南燕の公孫氏の戦い2

409年2月の公孫帰らの東晋攻撃・略奪は、大きな反撃を招きます。
それが5月に始まった、劉裕の北伐です。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
(五月)南燕主超聞有晉師,引群臣會議。
征虜將軍公孫五樓曰:「吳兵輕果,利在速戰,不可爭;宜據大峴,使不得入,曠日延時,沮其銳氣,然後徐簡精騎二千,循海而南,絕其糧道,別敕段暉帥兗州之眾,緣山東下,腹背擊之,此上策也。各命守宰依險自固,校其資儲之外,餘悉焚蕩,芟除禾苗,使敵無所資,彼僑軍無食,求戰不得,旬月之間,可以坐制,此中策也。縱賊入峴,出城逆戰,此下策也。」

そこで南燕の朝議で征虜将軍の公孫五楼が、東晋との短期決戦を避けるべきであり、「大峴で守って相手を足止めしながら、(東の)海沿いに騎兵を進ませ、(西の)段暉率いる兗州軍に山間を抜けさせ、背後を狙うのが上策」、「堅壁清野で瓦解を狙うのが中策」、「大峴を通らせた敵を野戦で迎撃するのが下策」と進言。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
超曰:「今歲星居齊,以天道推之,不戰自克。客主勢殊,以人事言之,彼遠來疲弊,勢不能久。吾據五州之地,擁富庶之民,鐵騎萬群,麥禾布野,柰何芟苗徙民,先自蹙弱乎!不如縱使入見,以精騎蹂之,何憂不克。」
輔國將軍廣寧王賀賴盧苦諫不從,退謂五樓曰:「必若此,亡無日矣!」

ところが君主の慕容超は相手を引き入れて精鋭騎兵で決着をつけたがっており、焦土作戦も却下。輔国将軍・広寧王賀頼盧が必死に諌めますが聞き入れません。
賀頼盧は退出すると、このままではすぐに滅亡すると公孫五楼にこぼしています。
また、太尉の桂林王慕容鎮は同様の戦略が聞き入れられずに退出した際に、これでは今年に滅亡すると韓𧨳に述べていました。ただ、これが慕容超に知られて投獄されます。

どうやら公孫五楼賀頼盧をチクらなかったようですね。
むしろ大峴山を起点に守る献策などで非常に理知的な発言を出しており、今まで史書が小物・奸臣扱いしていたのとギャップを感じます。

『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年
六月,己巳,裕至東莞。
超先遣公孫五樓、賀賴盧及左將軍段暉等將步騎五萬屯臨朐;聞晉兵入峴,自將步騎四萬往就之,使五樓帥騎進據巨蔑水。前鋒孟龍符與戰,破之,五樓退走。裕以車四千乘為左右翼,方軌徐進,與燕兵戰於臨朐南,日向昃,勝負猶未決。
參軍胡藩言於裕曰:「燕悉兵出戰,臨朐城中留守必寡,願以奇兵從間道取其城,此韓信所以破趙也。」裕遣藩及諮議參軍檀韶、建威將軍河內向彌潛師出燕兵之後,攻臨朐,聲言輕丘自海道至矣。向彌擐甲先登,遂克之。超大驚,單騎就段暉於城南。裕因縱兵奮擊,燕眾大敗,斬段暉等大將十餘人,超遁還廣固,獲其玉璽、輦及豹尾。
裕乘勝逐北至固;丙子,克其大城。超收眾入保小城。裕築長圍守飲,湋高三丈,穿塹三重;撫維降附,采拔賢俊,華、夷大悅。於是因齊地糧儲,悉停江、淮漕運。

6月に東晋劉裕軍は無事に東莞を通り、大峴の先に到達。
対する南燕公孫五楼賀頼盧段暉ら歩騎5万を(都・広固の東南の)臨朐に置いていましたが、峴を劉裕軍が抜けると慕容超が歩騎4万を率いて合流し、公孫五楼に前進させて巨蔑水を守らせます。
両軍が衝突すると、まず公孫五楼が撃破され後退。
続いて臨朐の南で両軍拮抗しますが、劉裕が別働隊に臨朐城を直接襲撃・攻略させたことから、慕容超は慌てて逃げ出し、劉裕軍に南燕諸軍は大敗。段暉ら大将10人ほどが討ち取られ、慕容超は広固まで逃げ込み、さらに劉裕により包囲されました。
17日には大城が陥落し、南燕は広固の小城で必死の抵抗を続けることになります。

慕容超慕容鎮を釈放して重用し、また後秦に援軍を要請しますが、既に全て遅く、孤立無援で打つ手がないまま半年以上も包囲され続け、挙げ句に滅亡しました。

タグ:南燕 東晋

王敬則の首級

明帝は半ば成り行きで皇帝になった矢先に地方が一斉に反乱を起こしたことから、禁軍・宿衛の将兵を大いに用いて事態に対処しました。
蕭道成沈攸之劉勔などの明帝時代に台頭した軍人は大体これです。

臨淮/晋陵の王敬則もその一人。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
泰始初,以敬則為龍驤將軍、軍主,隨寧朔將軍劉懷珍征壽春,殷琰遣將劉從築四壘於死虎,懷珍遣敬則以千人繞後,直出橫塘,賊眾驚退。(中略)

地方の一斉反乱の際には、北の豫州(殷琰)攻めに参加。(ちなみに蕭道成は東、沈攸之は西、劉勔は北の戦線に投入されていました)
この豫州の戦いは長引きましたが、最終的に夏侯詳が上司の殷琰を説得して降伏させて決着。

474年、後廃帝に対して桂陽王劉休範が挙兵すると、首都を守る劉勔が戦死する危機がありましたが、蕭道成により全て平定。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
元徽二年,隨太祖拒桂陽賊於新亭,敬則與羽林監陳顯達、寧朔將軍高道慶乘舸䒁於江中迎戰,大破賊水軍,焚其舟艦。

王敬則もこの戦いの本戦で活躍。

その3年後の後廃帝殺害・廃立の際に王敬則蕭道成のために尽力し、以降は蕭道成一派の重鎮として沈攸之らの反乱への対処にも功がありました。
そして南斉では元勲の一員となります。

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
(永明)七年,出為使持節、散騎常侍、都督豫州郢州之西陽司州之汝南二郡軍事、征西大將軍、豫州刺史,開府如故。進號驃騎。十一年,遷司空,常侍如故。世祖崩,遺詔改加侍中。高宗輔政,密有廢立意,隆昌元年,出敬則為使持節、都督會稽東陽臨海永嘉新安五郡軍事、會稽太守,本官如故。海陵王立,進位太尉。(中略)
明帝即位,進大司馬,增邑千戶。

王敬則は内外の要職を歴任し、(蕭鸞の後任として)489年から493年まで豫州の刺史・都督を務め、次に司空、会稽太守・都督に転任。本官は開府諸将軍→司空→太尉→大司馬。
ここまで栄達しましたが、そのため明帝(蕭鸞)から警戒されており、明帝が死にそうになると対策が図られました。そこで王敬則は江東で挙兵し建康を目指しますが、敗死。
498年夏のことでした。(その秋に明帝が崩御し東昏侯が即位)


『南史』巻四十五、王敬則伝
敬則以舊將舉事,百姓擔篙荷鍤隨逐之十餘萬眾。至武進陵口慟哭,乘肩輿而前。遇興盛、山陽二柴,盡力攻之。官軍不敵,欲退而圍不開,各死戰。胡松領馬軍突其後,白丁無器仗,皆驚散。敬則大叫索馬,再上不得上,興盛軍容袁文曠斬之傳首。

その時、王敬則軍は多くの民衆が従って約10万という大軍でしたが、騎兵が突撃してくると武装していなかった者達が逃げ散ってしまい、王敬則はその混乱の中で馬に乗れずにいるうちに左興盛の配下の袁文曠に斬られました。

この首級は都に送られ、論功行賞が行われますが、そこで首級を挙げたのは誰の功績かで紛糾します。

『南史』巻四十五、崔慧景伝、崔恭祖
恭祖者,慧景宗人,驍果便馬矟,氣力絕人,頻經軍陣。討王敬則,與左興盛軍容袁文曠敬則首,訴明帝曰:「恭祖禿馬絳衫,手刺倒敬則,故文曠得斬其首。以死易勳而見枉奪。若失此勳,要當刺殺左興盛。」帝以其勇健,謂興盛曰:「何容令恭祖與文曠爭功。」

討伐の将の一人の崔恭祖は「自分が王敬則を刺し倒したので袁文曠が首を落として手に入れることができた」と主張。その結果、明帝は勇猛で知られる彼の功績を認めました。

『南史』巻四十五、王敬則伝
敬則之來,聲勢甚盛,凡十日而敗。時年六十四。朝廷漆其首藏在武庫,(後略)

そして、大逆者となった王敬則の首級は「首級に漆を塗って武庫に収蔵」されました。過去には王莽などに見られる措置ですね。


ちなみに享年は64歳とありますが、

『南斉書』巻二十六、王敬則伝
敬則之來,聲勢甚盛,裁少日而敗,時年七十餘。

南斉書では「七十餘」とあり、情報が違うのか「七十餘」≒「約70歳」は64歳も含む表現だったのでしょう。数の「十餘」という表現は要注意ですね。


タグ:南斉

夏侯詳と殷琰

『梁書』巻十、夏侯詳伝
六年,徵為侍中、右光祿大夫,給親信二十人,未至,授尚書左僕射、金紫光祿大夫,侍中如故。道病卒,時年七十四,上為素服舉哀,贈右光祿。

夏侯詳は天監六年(507年)に74歳で死去。
よって生年は434年。宋の元嘉十一年ですね。

『梁書』巻十、夏侯詳伝
夏侯詳字叔業,譙郡譙人也。年十六,遭父艱,居喪哀毀。三年廬于墓,嘗有雀三足,飛來集其廬戶,眾咸異焉。服闋,刺史殷琰召補主簿。

夏侯詳は16歳で父を亡くし、3年の服喪の後に刺史の殷琰の主簿となりました。
夏侯詳の父が死んだのは449年。足掛け3年の服喪が終わるのは451年内。

『宋書』巻八、明帝紀、泰始元年
(十二月)乙亥,追尊所生沈婕妤曰宣皇太后。後軍將軍垣閎為司州刺史,前右將軍長史殷琰為豫州刺史

ところが殷琰が豫州刺史になったのは465年12月のこと。
殷琰伝を見る限り、それ以前に刺史にはなっていません。

465年は夏侯詳が32歳の時。
寒門であり、この年が初任でも特におかしくはありませんが、夏侯詳伝の記述の印象と異なり、殷琰の主簿となったのは服喪が終わってから随分と後の事となります。


なお、同じく豫州人だった殷琰は豫州の治中従事史や別駕などに就任しており、465年以前から夏侯詳と知り合いだった可能性はあるでしょう。

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豫州・寿春の夏侯詳

『梁書』巻十、夏侯詳伝
刺史殷琰召補主簿。
宋泰始初,琰舉豫州叛,宋明帝遣輔國將軍劉勔討之,(中略)
勔為刺史,又補主簿。頃之,為新汲令,治有異績,刺史段佛榮班下境內,為屬城表。轉治中從事史,仍遷別駕。歷事八將,州部稱之
齊明帝為刺史,雅相器遇。及輔政,招令出都,將大用之。

夏侯詳の豫州刺史殷琰の主簿となり、後にまた豫州刺史劉勔の主簿となり、その次に新汲県の県令、そして豫州刺史段佛栄の治中従事史となり、さらに別駕に転じたとあります。
新汲県は寿春一帯に置かれた南梁郡/梁郡の一部であり、豫州の治所は主に寿春なのでこれら経歴全てが寿春近辺の話でしょう。

やがて夏侯詳南斉の豫州刺史となった蕭鸞の知遇を得ますが、それまでの事績として「歷事八將,州部稱之」とあります。

豫州刺史:(蕭晃垣崇祖の時期が南斉
殷琰(465年~466年)
(数名省略)
劉勔(467年~469年)
段佛栄(469年~474年)
任農夫(474年~475年)
劉懐珍(475年~478年)
蕭晃(478年~479年)
垣崇祖(479年~482年)
蕭順之(482年~485年?)
蕭子響(485年~487年)
蕭鸞(487年~489年)
王敬則(489年~493年)

劉勔を含む8人の豫州刺史の後に蕭鸞が豫州刺史となっており、実に20年あまり夏侯詳は(寿春に置かれた)豫州の役人として貢献していたようです。


『新唐書』巻一百九十一、忠義伝上、夏侯端
夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳孫也。

夏侯詳の孫の夏侯端は「寿春の人」となっており、(夏侯端が仕えた)では南朝人の本籍地が移住先に変更されるケースがよくあることから、夏侯端までに「寿春に代々住んでいた一族」となっていたはず。

夏侯詳は先祖が移住した寿春において、州吏を歴任する層(地方豪族)の一員だったようですね。
さらに言えば、20年以上も同じ州の刺史の幕僚や州内の県令に留まっていることから、中央政界に繋がりのあるような貴族層ではなく、前線かつ陥落したこともある寿春に移住した一族となると「晩渡北人」の類と思われます。
(江東の移住者社会から離脱して前線に移住した一族かもしれませんが)

それがに入るとあれほど重用されるわけですから、時勢にうまく乗って大躍進したと言えるでしょう。

タグ: 南斉

謝晦の一族と姻族2

謝晦の一族と姻族の系図。

謝晦一族姻族系図

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タグ: 東晋 陳郡謝氏

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