賨(板楯蛮)の李特

五胡十六国の一つの成漢は、李特の子の李雄が建てた国です。
李特は巴の「賨」族の出身であり、正史には民族の神話から漢までの歴史が語られています。(その訳文はhttp://3guozhi.net/sy/m120.htmlをご覧ください)

『後漢書』巻八十六、南蛮伝、板楯蛮
至高祖為漢王,發夷人還伐三秦。秦地既定,乃遣還巴中,復其渠帥羅、朴、督、鄂、度、夕、龔七姓,不輸租賦,餘戶乃歲入賨錢,口四十。世號為板楯蠻夷。閬中有渝水,其人多居水左右。天性勁勇,初為漢前鋒,數陷陳。俗喜歌舞,高祖觀之,曰:「此武王伐紂之歌也。」乃命樂人習之,所謂巴渝舞也。遂世世服從。

巴の部族は漢王劉邦の挙兵を助けて戦い、彼らの歌・舞は劉邦の命で前漢の楽人が学んで「巴渝舞」として伝えられました。
「巴渝舞」の由来は当時彼らの多くが巴郡西部の閬中県を通る渝水の近くに住んでいたからのようです。
また、前漢の時の彼らは首長の羅・朴など七姓が賦税を免除され(残りの者は「賨銭」の納付)、代々「板楯蛮夷」を名乗り、王朝に従っていました。

『後漢書』巻八十六、南蛮伝、板楯蛮
遂世世服從。
至于中興,郡守常率以征伐。桓帝之世,板楯數反,太守蜀郡趙溫以恩信降服之。

板楯蛮は後漢でも服従して巴郡太守などが征伐の時に率いる戦力となり、「神兵」と呼ばれて羌族に恐れられたほどでしたが、後期桓帝の代から度々反乱を起こすようになりました。
益州の役人によると王朝の地方官による搾取が反乱の原因であり、まともな太守が赴任すると沈静化していました。

この巴の部族は板楯蛮と呼ばれた他、賨銭を払っていたことから賨とも呼ばれました。

『太平御覧』巻一百六十七、州郡部十三、山南道上、閬州
『三巴記』
閬中有渝水,賨民銳氣喜舞。故高祖樂其猛銳,數觀其舞,使樂人習之,故樂府中有巴渝舞。

賨の古い記録の一つである『三巴記』で上記と同じ「巴渝舞」の由来が載っています、


400年近く両漢王朝に従い、「巴渝舞」の元となった歌舞や「神兵」と呼ばれた精強さで知られた賨・板楯蛮。
その末裔である李特が巴蜀で挙兵して西晋と戦い、李雄が巴蜀を統一して「成」(成漢)を建て、李寿が国号を「漢」に変えたわけです。
李特成漢の代にも賨・板楯蛮の習俗が残っていたら面白いですね。

タグ:成漢 後漢

蜀漢≒蜀漢

蜀漢について正史で「蜀漢」と書く時があります。

『三国志』巻四十八、孫皓伝、元興元年、注
漢晉春秋載晉文王與晧書曰:「(中略)方今主上聖明,覆幬無外,僕備位宰輔,屬當國重。唯華夏乖殊,方隅圮裂,六十餘載,金革亟動,無年不戰,暴骸喪元,困悴罔定,每用悼心,坐以待旦。將欲止戈興仁,為百姓請命,故分命偏師,平定蜀漢,役未經年,全軍獨克。(中略)」

晋王司馬昭の皇帝孫皓に送った手紙にある蜀漢平定を命じて1年経たずに達成したという文中で「平定蜀漢」とあります。

『三国志』巻三十五、諸葛亮伝、注引『黙記』
昔樂毅以弱燕之眾,兼從五國之兵,長驅彊齊,下七十餘城。今蜀漢之卒,不少燕軍,君臣之接,信於樂毅,加以國家為脣齒之援,東西相應,首尾如蛇,形勢重大,不比於五國之兵也,何憚於彼而不可哉?

また、張儼蜀漢について論じた文の中で、「今蜀漢之卒不少燕軍」と蜀漢の兵力は昔々に楽毅が率いたの軍勢ほど少なくは無いと述べています。

これだけを見ると蜀漢は当時も「蜀漢」と書かれていたように考えてしまいますが、実は「蜀漢」は蜀や漢中の地域を指す由緒ある表現です。
例えば史記にも見られ、劉邦が漢王として向かった場所、そして挙兵した場所として複数の記述があります。

『三国志』巻十、荀彧伝
彧曰:「不先取呂布,河北亦未易圖也。」太祖曰:「然。吾所惑者,又恐紹侵擾關中,亂羌、胡,南誘蜀漢,是我獨以兗、豫抗天下六分之五也。為將奈何?」

三国志でも蜀漢と関係ない事例として、197年頃の荀彧曹操の会話の中で、河北の袁紹が関中に手を広げてさらに南の「蜀漢」を引き入れることを危惧する発言があります。

つまり、劉備が立てたは現在では蜀漢とも呼ばれますが、「蜀漢」の地にあったことから当時でも「蜀漢」という表現が使われることがあったわけですね。


余談ですが、当ブログは「文中の強調箇所」の他、「人名」や「国名」を太字で示すスタイルです。そのため、本記事のタイトルは「蜀漢≒蜀漢」という表記になります。

タグ:蜀漢 後漢 地理

劉備の従事中郎

『三国志』巻三十二、先主伝、建安二十四年
秋,羣下上先主為漢中王,表於漢帝曰:「平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍領長史鎮軍將軍臣許靖、營司馬龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、軍師將軍臣諸葛亮、盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽、征虜將軍新亭侯臣張飛、征西將軍臣黃忠、鎮遠將軍臣賴恭、揚武將軍臣法正、興業將軍臣李嚴等一百二十人上言曰:(後略)」

219年、劉備を漢中王とする上表を配下達が出しました。120人の名義中、11人の名前が記録されており、彼らが当時の上位と見て良いでしょう。
その中で4番目に載るのは、従事中郎・軍議中郎将の射援です。
(「議曹従事中郎」は「議曹従事」か「従事中郎」の間違いと思われますが、今回は「従事中郎」とします)

『三国志』巻三十二、先主伝、建安二十四年、注引『三輔決録注』
援字文雄,扶風人也。(中略)援亦少有名行,太尉皇甫嵩賢其才而以女妻之,丞相諸葛亮以援為祭酒,遷從事中郎,卒官。

射援は扶風の人で、妻が皇甫嵩の娘。後に丞相諸葛亮の祭酒や従事中郎となりました。
格の高い配下であり、上表参加者で彼より先に出るのは「元群雄の馬超」「左将軍府の長史の許靖」「司馬の龐羲」です。

『後漢書』志第二十四、百官志一、将軍
長史司馬皆一人,千石。本注曰:司馬主兵,如太尉。從事中郎二人,六百石。本注曰:職參謀議。掾屬二十九人。令史及御屬三十一人。本注曰:此皆府員職也。又賜官騎三十人,及鼓吹。

後漢における将軍の属官として、「長史」「司馬」に続く官が「従事中郎」でした。主に定員は2名。

射援以前にその従事中郎だった者は、糜竺孫乾簡雍伊籍です。

『三国志』巻三十八、麋竺伝
隨先主周旋。先主將適荊州,遣竺先與劉表相聞,以竺為左將軍從事中郎。益州既平,拜為安漢將軍,班在軍師將軍之右。

『三国志』巻三十八、孫乾伝
後隨從周旋。先主之背曹公,遣乾自結袁紹,將適荊州,乾又與麋竺俱使劉表,皆如意指。(中略)先主定益州,乾自從事中郎為秉忠將軍,見禮次麋竺,與簡雍同等。頃之,卒。

『三国志』巻三十八、簡雍伝
隨從周旋。先主至荊州,雍與麋竺、孫乾同為從事中郎,常為談客,往來使命。先主入益州,劉璋見雍,甚愛之。後先主圍成都,遣雍往說璋,璋遂與雍同輿而載,出城歸命。先主拜雍為昭德將軍。

『三国志』巻三十八、伊籍伝
伊籍字機伯,山陽人。少依邑人鎮南將軍劉表。先主之在荊州,籍常往來自託。表卒,遂隨先主南渡江,從入益州。益州既定,以籍為左將軍從事中郎,見待亞於簡雍、孫乾等。遣東使於吳,孫權聞其才辯,(中略)權甚異之。後遷昭文將軍,與諸葛亮、法正、劉巴、李嚴共造蜀科;蜀科之制,由此五人焉。

記録をまとめると、
麋竺:荊州入りの際に使者となり、左将軍従事中郎となり、益州平定後に安漢将軍を拝命。
孫乾:荊州入りの際に使者となり、益州平定後に従事中郎から秉忠将軍となる。
簡雍:荊州入りの後に麋竺孫乾と同じく従事中郎となり、益州平定後に昭徳将軍を拝命。
伊籍:荊州で劉備に仕え、益州平定後に左将軍従事中郎となり、後に昭文将軍に転任。


さて、劉備が一度に3人以上の「従事中郎」を置いていたなら問題ないですが、定員が1名~2名だったなら、この4人を上手く当てはめる必要があります。
例えば、常に定員1名なら、「従事中郎」は糜竺簡雍孫乾伊籍の順が考えられます。
孫乾伊籍は益州平定後に「従事中郎」だった記述があることと、年功序列による順番)
この場合、糜竺簡雍は従事中郎と将軍の間に、中郎将か他の左将軍府の属官(長史や司馬)だったと思われます。糜竺簡雍らは20年以上も仕えていたにも関わらず、官歴が2つしか残っておらず、記録に抜けがあるのはほぼ間違いないでしょう。


定員が2名なら、糜竺簡雍簡雍孫乾伊籍&誰か、となるのではないでしょうか。
簡雍糜竺孫乾と同時に従事中郎だった時期があったとするもの。
孫乾伝と伊籍伝を合わせると、礼遇度は糜竺簡雍孫乾伊籍であり、これは従事中郎に就任した順にも関わりがあったのではないでしょうか。


ちなみに、糜竺孫乾簡雍伊籍射援(と許靖龐羲)の共通点は、荊州人でも益州人でもないこと。
劉備は配下を荊州府や益州府の属官に任命しましたが、旧来の制度・慣習の如くそれぞれ荊州人や益州人が用いられる傾向にありました。
どちらでもない糜竺らが劉備の属官となるならば、やはり左将軍府の属官が相応しかったのでしょう。

タグ:蜀漢 後漢

義陽の董厥と樊建2

さらに問題なのが樊建

『三国志』巻三十五、諸葛亮伝、樊建
建字長元。延熙(二)十四年,以校尉使吳,值孫權病篤,不自見建。權問諸葛恪曰:「樊建何如宗預也?」恪對曰:「才識不及預,而雅性過之。」後為侍中,守尚書令。

251年に校尉としてへの使者になり、261年頃に侍中・守尚書令となりましたが、それ以前の経歴がさっぱり分かりません。
侍中守尚書令は侍中・輔国将軍の董允や侍中の陳祗が就任して副宰相の立場となっており、似たパターンなら樊建の前職も侍中でしょう。尚書→尚書令の呂乂のパターンもありえます。

251年の「校尉」も曖昧な情報。
黄門侍郎の費褘や尚書吏部郎の羅憲が宣信校尉としてへの使者となりましたが、それと同じなら240年代は黄門侍郎や吏部郎のような官位だった可能性があります。楊戯羅憲の間ぐらい?
蜀漢建国時の若手、又は第二世代かもしれません。

『三国志』巻四十五、楊戯伝、季漢輔臣賛、劉邕
子式嗣。少子武,有文,與樊建齊名,官亦至尚書。

実際に義陽の劉邕(230年代の後将軍)の少子の劉武樊建は同等の名声だったとあり、創業世代よりも1世代ほど若いのは確実でしょう。

それなら「蜀漢前期の他の樊氏」の子供や親族の可能性もあるのではないでしょうか。

『三国志』巻四十、李厳伝、注引『公文上尚書』
(前略)領長史綏軍將軍臣楊儀、督左部行中監軍揚武將軍臣鄧芝、行前監軍征南將軍臣劉巴劉邕)、行中護軍偏將軍臣費禕、(後略)行護軍征南將軍當陽亭侯臣姜維、行中典軍討虜將軍臣上官雝、行中參軍昭武中郎將臣胡濟、行參軍建義將軍臣閻晏、(中略)行參軍武略中郎將臣杜祺、行參軍綏戎都尉盛勃、領從事中郎武略中郎將臣樊岐等議,輒解平任,免官祿、節傳、印綬、符策,削其爵土。」

例えば、231年に領従事中郎・武略中郎将だった樊岐
樊岐は他の記録はありませんが、同じ武略中郎将だった南陽の杜祺が最終的に監軍や大将軍司馬となったり(240年代?)、昭武中郎将だった義陽の胡済が250年代の漢中方面の重鎮だったりしており、順調に出世すれば似たような地位にあった可能性があります。出身地も近いかもしれません(諸葛亮の北伐の荊州人の多さを考慮しても)。
ただ、劉邕と比べると官位が低く、年齢も若いとすると樊建の親候補としては厳しい気がします。従兄や叔父なら良さそうですが、いずれにしても根拠の無い妄想の類。

あるいは、221年~222年の武陵部従事の樊伷

『三国志』巻六十一、潘濬伝、注引『江表伝』
武陵部從事樊伷誘導諸夷,圖以武陵屬劉備,外白差督督萬人往討之。權不聽,特召問濬,濬答:「以五千兵往,足可以擒伷。」權曰:「卿何以輕之?」濬曰:「伷是南陽舊姓,(中略)」

樊伷は東征に出た劉備に呼応し、孫権側の潘濬に平定された人物。潘濬はこの樊伷を「南陽旧姓」と言っており、南陽郡の著姓、有名な(大規模な)一族の出身だったようです。
年代としては申し分ないですが、縁者だったとするとへの使者となるには遺恨が懸念されます。


ところで、南陽郡には「南陽舊姓」と言われるだけの樊氏がいました。

『後漢書』巻三十二、樊宏伝
樊宏字靡卿,南陽湖陽人也,世祖之舅。

特に光武帝の外戚(母の一族)だった南陽・湖陽の樊氏一門は後漢以前から当地の著姓であり、当然ながら後漢で重んじられました。
樊伷はその一族だったのかもしれません。

そして彼らの故郷の湖陽県は、新野県と義陽県の間にありました。つまり「義陽郡」の一部です。

『三国志』巻四十二、来敏伝
來敏字敬達,義陽新野人,來歙之後也。

『三国志』巻四十五、鄧芝伝
鄧芝字伯苗,義陽新野人,漢司徒禹之後也。

新野の来敏来歙の末裔)や鄧芝鄧禹の末裔)も義陽の出身となっています。

実は樊建光武帝の外戚一族の末裔であり、義陽(元は南陽)の著姓出身として荊州人社会の中で格が高い存在だったかもしれませんね。

タグ:蜀漢 後漢

費褘の親族

費褘系図

益州牧となった劉焉劉璋父子は「江夏竟陵の劉氏」であり、劉焉の母が「江夏安陸の黄氏」(太尉黄瓊の娘)、劉璋の母が「江夏鄳の費氏」でした。
「江夏鄳の費氏」の一族は劉璋を頼って益州に入った者が複数おり、記録では費観費伯仁費褘が載っています。続柄は「劉璋の母」=「費観の族姑(1世代上の同族)」=「費伯仁の姑(父の姉妹)」であり、費褘は(孤児になると)族父の費伯仁に身を寄せていました。
また、費観劉璋の娘を娶っています。

このような荊州(特に江夏)の名族社会の一員だった費褘でしたが、益州牧が劉備に代わり、蜀漢が建てられた後も名声を高めて重んじられるようになり、遂には息子と娘が皇室と姻戚になり、自らは宰相の地位に登りました。
費褘蜀漢における地位は自身の器量や才覚だけでなく、格別な「背景」があったからかもしれませんね。

なお、劉焉劉璋との縁により益州に入った大物は他に来敏呉懿などがいました。

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