関羽「長生」と苻生・李暠・慕容熙

『三国志』巻三十六、関羽伝
關羽字雲長,本字長生,河東解人也。

関羽の字は「雲長」です。関雲長ここにあり!

名前と字は関係のある文字が使われることが多く(例外もありますが)、「羽」と「雲長」は繋がりがありそうな字面です。浅学な私は熟語や典拠が思いつきませんが。
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さて、関羽の本来の字は「長生」でした。長生き、長命。縁起の良さそうな名前ですね。

そして関羽の死から100年余り後、字が「長生」の大物が現れます。

『晋書』巻一百十二、苻生載記
(苻)生字長生,健第三子也。幼而無賴,祖洪甚惡之。生無一目,(中略)及長,力舉千鈞,雄勇好殺,手格猛獸,走及奔馬,擊刺騎射,冠絕一時。

前秦の2代目君主の苻生、字は「長生」。

苻生前秦を建国した氐族の苻健の三男。生まれつき片目がありませんでしたが、成人すると超人的な身体能力を持ち、武術・騎射に冠絶した武闘派となりました。

名付けに「生」と「長生」を使ったのは、生まれつき障害があったので長生きするようにという願いが込められていたのでしょうか。
あるいは幼い頃から(君主となった後も)無法で凶悪であり、祖父に嫌われ殺されかけたりしていることから、無事を願って付けたのかもしれません。
関羽由来なら面白いですね。

苻生は後に従兄弟の苻堅に殺され、前秦は名君苻堅により最盛期(と破滅)を迎えます。


苻生の父の苻健前秦を建国した頃、前涼でも「長生」が生まれます。

『北史』巻一百、序伝
子昶,字仲堅,幼有名譽,年十八而亡。建初中,追諡簡公。
涼武昭王暠字玄盛,小字長生,簡公昶之子也。遺腹而誕,祖母梁氏,親加撫育。

それこそが後に西涼を建てる李暠です。小字が「長生」。(字は玄盛)

李暠は父が数え年18歳の若さで死んだ後に生まれた遺腹の子であり、祖母によって養育されました。
小字(=幼名)の「長生」とは、そのような背景から長生きするように付けられたのでしょう。

やがて李暠は50歳の時に北涼から自立して西涼を建て、67歳まで生きました。
その後まもなく西涼は滅ぼされますが、子孫は北朝で栄え、その末裔という李淵を建てました。


そして、その李暠と同時代に君主に、小字が「長生」だった者がもう一人いました。

『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容熙
熙,字道文,小字長生,垂之少子也。

それが後燕4代目君主の慕容熙です。彼も小字が「長生」。(字は道文)

彼が生まれたのは苻生の50年後ですが、前秦が崩壊して各地で群雄が現れ。君主の苻堅が殺される戦乱の時代でした。
慕容熙の父の慕容垂後燕を建てて河北の争いを制しつつあり、小字の「長生」は乱世を乗り越えられるように、あるいは今後長らく繁栄するように、意味を込めて名付けたものかもしれませんね。
なお、彼ら鮮卑族は鮮卑名と呼べるような小字を付けることがありますが(父の慕容垂など)、これは漢人風です。

その後、慕容垂が亡くなり、後燕北魏に敗れて凋落する中を慕容熙は生き延び、遂に君主に擁立されましたが、失政や失策を繰り返して馮跋北燕建国者)によるクーデターで殺されました。


苻生の享年は23歳。慕容熙の享年は22歳。
彼らは字が「長生」でも長生きできなかった組ですね。
とはいえ、同じ字や小字で君主となった者が3人もいるのはかなり珍しいことでしょう。

タグ:蜀漢 前秦 西涼 後燕

南燕と公孫氏5

「南燕と公孫氏4」の続き。
376年に前秦前涼を滅ぼした後、慕容徳は張掖太守として涼州に着任。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容超
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
慕容超,字祖明,德兄北海王納之子。秦滅燕,以納為廣武太守,數歲去官,與母公孫太妃就弟德于張掖。德從符堅南征,留金刀,辭母而去。

兄の慕容納も広武太守となり、兄弟揃って涼州にいたようです。母の公孫氏は兄の方に随行したものと思われます。数年して慕容納は離任し、母と共に慕容徳のいる張掖に移住。

やがて慕容徳は南征に参加し、兄や母と別れます。その時に金刀を残しておきました。

383年の前秦の南征が「淝水の戦い」で大敗して終わると、従軍していた慕容垂は自立し、翌384年に燕王を称します。
同じく従軍していた慕容徳は異母兄の慕容垂に合流し、再興した燕、後燕に仕えました。

『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容超
崔鴻『十六国春秋・南燕録』
及垂兵山東,張掖太守符昌誅納及德之諸子,公孫太妃以耄不合刑,納妻段氏以懷妊未決,執于郡獄。獄掾呼延平,德之故吏也,將公孫、段氏逃于羌中,而生超焉。公孫氏臨卒,授超金刀,曰:「聞汝伯已中興於鄴都,吾朽病將沒,相見理絕。汝脫得東歸,可以此刀還汝叔也。」

この慕容垂らの自立に対して、前秦の張掖太守の苻昌は領内にいた慕容納慕容徳の子供達を処刑します。
慕容納らと一緒にいた公孫氏は高齢を理由に処刑は免れ、まもなく慕容納の妻の段氏と共に獄掾の呼延平に連れられて羌中に逃げ込みました。
そして妊娠していた段氏は385年に男児を出産。彼が慕容超と呼ばれる人物であり、公孫氏の孫(唯一生き残った男の孫?)でした。

ちなみに、この385年に西域遠征から帰国した呂光が涼州を制圧し、張掖を含む河西一帯の新たな主となりました(後涼)。

公孫氏が20歳前後で慕容徳を生んだとすると、これらは70歳頃の出来事となりますね。

『晋書』巻一百二十八、慕容超載記
至是,將公孫及段氏逃于羌中,而生超焉。年十歲而公孫氏卒,臨終授超以金刀,曰:「若天下太平,汝得東歸,可以此刀還汝叔也。」平又將超母子奔于呂光。

公孫氏慕容超が10歳の時に死去。
公孫氏は臨終の際に慕容超に金刀を渡して「天下が太平になって東へ帰れた時は、この刀を叔父に返すように」言い残しました。
没年は394年。享年は80歳近くでしょうか。


その後、慕容超と母の段氏呼延平に連れられて呂光後涼に移住。
385年に羌中の地域に隣接する鮮卑禿髪部が後涼から爵位を貰ったり、西秦が一時的に後涼に屈して称藩しており、また翌年には後涼呂光が「天王」に即位していました。
ちょうど後涼の最盛期であり、それが呼延平らの移動の動機かもしれませんね。

後涼が滅亡した後、405年になって慕容超はようやく東部に逃れ、叔父の慕容徳が建てた南燕に入ります。そして慕容徳に金刀を返すと共に祖母・公孫氏の言葉を伝え、慕容徳から兄・慕容納の子として認められただけでなく、息子のいなかった慕容徳の後継者に選ばれることになりました。

タグ:南燕 後燕 前秦

慕容徳の母と兄

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
慕容德字玄明,皝之少子也。(中略)慕容儁之僭立也,封為梁公,歷幽州刺史、左衞將軍。及暐嗣位,改封范陽王,稍遷魏尹,加散騎常侍。(中略)
後遇暐敗,徙于長安,苻堅以為張掖太守,數歲免歸。(中略)
及垂稱燕王,以德為車騎大將軍,復封范陽王,居中鎮衞,參斷政事。(中略)
寶既嗣位,以德為使持節、都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事、特進、車騎大將軍、冀州牧,領南蠻校尉,鎮鄴,罷留臺,以都督專總南夏。(中略)
先是,慕容和亦勸德南徙,於是許之。隆安二年,乃率戶四萬、車二萬七千乘,自鄴將徙于滑臺。(中略)
引師而南,兗州北鄙諸縣悉降,置守宰以撫之。存問高年,軍無私掠,百姓安之,牛酒屬路。
德遣使喻齊郡太守辟閭渾,渾不從,遣慕容鍾率步騎二萬擊之。德進據琅邪,徐兗之士附者十餘萬,自琅邪而北,迎者四萬餘人。(中略)德遂入廣固。
四年,僭即皇帝位于南郊,大赦,改元為建平。

慕容皝の少子・慕容徳前燕の范陽王や魏尹となり、前秦では張掖太守をしばらく務め、後燕では車騎大将軍・范陽王として重んじられました。
その後、北魏の侵攻が進む中、冀州牧として鄴を任されていた慕容徳は滑台に拠点を移して半独立勢力となり、さらに兗州・徐州を経由して青州に入り、広固を都として皇帝に即位しました。
17歳で兄の皇帝即位(前燕)、35歳で故国前燕の滅亡、48歳で前秦から離脱(後燕へ)、65歳で皇帝即位(南燕)。

小さな帝国の主となった慕容徳でしたが、母と兄の安否が気がかりでした。

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
德母兄先在長安,遣平原人杜弘如長安問存否。弘曰:「臣至長安,若不奉太后動止,便即西如張掖,以死為效。臣父雄年踰六十,未沾榮貴,乞本縣之祿,以申烏鳥之情。」(中略)乃以雄為平原令。弘至張掖,為盜所殺,德聞而悲之,厚撫其妻子。

そこで杜弘を母・兄がかつて住んで居た長安に派遣し探らせますが、杜弘は長安を超えて張掖まで行ったものの殺害され、安否は判らないままでした。
(なお、目的は果たせませんでしたが、慕容徳杜弘との約束どおりにその父を県令に取り立て、残された妻子も手厚く扱いました)

『晋書』巻一百二十七、慕容徳載記
德故吏趙融自長安來,始具母兄凶問。德號慟吐血,因而寢疾。

その後、長安から来た者により始めて母兄の訃報が伝えられます。慕容徳は悲しみの余り吐血し、病に臥せました。
(兄は384年頃、母は394年に亡くなっていました)

『資治通鑑』巻一百一十三、晋紀三十五、元興二年
(夏四月)南燕主備德故吏趙融自長安來,始得母兄凶問,備德號慟吐血,因而寢疾。

これは資治通鑑では403年四月、屠本では三月の出来事。
慕容徳が67歳の時です。

流石に兄も母も生きていなくてもおかしくない年ですが、凶報には変わりなく、両者の最後を思えば悲しみも一層増したことでしょう。

タグ:前燕 後燕 南燕

公孫度の末裔、公孫表

『魏書』巻三十三、公孫表伝
公孫表,字玄元,燕郡廣陽人也。遊學為諸生。慕容沖以為尚書郎。慕容垂破長子,從入中山。慕容寶走,乃歸闕。以使江南稱旨,拜尚書郎。後為博士。(中略)
太宗初,表參功勞將軍元屈軍事,討吐京叛胡,為胡所敗。表以先諫止屈,太宗善之,賜爵固安子。(中略)時年六十四。

燕郡広陽の人である公孫表は360年に生まれ、(前秦で)遊学して諸生となり、後に西燕(384年~394年)に仕えて慕容沖の代には尚書郎となり、西燕を滅ぼした後燕にも仕えましたが、慕容宝(在位396年~398年)が北魏に破れて凋落すると、自ら北魏に投じ、道武帝から尚書郎や博士として用いられ、明元帝の代に固安子の爵位も授かりました。その後、423年に64歳で死亡。

おそらく生まれは前燕で、11歳の時に前秦の支配下に入り、25歳以降に西燕に従い、35歳から後燕に仕え、38歳頃から北魏の臣下になったという生涯でしょう。
このように次々に所属する国が変わる経歴は、当時は多くの漢人豪族・名士で見られたことでしょう。


さて、実は公孫表は「遼東公孫氏」の公孫度の末裔という記録があります。

『元和姓纂』巻一、公孫氏、遼東
後漢有公孫延,生度為遼東太守。子康生文懿,三代處遼東,後自立為燕王。魏明帝遣司馬宣王平之,三代五十年而滅。後魏廣州刺史、固安子公孫表稱度後。孫叡,尚書、燕郡公。曾孫遂,青州刺史。生長儒,北齊涇州刺史。孫正,唐揚州司法。

その一つがで書かれた『元和姓纂』です。
信憑性はさておき、公孫表の子孫である公孫正に仕えていることから、おそらく公孫正の一族経由で伝わった情報でしょう。

北朝では遼東襄平の公孫氏の記録が墓誌などで複数残っています。当時は公孫氏の中でも遼東襄平の一族がおそらく特に有名であり、さらに歴代の遼東公孫氏の中でも著名な公孫度がその始祖としてよく使われていたのかもしれませんね。


また、公孫表の本籍の広陽県は前燕が都を置いた薊城の近くにあります。前燕の代に一族が遼東から薊城一帯に移住し、本籍を移動させたとも考えられます。

タグ:北魏 前燕 後燕 西燕 後漢 前秦

慕容皝の子の初陣2

『晋書』巻一百十一、慕容暐載記、慕容恪
母高氏無寵,皝未之奇也。年十五,身長八尺七寸,容貌魁傑,雄毅嚴重,每所言及,輒經綸世務,皝始異焉,乃授之以兵。

四男の慕容恪は15歳になってから父に評価され、兵を授けられました。

『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容垂
年十三,為偏將,所在征伐,勇冠三軍。

五男の慕容覇は13歳にして偏将となり、やがて軍事において頭角を現します。
慕容覇の方が若くして軍を率いる立場となったのは、やはり早くから父に寵愛や評価されていたためでしょう。


さて、慕容皝の次男の慕容儁は世子(335年7月)や王太子(337年冬)になりましたが、慕容覇(後の慕容垂)の方が寵愛を受けており、慕容皝慕容覇を世子にしようと考えたこともあったようです(「慕容皝の世子」)。
また、記録上の初陣は、慕容儁が336年10月頃、慕容恪が338年5月、慕容覇(慕容垂)が338年冬頃です(「慕容皝の子の初陣」)。

333年夏、遼東公慕容廆が死に、世子慕容皝が継承。
335年秋、慕容皝が次男の慕容儁(17歳)を世子に立てる。
336年冬頃、世子慕容儁(18歳)の段遼攻撃。初陣?
337年冬、慕容皝が燕王に即位し、世子慕容儁(19歳)が王太子となる。
338年夏、慕容皝が四男の慕容恪(15歳以上)を対後趙戦に出す。初陣?
338年、慕容皝が五男の慕容覇(13歳)を将帥に起用。
339年、慕容覇(14歳)が高句麗遠征に参加。初陣?

これらの初陣や初期の軍功が世子問題に絡んでいたとすると面白いですね。

慕容儁が世子になった翌年頃に戦に出て功績を挙げたおかげで、撤回される危機をひとまず脱して王太子になれたのかもしれませんね。
ただ、さらに翌年に慕容覇が将となり、若くして戦場に出て功績を立てたりするので、安泰だったのかどうか。(さらに初陣後の様子を見て、世子を慕容覇に変えようと思ったという可能性も?)

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