崔浩と太原王氏5

「後魏四姓」という概念があります。

『資治通鑑』巻一百四十、斉紀六、建武三年
(正月)魏主雅重門族,以范陽盧敏、清河崔宗伯、滎陽鄭羲、太原王瓊四姓,衣冠所推,咸維其女以充後宮。

ここに登場する范陽の盧敏・清河の崔宗伯・滎陽の鄭羲・太原の王瓊のことですね。

『資治通鑑』巻一百四十、斉紀六、建武三年
(正月)魏主下詔,以為:「北人謂土為拓,后為跋。魏之先出於黃帝,以土德王,故為拓跋氏。夫土者,黃中之色,萬物之元也;宜改姓元氏。諸功臣舊族自代來者,姓或重複,皆改之。」於是始改拔拔氏為長孫氏,達奚氏為奚氏,乙旃氏為叔孫氏,丘穆陵氏為穆氏,步六孤氏陸氏,賀賴氏為賀氏,獨孤氏為劉氏,賀樓為氏樓氏,勿忸于氏為于氏,尉遲氏為尉氏;其餘所改,不可勝紀。
魏主雅重門族,以范陽盧敏、清河崔宗伯、滎陽鄭羲、太原王瓊四姓,衣冠所推,咸維其女以充後宮。隴西李沖以才識見任,當朝貴重,所結姻亀,莫非清望;帝亦以其女為夫人。詔黃門郎、司徒左長史宋弁定諸州士族多所升降。又詔以:「代人先無姓族,唯功賢之胤,無異塞賤;故宦達者位極公卿,其功、衰之親仍居猥任。其穆、陸、賀、劉、樓、于、嵇、尉八姓,自太祖已降,勳著當世,位盡王公,灼然可知者,且下司州、吏部,勿充猥官,一同四姓。自外此以外,應班士流者,尋續別敕。其舊為部落大人,而皇始已來三世官在給事已上及品登土公者為姓;若本非大人,而皇始已來三世官在尚書已上及品登王公者亦為姓。其大人之後而官不顯者為族;若本非大人而官顯者亦為族。凡此姓族,皆應審覈,勿容偽冒。令司空穆亮、尚書陸琇等詳定,務令平允。」
(中略)
時趙郡諸李,人物尤多,各盛家風,故世之言高華者,以五姓為首。


文脈としては、496年に北魏孝文帝による漢人風への改姓と家格などの整備で言及されたものであり、上記の四姓に「趙郡の李氏」を加えた「五姓」を漢人名族の筆頭格として扱っていたそうです。

ここに登場する「太原の王瓊」は王慧龍の孫です。そして王宝興の息子。
ちなみに盧敏盧度世の息子。崔浩に巻き込まれた世代のさらに下ですね。
崔宗伯は「崔琰」系統の清河崔氏。崔浩は「崔林」系統。)

漢人として高い地位に居たのは西涼の末裔の「隴西李氏」や北燕の末裔の「長楽馮氏」などでしたが、王瓊盧敏は顕著な功績もなければ、そこまで出世もしておらず、純粋に「名族」として価値を見出されていたというのが特徴でしょう。

また、王慧龍の唯一の娘は「隴西李氏」に嫁いでおり、王慧龍王宝興の二世代は子供が少なく一族の隆盛には繋がらなかったものの、漢人の中では既に名族相当の地位(婚姻などの指標となる家格)を確立しており、王瓊の時には北魏の漢人屈指とまで至ったのでしょう。

崔浩の系統は滅亡・衰退してしまいましたが、崔浩兄弟との姻戚で優遇された王慧龍の末裔は長く名門としての地位を保つことになり、の前期でも「七姓十家」として槍玉に挙げられるほどの「山東の名家」の一つとして栄えていました。

太原郭氏と「太原祁県」王氏の間の娘を妻とした崔浩(と弟の崔恬)は、「太原晋陽県」王氏の王慧龍に娘を娶らせたりして後の繁栄の足がかりを作ったという数奇な縁がありました。

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崔浩と太原王氏4

『魏書』巻三十八、王慧龍伝
初,崔浩弟恬聞慧龍王氏子,以女妻之。浩既婚姻,及見慧龍,曰:「信王家兒也。」王氏世齇鼻,江東謂之齇王。慧龍鼻大,浩曰:「真貴種矣。」數向諸公稱其美。(中略)
世祖賜以劍馬錢帛,授龍驤將軍,賜爵長社侯,拜滎陽太守,仍領長史。在任十年,農戰並修,大著聲績。招攜邊遠,歸附者萬餘家,號為善政。(中略)
慧龍自以遭難流離,常懷憂悴,乃作祭伍子胥文以寄意焉。生一男一女,遂絕房室。(中略)真君元年,拜使持節、寧南將軍、虎牢鎮都副將。未至鎮而卒。(中略)子寶興襲爵。

崔浩の姪を娶った王慧龍北魏の南の前線を長らく統治し、440年に死去。(その間、司馬楚之が上司となったり、東側の一帯を刁雍が統治していたり)

王慧龍は息子と娘を一人ずつもうけた後に子供を作ることはなく、おそらく妾も特に置かなかったのでしょう。
その息子が王宝興です。

『魏書』巻三十八、王慧龍伝、王宝興
寶興少孤,事母至孝。尚書盧遐妻,崔浩女也。初,寶興母及遐妻俱孕,浩謂曰:「汝等將來所生,皆我之自出,可指腹為親。」及婚,浩為撰儀,躬自監視。謂諸客曰:「此家禮事,宜盡其美。」及浩被誅,盧遐後妻,寶興從母也,緣坐沒官。寶興亦逃避,未幾得出。盧遐妻,時官賜度河鎮高車滑骨。寶興盡賣貨產,自出塞贖之以歸。州辟治中從事、別駕,舉秀才,皆不就。閉門不交人事。襲爵長社侯、龍驤將軍。卒,子瓊襲爵。

さて、王宝興の妻は盧遐の娘の盧氏でした。盧氏の母は崔浩の娘であり、両家の婚姻は崔浩の意向によるもの。王宝興盧氏のそれぞれの母が同時期に妊娠とあるので、二人は同い年でしょうね。

盧遐の後妻は「王宝興の従母(母の姉妹)」。つまり盧遐の先妻は「崔浩の娘」、後妻は「崔浩の姪」。崔氏と盧氏の婚姻が盛んですね。

『魏書』巻三十五、崔浩伝
浩母盧氏,諶孫也。


『魏書』巻四十七、盧玄伝
盧玄,字子真,范陽涿人也。曾袓諶,晉司空劉琨從事中郎。袓偃,父邈,並仕慕容氏為郡太守,皆以儒雅稱。(中略)司徒崔浩,玄之外兄,每與玄言,輒歎曰:「對子真,使我懷古之情更深。」(中略)
子度世,字子遷。幼而聰達,有計數。為中書學生,應選東宮。弱冠,與從兄遐俱以學行為時流所重。
度世後以崔浩事,棄官逃於高陽鄭羆家,羆匿之。使者囚羆長子,將加捶楚。羆戒之曰:「君子殺身以成人,汝雖死勿言。」子奉父命,遂被考掠,至乃火爇其體,因以物故,卒無所言。度世後令弟娶羆妹,以報其恩。世袓臨江,劉義隆使其殿中將軍黃延年朝貢。世袓問延年曰:「范陽盧度世坐與崔浩親通,逃命江表,應已至彼?」延對曰:「都下無聞,當必不至。」世袓詔東宮赦度世宗族逃亡及籍沒者。度世乃出。赴京,拜中書侍郎,襲爵。

崔浩の母は盧氏。その盧氏の甥が盧玄崔浩の外弟)。その盧玄の子の盧度世の従兄が盧遐
(従兄が通常の従兄弟なら)盧遐盧玄の甥。
よって、范陽の盧偃の孫が盧玄、外孫が崔浩、曾孫が盧遐となります。
崔浩は母方の従兄弟の息子(盧遐)に自身の娘や姪を嫁がせ、また姪の息子(王宝興)に外孫(盧氏)を嫁がせたということでしょう。

つまり「清河崔氏」や「范陽盧氏」によって北魏の漢人名門コミュニティーが形成されており、そこに崔浩兄弟によって王慧龍の一家「太原王氏」が組み込まれたということになりますね。

彼らは崔浩の誅殺に巻き込まれましたが、王宝興盧度世などは赦免されるまで上手く生き延び、引き続き北魏に仕えました。
また、王宝興は「盧遐の後妻」となった「崔浩の姪」を保護していますね。

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崔浩と太原王氏3

416年に始まった東晋劉裕らによる北伐は王懿(王仲徳)・檀道済王鎮悪ら名将が参加した大規模なものであり、連戦連勝、次いで悪戦苦闘の末、中原の大国後秦を滅ぼしました。

『資治通鑑』巻一百一十八、晋紀四十、義熙十三年
(九月)癸酉,司馬休之、司馬文思、司馬國璠、司馬道賜、魯軌、韓延之、刁雍、王慧龍及桓溫之孫道度、道子、族人桓謐、桓璲、陳郡袁式等皆詣魏長孫嵩降。

417年9月、後秦が滅亡した直後に、劉裕と対立して東晋から後秦に亡命していた多くの漢人達が北魏に再亡命します。
これには大物の司馬休之魯軌の他、刁雍王慧龍など劉裕の立てたと長らく戦うことになった次世代の大物も混じっていました。

刁雍王慧龍東晋で一族が栄えたものの、劉裕と対立して壊滅したという背景のある人物。
時に28歳と27歳。
刁雍北魏明元帝によって即戦力とされ、まもなく420年に建国されたの青州方面で戦うようになり、423年の攻勢にも参加。檀道済・王仲徳(王懿)らの増援との決戦は避けましたが。

『魏書』巻三十八、王慧龍伝
泰常二年,姚泓滅,慧龍歸國。太宗引見與言,慧龍請效力南討,言終,俯而流涕,天子為之動容。謂曰:「朕方混一車書,席卷吳會,卿情計如此,豈不能相資以眾乎?」然亦未之用。後拜洛城鎮將,配兵三千人鎮金墉。既拜十餘日,太宗崩。世祖初即位,咸謂南人不宜委以師旅之任,遂停前授。

王慧龍も423年に洛城鎮将として前線の金墉に送られましたが、10数日後の明元帝の崩御により中断。

『太平御覧』巻一百一十九、宋紀一、景平元年
(正月)魏于栗磾攻金墉,癸卯,河南太守王涓之棄城走。魏主以栗磾為豫州刺史,鎮洛陽。

この金墉は423年の攻勢で北魏が制圧したものですね。

423年は9月に司馬楚之などを残して奚斤らが侵攻軍が帰還し始め、11月に明元帝の崩御と太武帝の即位。王慧龍の派遣は10月頃の人事でしょう。この時は漢人を南に置く方針だったようです。

その後、王慧龍は426年の「謝晦の乱」までに豫州方面に配属となります。この人事には崔浩の後押しがありました。

『北史』巻三十五、王慧龍伝
會明元崩,太武初即位,咸謂南人不宜委以師旅之任,遂停前授。
初,崔浩弟恬聞慧龍王氏子,以女妻之。浩既婚姻,及見慧龍,曰:「信王家兒也。」王氏世齇鼻,江東謂之「齇王」。慧龍鼻漸大,浩曰:「真貴種矣!」數向諸公稱其美。司徒長孫嵩聞之不悅,言於太武,以其嗟服南人則有訕鄙國化之意。太武怒,召浩責之。浩免冠陳謝得釋。慧龍由是不調。久之,除樂安王範傅,領并、荊、揚三州大中正。慧龍抗表,願得南垂自效,崔浩固言之,乃授南蠻校尉、安南大將軍左長史。
及宋荊州刺史謝晦起兵江陵,引慧龍為援。慧龍督司馬靈壽等一萬人,拔其思陵戍,進圍項城。晦敗,乃班師。

太武帝の最初の頃は、「南人」に軍を任せるべきではないという意見があり、王慧龍への人事は停止されました。

王慧龍北魏に亡命してまもなく、崔浩の弟の崔恬の娘を娶ったようです。婚姻の理由は王慧龍があの「太原王氏」だと崔恬が知ったため。崔恬の妻は崔浩の妻の姉妹であり、どちらも太原の郭逸の娘でした。(ちなみに崔浩王慧龍の10歳年長なので、崔恬王慧龍の年齢差はさらに少ないですね)
王慧龍には「太原王氏」の特徴である「大きな鼻」があり、その風貌(そして人物)を見て崔浩はまさに名門「太原王氏」の血筋であるとして常々称賛していたそうです。
しかし、鮮卑名族の長孫嵩は漢人名族を誉めそやす崔浩を敵視し、太武帝もまた崔浩を責め立てるということがあり、しばらく王慧龍の起用は遠ざけられたようです。

『魏書』巻三十五、崔浩伝
世祖即位,左右忌浩正直,共排毀之。世祖雖知其能,不免羣議,故出浩,以公歸第。及有疑議,召而問焉。

崔浩太武帝の当初に周囲の圧力により中央から排除され、無官だった時期があり、南人・漢人に対して北人・鮮卑による排除・抑圧が強まっていた時期があったようです。
司馬楚之も中央に戻された時期がありましたね)

しばらくして崔浩は復帰し、戦略面で425年時点では長孫嵩らの意見が優勢だったものの、426年には太武帝の支持を得るようになり、徐々に太武帝に信任を勝ち取り、地位を高めていきます。
王慧龍の再起用もこの崔浩の復帰・台頭と連動したものでしょうね。

タグ:太原王氏 北魏

崔浩と太原王氏2

前秦が崩壊する中(384年頃)、南の東晋へ逃れた王懿(王仲徳)は別系統の太原王氏である王愉に会います。
王懿の本籍が「太原の祁県」、王愉の本籍が「太原の晋陽県」)
王愉の一族は東晋屈指の名門であり、当時も栄えていました。その王愉に冷たくされたため、王懿は(朝廷に攻め寄せた)桓玄に投じたとか。

『晋書』巻十、安帝紀、隆安元年
夏四月甲戌,兗州刺史王恭、豫州刺史庾楷舉兵,以討尚書左僕射王國寶、建威將軍王緒為名。甲申,殺國寶及緒以悅于恭,恭乃罷兵。

王愉一族の繁栄の例として、397年時点で異母弟の王国宝が準宰相級の尚書左僕射となり、又従兄弟の王緒と共に宰相の会稽王の腹心とされ、遠縁の王恭が兗州刺史として北府の都督を務めていました。
まあ、この年に王恭の挙兵によって王国宝王緒は誅殺されてしまうのですが。

翌398年に王恭は再び挙兵し、今度は西の殷仲堪桓玄も呼応します。朝廷側により王恭は討たれ停戦となったのですが、桓玄の力は強まり、400年頃までには殷仲堪ら他の西の有力者も殺して江州から西を手中に収める大勢力となりました。
この400年頃は「王懿の姉」の娘が崔浩に嫁ぎ、また崔浩北魏に出仕し始めた時期ですね。

『晋書』巻七十五、王湛伝、王愷王愉
愷字茂仁,愉字茂和,並少踐清階。愷襲父爵,愉稍遷驃騎司馬,加輔國將軍。愷太元末為侍中,領右衞將軍,多所獻替。兄弟貴盛,當時莫比。
及王恭等討國寶,愷、愉並請解職。以與國寶異生,又素不協,故得免禍。國寶既死,出愷為吳郡內史,愉為江州刺史、都督豫州四郡、輔國將軍、假節。未幾,徵愷為丹楊尹。及桓玄等至江寧,愷領兵守石頭。俄而玄等走,復為吳郡。病卒,追贈太常。
愉至鎮,未幾,殷仲堪、桓玄、楊佺期舉兵應王恭,乘流奄至。愉既無備,惶遽奔臨川,為玄所得。玄盟于尋陽,以愉置壇所,愉甚恥之。及事解,除會稽內史。玄篡位,以為尚書僕射。劉裕義旗建,加前將軍。愉既桓氏壻,父子寵貴,又嘗輕侮劉裕,心不自安,潛結司州刺史溫詳,謀作亂,事泄,被誅,子孫十餘人皆伏法。

一方、390年代に甚だ栄えていた王愉の一族は、この頃になると王国宝の誅殺の件で免官となり、復職後も桓玄らの対抗勢力として用いられたりして優雅に暮らしている場合ではなくなってきます。
王愉も江州刺史として要地に置かれますね。
王愉はまもなく挙兵した桓玄に捕まってしまいますが、その後(402年に桓玄が朝廷を破り、国を掌握すると)また要職を歴任するようになります。
実は王愉の妻は桓玄の姉妹であり、両家の血を引く息子(王綏)もおり、共に桓玄によって重用されていました。
王懿は「王愉が先に合流していた桓玄」の元に入ったということになりそうです)

403年、遂に桓玄は皇帝に即位し、東晋は滅亡。
ところが翌404年に劉裕らが挙兵して桓玄を滅ぼし、東晋を再興させます。
王懿の兄は挙兵に深く関わり(発覚して桓玄により処刑)、以降、王懿劉裕の配下となり、また劉裕が建国したにも仕えて重臣となりました。
対して王愉王綏父子は劉裕に降伏したものの、謀反の企てた罪により族滅。

『晋書』巻七十五、王湛伝、王綏
綏字彥猷。少有美稱,厚自矜邁,實鄙而無行。愉為殷、桓所捕,綏未測存亡,在都有憂色,居處飲食,每事貶降,時人每謂為「試守孝子」。
桓玄之為太尉,綏以桓氏甥甚見寵待,為太尉右長史。及玄篡,遷中書令。劉裕建義,以為冠軍將軍。其家夜中梁上無故有人頭墮於牀,而流血滂沲。俄拜荊州刺史、假節。坐父愉之謀,與弟納並被誅。

王綏の弟の王納もこの時に誅殺。

生き残ったのは王愉の孫の王慧龍。時に14歳。王緝の息子とのこと。(王綏王納王緝、糸偏兄弟。同母兄弟?)

『北史』巻三十五、王慧龍伝
王慧龍,太原晉陽人,晉尚書僕射愉之孫,散騎侍郎緝之子也。幼聰慧,愉以為諸孫之龍,故名焉。初,宋武微時,愉不為之禮,及得志,愉合家見誅。慧龍年十四,為沙門僧彬所匿,因將過江。津人見其行意怱怱,疑為王氏子孫。彬稱為受業者,乃免。既濟,遂西上江陵,依叔祖忱故吏荊州前中從事習辟彊。時刺史魏詠之卒,辟彊與江陵令羅脩、前別駕劉期公、土人王騰等謀舉兵,推慧龍為盟主,剋日襲州城。而宋武聞詠之卒,亦懼江陵有變,遣其弟道規為荊州,眾遂不果。羅脩等將慧龍又與僧彬北詣襄陽。晉雍州刺史魯宗之資給慧龍,送度江,遂奔姚興。

王慧龍は西の荊州に逃れ、祖父王愉の弟(荊州刺史の王忱)の故吏を頼りましたが、405年の荊州刺史魏詠之劉裕の盟友)の死に乗じた反乱計画が不発に終わると、襄陽を経由して後秦へ亡命、さらに最終的に北魏まで逃れました。

この王慧龍北魏で出世していた崔浩に遭遇します。

タグ:太原王氏 北魏 東晋

崔浩と太原王氏1

『魏書』巻六十四、郭祚伝
郭祚,字季祐,太原晉陽人,魏車騎郭淮弟亮後也。祖逸,州別駕,前後以二女妻司徒崔浩,一女妻浩弟上黨太守恬。


『魏書』巻三十五、崔浩伝
崔浩,字伯淵,清河人也,白馬公玄伯之長子。(中略)浩始弱冠,太原郭逸以女妻之。浩晚成,不曜華采,故時人未知。逸妻王氏,劉義隆鎮北將軍王仲德姊也,每奇浩才能,自以為得壻。俄而女亡,王深以傷恨,復以少女繼婚。逸及親屬以為不可,王固執與之,逸不能違,遂重結好。


太原王氏を妻とした郭逸は、その妻の意向により二人の娘を崔浩に娶らせ(一人目が亡くなると、末の娘を娶らせ)、また別の娘を崔浩の弟に娶らせました。
崔浩は後に北魏において漢人として破格の出世を遂げ、郭逸の家族もまたその栄華の恩恵を受けることができました。
まだ評判を確立していなかった頃の崔浩を見抜いた王氏のおかげですね。

この王氏東晋と宋に仕えた王仲徳(王懿)の姉でした。

『南史』巻二十五、王懿伝
王懿字仲德,太原祁人,自言漢司徒允弟幽州刺史懋七世孫也。祖宏仕石季龍,父苗仕苻堅,皆至二千石。
仲德少沈審有意略,事母甚謹,學通陰陽,精解聲律。苻氏之敗,仲德年十七。及兄叡同起義兵,與慕容垂戰敗,(中略)晉太元末,徙居彭城。(中略)
北土重同姓,並謂之骨肉,有遠來相投者,莫不竭力營贍。若有一人不至者,以為不義,不為鄉邑所容。仲德聞王愉在江南貴盛,是太原人,乃遠來歸愉。愉接遇甚薄,因至姑孰投桓玄。

この一族は(太原を支配した)後趙前秦に仕えていましたが、王懿と兄の王叡前秦が崩壊すると挙兵した慕容垂後燕)と戦うも敗れ、南の東晋へと逃れました。時に王懿は17歳であり、その姉の王氏は(年齢を考慮すると)既に郭逸に嫁いでいたのでしょう。384年頃のこと。(郭逸王氏の間の娘もこの頃か少し後に誕生)

郭逸は州別駕だったので(やはり并州の別駕でしょう)、北魏に合流した後も并州に居たと思われます。
并州の支配者は、386年まで前秦、386年~394年まで西燕、394年~396年まで後燕、396年以降は北魏でした。
郭逸の家族がそれぞれに従ったか、その支配下で暮らしていた可能性は十分にあるでしょう。

『北史』巻二十一、崔宏伝
崔宏字玄伯,清河東武城人,魏司空林之六世孫也。祖悅,仕石季龍,位司徒右長史。父潛,仕慕容暐,為黃門侍郎。並以才學稱。
宏少有儁才,號曰冀州神童。(中略)苻堅聞之,徵為太子舍人。辭以母疾,不就。左遷著作佐郎。太原郝軒名知人,稱宏有王佐之材,近代所未有也。堅亡,避難齊魯間,為丁零翟釗及晉叛將張願所留。(中略)
仕慕容垂,為吏部郎、尚書左丞、高陽內史,所歷著稱。

一方、崔浩の先祖は(出身地の清河を支配した)後趙前燕に仕え、父の崔宏前秦に仕えた後、崩壊時に東へ脱出し、後燕に仕えることになりました。そして後燕に侵攻した北魏に捕まり、その臣下となっていました。

太原の郭逸王氏崔宏崔浩らと昔から接点があったかどうか微妙なところですが、崔宏を絶賛した人物として太原の郝軒がおり、太原人にも名を知られていた可能性はあるでしょう。


その後、崔浩は太原郭氏との接点はありましたが、郭逸の妻(そして王懿の姉)の一族である「太原祁県の王氏」との関わりは明らかなものはありません。
(南朝攻撃にも消極的で、敵国の王懿と覇を競うようなこともなし)

ところが、崔浩は「太原晋陽県の王氏」とは深い縁を持つことになります。
王懿東晋で出会った王愉の一族ですね。

タグ:太原王氏 北魏

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