度に激怒した赫連勃勃は自身が呼び出したにも関わらず韋祖思を責め立てた末に殺害しました。
物騒な対応ですね。


『宋書』巻九十五、索虜伝
高祖東還,即入寇北地。安西將軍義真之歸也,佛佛遣子昌破之青泥,俘囚諸將帥,遂有關中,自稱尊號,號年曰真興元年。京兆人韋玄隱居養志,有高名,姚興備禮徵,不起,高祖辟為相國掾,宋臺通直郎,又並不就。佛佛召為太子庶子,應命。佛佛大怒,曰:「姚興及劉公相徵召,並不起,我有命即至,當以我殊類,不可理其故耶。」殺之。

さて、宋書では「京兆の韋玄」が登場します。彼は長安を支配した後秦姚興東晋劉裕から手厚く招かれたにも関わらず応じませんでしたが、赫連勃勃の招聘には応じ、それで逆に赫連勃勃を怒らせて殺されたとあります。


韋祖思韋玄。どちらも赫連勃勃の招きに応じ、かえって殺された京兆の隠士です。
そのような京兆人が二人いたのか、それとも同一人物なのか。

一応、屠本『十六国春秋』では「韋玄字祖思」として同一人物(「祖思」は字)とみなしていますね。
(もっとも屠本は史書を切り貼りする際に手も加えており、元々何らかの資料にあったのか、編纂段階で同一人物とみなしてくっつけたのか不明です)

タグ:後秦 夏国 東晋

元嘉諸王略史4

元嘉七年(430年)
②-①長沙王29歳?、②-②臨川王28歳、①-③文帝24歳、①-④彭城王22歳、①-⑤江夏王18歳、①-⑥竟陵王16歳、①-⑦衡陽王16歳、①-③-①皇太子7歳。

3月、右将軍・南豫州刺史の到彦之を総大将とする北伐が始動。
文帝は即位した時から河南の回復を志しており、また腹心の到彦之に開府儀同三司を授けるきっかけを求めていました。
到彦之は安北将軍・徐州刺史の王懿(王仲徳)や兗州刺史の竺霊秀を率いて水軍で北上。
驍騎将軍の段宏や豫州刺史の劉徳武も陸路で出撃、後将軍・南兗州刺史の長沙王劉義欣が彭城に移動して後詰となっていました。他には司州刺史尹沖趙伯符朱脩之杜驥王玄謨姚聳夫などが従軍。段宏は元南燕の重臣。劉徳武はおそらく「彭城四劉」の叢亭里の系統。尹沖は元後秦の官僚で北伐前は雍州に居たようです。

7月、侍中・太子詹事の王曇首が死去。
この時、領軍将軍の殷景仁は服喪中であり、侍中・右衛将軍の謝密(謝弘微)しか「五臣」は残っていませんでした。

この頃に到彦之が東平の須昌に到達。
北魏は「河南四鎮」金墉(洛陽)・虎牢・滑台・碻磝などの兵力が少なかったことから放棄して黄河の北へ撤収します。
さらに到彦之は黄河流域まで進み、朱脩之を滑台、尹沖を虎牢、杜驥を金墉の守りにつかせ、姚聳夫を黄河の北岸まで攻め入らせたりしています。また赫連定が使者を送ってと和親し、北魏領の分配を取り決めたのもこの頃。
ここまでは順調そうな北伐軍でしたが、8月に北魏姚聳夫を大破し、黄河を挟んで膠着状態となります。
の本国では(その4日後に)文帝の三男劉駿が誕生。母は路淑媛。
路淑媛(路恵男)は丹陽郡建康県の出身で、これにより「淑媛」のランクとなります。
元嘉略史430


まもなく北魏への反撃との征伐を並行して行うことを決断し、冬に入って黄河が凍結すると渡河して攻勢に転じます。
まず杜驥姚聳夫が遁走して金墉が陥落し、続いて虎牢も陥落して尹沖が死亡。竺霊秀は須昌を放棄し、湖陸でも撃破され彭城まで退却。
そして到彦之王懿を率いて青州に逃れ、さらに船・武具・防具などを焼き払って放棄すると彭城まで撤退。そして残る滑台では朱脩之らが包囲され孤立。
北伐軍は莫大な軍需品を失い、到彦之王懿は投獄、竺霊秀姚聳夫は処刑となりました。
ちなみに杜驥は責任を姚聳夫に押し付けて生き延びます。
同時期に北魏の君主拓跋燾赫連定を撃破し、長安を再占領していました。

この状況で滑台救援を檀道済が命じられます。


元嘉八年(431年)
檀道済王懿段宏を率いて北上し、東平などで北魏軍と連戦しながら前進し、黄河付近まで到達しますが・・・。
2月に滑台が陥落。檀道済らは撤退に移り、兵糧も兵力も不足していましたが無事に歴城から帰還しました。
この戦いで檀道済の威名は河北に広まったようです。
なお、檀道済の撤退直後に北魏の襲撃を恐れた青州刺史の蕭思話が東陽城から逃げ出し、大事には至らなかったものの処罰を受けました。

かくして北伐は終了。得たものは檀道済の武名ぐらいで散々な結果でした。


さて、北伐の失敗を受けて各地で人事が行われました。
まず、昨年冬に豫州と南豫州を統合して徐州刺史の長沙王劉義欣を豫州刺史とし、輔国将軍・司徒司馬の吉翰を司州刺史、右将軍の竟陵王劉義宣を徐州刺史としました。
竟陵王劉義宣は任地に向かわず、引き続き建康の石頭城に駐屯。
この年には兗州と青州の刺史の交代があり、南兗州刺史には太子右衛率の劉遵考、続いて徐州刺史の竟陵王劉義宣が就任し、吉翰が徐州刺史とされました。
竟陵王劉義宣の代わりに末弟の征虜将軍・衡陽王劉義季が領石頭戍事。

また尚書右僕射の江夷が湘州刺史に任じられますが途中で死去。
湘州は12月に荊州に統合。
秋には尚書左僕射(・輔国将軍・丹陽尹)の臨川王劉義慶が僕射からの離任を求めて中書令・前将軍・丹陽尹に転任となりました。さらに侍中・右衛将軍の謝密が病により離任。
そしてこの頃に文帝の補佐役として劉湛が入朝し、太子詹事となります。
殷景仁の推薦によるもので、前職は荊州刺史・江夏王劉義恭の長史・南蛮校尉。
雍州刺史の張邵が後任の長史・南蛮校尉。なお張邵は雍州統治時代に開墾に成功した一方で群蛮の信望を失って反乱を招いており、またその頃の不正蓄財が原因で後に処刑されかけますが、左衛将軍の謝述の弁護により免官で済みました。

もう一つ重要な人事が閏6月の劉道産の雍州刺史就任。劉道産の善政は雍州民だけでなく、蛮からも非常に評判が高く、雍州は安定期を迎えました。
なお劉道産は前年に益州刺史から入朝しており、後任には平北諮議参軍の甄法護が就任していました。
文帝の四男劉鑠が誕生したのもこの年。

国外では西秦が滅亡。華北のほとんどの地域は北魏の支配するところなり、北西の北涼と北東の北燕の僻地勢力だけが五胡十六国の生き残りとなりました。
元嘉略史431

タグ: 北魏 夏国

元嘉諸王略史3

元嘉四年(427年)
②-①長沙王26歳?、②-②臨川王25歳、①-③文帝21歳、①-④彭城王19歳、①-⑤江夏王15歳、①-⑥竟陵王13歳、①-⑦衡陽王13歳。

この年の3月に尚書右僕射の鄭鮮之、5月に侍中・中護軍の王華が死去。
新体制では王弘王曇首兄弟と王華の3人の「琅邪王氏」が国政の中核でしたが・・・。
その後、殷景仁の従叔の殷穆が護軍将軍に就任。
また、荊州刺史・彭城王劉義康の長史の謝曜が亡くなり、同族の謝述が長史・領南郡太守となりました。謝述謝裕(謝景仁)の弟。

華北では北魏の首都・統万城を攻略。


元嘉五年(428年)
雍州刺史の劉遵考が暴政や収斂を弾劾されて解任。湘州刺史の張邵が雍州刺史に、南蛮校尉の蕭摹之が湘州刺史になりました。
ちなみに武帝の皇太后の蕭文寿から見て、蕭思話は弟の子、蕭摹之は従弟に当たりますね。彼ら蘭陵蕭氏は武帝と同じく京口に移住した一族でしょう。
6月、王弘がまた願い出て司徒から衛将軍・開府儀同三司に降格。王曇首も封爵を断っており、勝ち組になりすぎないように気にかけていたようです。
なお、この年に亡くなった老臣の范泰王弘文帝の弟の彭城王劉義康と宰相の役割を分担するように勧めていました。
12月、左光禄大夫・領軍将軍の趙倫之が死去。
この年、秘書監の謝霊運が免官。謝霊運は格下の王曇首殷景仁に待遇が劣ることに不満であり、仕事もせずに遊び暮らしていました。

華北ではが長安を奪還。
元嘉略史428


元嘉六年(429年)
1月、驃騎将軍・荊州刺史の彭城王劉義康が司徒・録尚書事・南徐州刺史として入朝し、衛将軍・録尚書事・揚州刺史の王弘と宰相職を分担。
この人事は王弘の上表を受けたもので、彭城王劉義康の官は司徒・録尚書事・領平北将軍・都督揚南徐兗三州諸軍事・南徐州刺史でした。
また南徐州刺史の撫軍将軍・江夏王劉義恭が荊州刺史となり、侍中の劉湛が南蛮校尉・領撫軍長史として補佐することになりました。
劉湛はかつて豫州刺史だった彭城王劉義康の長史として有能だった人物でしたが、王弘らの差し金で地方に出されたと捉えていました。

3月、文帝の長男劉劭(6歳)が皇太子に立てられます。
東宮の設置により、王曇首が侍中・太子詹事、謝密(謝弘微)が右衛将軍・領太子中庶子に任命されました。
同月に左衛将軍の殷景仁が中領軍に就任しますが、まもなく母の死により離職し、喪に服しました。
ちなみに文帝が重用した彼ら「五臣」はいずれも名門出身。寒門では中書舍人の秋当周赳が特に信任されていましたが、名門達からは邪険にされていた記録があります。

4月、尚書左僕射の王裕之(王敬弘)が尚書令、丹陽尹の臨川王劉義慶が尚書左僕射、吏部尚書の江夷が尚書右僕射に就任しますが、王裕之は引退を願い出て離職。

この年、益州刺史の吉翰が司徒司馬に転任し、撫軍司馬の劉道済劉粋の弟)が益州刺史に就任。
この頃、巴蜀の二人の刺史(吉翰劉道産)は善政を行っており、関中の流民を梁州に多数受け入れていました。この関中の流民による郡の設置は425年から梁州や雍州で施行されていますね。
ところで、同じ先祖から枝分かれした「彭城郡の劉氏」は、彭城県の「綏輿里」「安上里」「叢亭里」と「呂県」の4つのグループがありました。宋の宗室が「綏輿里」、功臣の劉懐慎が「安上里」、劉道産が「呂県」ですね。劉粋劉道済は「沛郡の劉氏」なのでさらに別の系統。もっともいずれも京口に移住した者達で、当時の南徐州が実質的な故郷でした。

そして文帝の次男劉濬が誕生。母は特に寵愛された潘淑妃です。
一説では、母を亡くした劉濬潘淑妃が養ったとのこと。


国内は概ね良好。文帝としては信頼できる側近をもっと強化したいところかもしれませんが。
後は華北を席巻する北魏への対処と河南の回復ですね。
元嘉略史429

タグ: 夏国

西燕と北燕3

391年、并州南北に割拠して6年目の西燕北魏の間で外交革命が起きます。

『魏書』二、道武帝紀、登国六年
六月,慕容賀驎破賀訥於赤城。帝引兵救之,驎退走。
秋七月壬申,講武於牛川,行還紐垤川。慕容垂止元觚而求名馬,帝絕之。乃遣使於慕容永,永使其大鴻臚慕容鈞奉表勸進尊號。其月,衞辰遣子直力鞮出棝楊塞,侵及黑城。九月,帝襲五原,屠之。收其積穀,還紐垤川。於棝楊塞北,樹碑記功。
冬十月戊戌,北征蠕蠕,追之,及於大磧南牀山下,大破之,班賜從臣各有差。其東西二部主匹候跋及縕紇提,斬別帥屋擊于。事具蠕蠕傳。
十有一月戊辰,還幸紐垤川。戊寅,衞辰遣子直力鞮寇南部。己卯,車駕出討。壬午,大破直力鞮軍於鐵歧山南,獲其器械輜重,牛羊二十餘萬。戊子,自五原金津南渡河。辛卯,次其所居悅跋城,衞辰父子奔遁。壬辰,詔諸將追之,擒直力鞮。十有二月,獲衞辰尸,斬以徇,遂滅之。語在衞辰傳。衞辰少子屈丐,亡奔薛干部。車駕次于鹽池。自河已南,諸部悉平。簿其珍寶畜產,名馬三十餘萬匹,牛羊四百餘萬頭。班賜大臣各有差。收衞辰子弟宗黨無少長五千餘人,盡殺之。山胡酋大幡頹、業易于等率三千餘家降附,出居于馬邑。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十六年
(七月)
魏王珪遣其弟觚獻見於燕;燕主垂衰老,子弟用事,留觚以求良馬。魏王珪弗與,遂與燕絕;使長史張袞求好於西燕。觚逃歸,燕太子寶追獲之,垂待之如初。


391年6月、後燕と対立した賀蘭部を北魏が救援。
391年7月、北魏拓跋珪が後燕の要求を拒絶し、西燕慕容永に使者を派遣。魏書によると西燕の返礼は皇帝即位の勧進だとか。(当時の拓跋珪は魏王)
この頃の後燕皇帝の慕容垂は老衰のため(66歳)、皇太子の慕容宝などが国政を主に取り仕切っていましたが、その彼らの要求が決裂の引き金になったとか。

391年10月、北魏が北の柔然を征伐、大勝し、東部・西部共に屈服させる。
391年11月、西の鉄弗部が北魏の南部を侵略。北魏は逆襲し、最終的に鉄弗部君主の劉衛辰を死なせて勢力を併呑しました。
これらは北魏の大躍進の一つですね。後燕の干渉から自立したおかげで、それだけ動けたのでしょう。
西燕としても北魏という心強い味方を得たので、Win-Winの関係。
後燕には、たまったものではありませんが。

同年、翟魏の君主翟遼が亡くなり、息子の翟釗が即位。
翌392年、後燕翟魏を滅ぼし、翟釗西燕に亡命。
既に東晋の前線も停滞しており(主力の朱序が引退)、後燕に余力が出てきました。

この翟魏西燕は協力関係でしたが、結局救援しませんでした。

『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容永
登國元年,(中略)進據長子。永僭稱帝,號年中興。
垂攻丁零翟釗於滑臺,釗請救於永,永謀於眾。尚書郎勃海鮑遵曰:「(略)」中書侍郎太原張騰曰:「(略)」(中略)釗敗降永,永以釗為車騎大將軍、東郡王。歲餘,謀殺永,永誅之。

その時の議論で(冀州)勃海人の鮑遵と(并州)太原人の張騰が登場します。
鮑遵は(冀州)長楽の馮安の一族と同じように上党に移動・移住していたか、(前燕→)前秦に仕えていたところどこかで西燕に合流したのか。
張騰は現地採用?

『魏書』巻三十三、張済伝
張濟,字士度,西河人也。父千秋,慕容永驍騎將軍。永滅,來奔。太祖善之,拜建節將軍,賜爵成紀侯。


(并州)西河の張千秋も現地採用っぽいですね。


『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容永
遣其龍驤將軍張崇攻弟武鄉公友於晉陽,遣其尚書令刁雲率眾五萬屯潞川。停鄴,月餘不進,乘詭道伐之,乃攝諸軍還於太行軹關。進師,入自木井關,攻從子征東將軍小逸豆歸、鎮東將軍王次多於臺壁。遣其從兄太尉大逸豆歸救次多等,將平規擊破之。率眾五萬與戰於臺壁南,為所敗,奔還長子,嬰城固守。大逸豆歸部將潛為內應,勒兵密進,奔北門,為前驅所獲,數而戮之,并斬公卿已下刁雲、大逸豆歸等三十餘人。所統新舊民戶,及服御、圖書、器樂、珍寶,盡獲之。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十八年
(十月)
燕主垂議伐西燕,諸將皆曰:「未有釁,我連年征討,士卒疲弊,未可也。」范陽王德曰:「既國之枝葉,又僭舉位號,惑民視聽,宜行先除之,以壹民心。士卒雖疲,庸得已乎!」曰:「司徒意正與吾同。吾比老,叩囊底智,足以取之,終不復留此賊以累子孫也。」遂戒嚴。
十一月,發中山步騎七萬,(中略)十二月,至鄴。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十九年
(二月)
燕主垂留清河公會鎮鄴,發司、冀、青、兗兵,遣太原王楷出滏口,遼西王農出壺關,自出沙庭,以擊西燕,標榜所趣,軍各就頓。西燕主永聞之,嚴兵分道拒守,聚糧台壁,遣從子征東將軍小逸豆歸、鎮東將軍王次多、右將軍勒馬駒帥眾萬餘人戍之。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十九年
(八月)
西燕主永困急,遣其子常山公弘等求救於雍州刺史郗恢,並獻玉璽一紐。恢上言:「(略)」帝以為然,詔青、兗二州刺史王恭、豫州刺史庾楷救之。(中略)又告急於魏,魏王珪遣陳留公虔、將軍庾岳帥騎五萬東渡河,屯秀容,以救之。(中略)晉、魏兵皆未至,大逸豆歸部將伐勤等開門內兵,人執,斬之,並斬其公卿大將刁雲、大逸豆歸等三十餘人,得所統八郡七萬餘戶及秦乘輿、服御、伎樂、珍寶甚眾。


393年11月、後燕慕容垂は歩騎7万を動員して西燕征伐を開始。連年の戦による疲弊から反対する意見もありましたが、慕容垂の弟の慕容徳の賛同もあって決行。
後燕は北部の晋陽の慕容友を攻撃しつつ、慕容垂自身は鄴の付近で一旦停止。西燕は上党への進軍ルートを読めず、出撃させていた刁雲慕容鐘の5万や慕容逸豆帰(小)・王次多勒馬駒の1万などで後燕を阻むことに失敗、諸軍を引き戻して自ら精鋭5万で迎撃することにします。
慕容垂は鄴に次男の慕容会を残して出撃し、上党に入ると慕容楷慕容農(・平規慕容国)ら諸将と共に西燕を大破し、首都の長子を包囲。
西燕東晋北魏に救援を要請し、両国とも軍を派遣したのですが、到着する前に内応により長子が陥落してしまいました。

かくして、394年8月に西燕は滅亡。

慕容永刁雲慕容逸豆帰(大)ら重臣は処刑され、支配していた8郡7万戸と長安から持ってきた前秦の(最高峰の)遺産は後燕のものとなりました。

慕容永が上党で即位して9年目。これは馮安が仕官していた期間の最大値でもありますね。

タグ:西燕 北燕 東晋 後燕 北魏 夏国

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム