韋祖思と韋玄と韋叡の祖父2

『宋書』巻六十五、杜驥伝
北土舊法,問疾必遣子弟。驥年十三,父使候同郡韋華。華子有高名,見而異之,以女妻焉。

杜驥伝に出てくる韋玄「韋玄・韋叡と京兆杜氏」で述べた通り韋叡の祖父です。

『宋書』巻六十五、杜驥伝
二十七年,卒,時年六十四。

杜驥は元嘉二十七年(450年)に64歳で死去。よって生年は387年。
そして杜驥が13歳となるのが399年。
その年に韋玄杜驥を評価し、娘を娶らせたことから、韋玄杜驥より年長で、399年時点で妙齢の娘がいた可能性があります。
(この時点は婚約だけで、実際に娘を娶らせたのはもっと後の可能性もありますが)

控えめに12歳以上年長とすると、韋玄の生年は375年以前。
赫連勃勃が京兆の韋祖思韋玄を殺した419年頃には45歳以上。


『魏書』巻五十二、胡叟伝
胡叟,字倫許,安定臨涇人也。世有冠冕,為西夏著姓。叟少聰敏,年十三,辨疑釋理,知名鄉國,其意之所悟,與成人交論,尠有屈焉。學不師受,友人勸之,叟曰:「(略)」及披讀羣籍,再閱於目,皆誦於口。好屬文,既善為典雅之詞,又工為鄙俗之句。以姚政將衰,遂入長安觀風化,隱匿名行,懼人見知。時京兆韋祖思,少閱典墳,多蔑時輩,知叟至,召而見之。祖思習常,待叟不足,叟聊與敍溫涼,拂衣而出。祖思固留之,曰:「當與君論天人之際,何遽而反乎?」叟對曰:「論天人者其亡久矣,與君相知,何夸言若是也。」遂不坐而去。至主人家,賦韋杜二族,一宿而成,時年十有八矣。其述前載,無違舊美,敍中世有協時事,而末及鄙黷。人皆奇其才,畏其筆。世猶傳誦之,以為笑狎。

さて、13歳過ぎに後秦の衰退を察知したという才人胡叟は、京兆の韋祖思に会った後、一夜にして韋杜二族の賦を書き上げて云々という逸話がありますが、これの作成時に18歳でした。

『魏書』巻五十二、胡叟伝
高宗時召叟及舒,並使作檄劉駿、蠕蠕文。舒文劣於叟,舒尋歸家。(中略)年八十而卒。

胡叟は後に後仇池北涼を経て最終的に北魏に仕え、文成帝の代で孝武帝の時)や柔然に対する檄文を作成したりした後、80歳で死去。
とりあえず没年は453年以降。生年は374年以降。

後秦は400年までは上り調子であり、外征も内政もこの頃の記録は良い内容です。
それが400年代後半には赫連勃勃の反乱など、見るからに内外で迷走がありました。胡叟の「姚政將衰」は400年以降が妥当でしょう。
400年以降に13歳なら、生年は388年以降。
そこから18歳なのは、405年以降。

405年以降は、上記の仮定で「韋叡の祖父」が31歳以上の時。(上限はここから数十歳上)

胡叟伝の書き方から、胡叟と会った韋祖思はもっと若く杜驥(387年生まれ)と同じぐらいでも良さそうな印象を受けます。


このような考え方からも、韋祖思と「韋叡の祖父」韋玄を別人と解釈可能ではないでしょうか。

タグ: 北魏 後秦 北涼

韋祖思と韋玄と韋叡の祖父

『晋書』巻一百三十、赫連勃勃載記
勃勃歸于長安,徵隱士京兆韋祖思。既至而恭懼過禮,勃勃怒曰:「吾以國士徵汝,柰何以非類處吾!汝昔不拜姚興,何獨拜我?我今未死,汝猶不以我為帝王,吾死之後,汝輩弄筆,當置吾何地!」遂殺之。

晋書の載記には、赫連勃勃が京兆の韋祖思を殺した逸話があり、その箇所に韋祖思は隠士であり、また過去に後秦姚興に謁見拝礼しなかったとあります。

『宋書』巻九十五、索虜伝
京兆人韋玄隱居養志,有高名,姚興備禮徵,不起,高祖辟為相國掾,宋臺通直郎,又並不就。佛佛召為太子庶子,玄應命。佛佛大怒,曰:「姚興及劉公相徵召,並不起,我有命即至,當以我殊類,不可理其故耶。」殺之。

宋書の索虜伝には、赫連勃勃が京兆の韋玄を殺した逸話があり、その箇所に韋玄は隠棲の志があり、また過去に後秦姚興東晋劉裕の招きに応じていなかったとあります。

ここまで共通点があるので、普通に考えると韋祖思韋玄は同一人物でしょう。
その場合、「祖思」は韋玄の字のはず。


『梁書』巻十二、韋叡伝
韋叡字懷文,京兆杜陵人也。自漢丞相賢以後,世為三輔著姓。祖玄,避吏隱於長安南山。宋武帝入關,以太尉掾徵,不至。伯父祖征,宋末為光祿勳。父祖歸,寧遠長史。

そして梁書には、京兆の韋叡の祖父に韋玄がおり、元は長安南山に隠棲し、後に劉裕の太尉掾に招かれても応じなかった人物だったとあります。

これらも同一人物と考えるのが自然でしょう・・・か?

韋叡の祖父」韋玄の息子は韋祖征韋祖帰です。
赫連勃勃に殺された隠士の韋祖思と「韋叡の祖父」が同一人物なら、親子で字の文字がかぶってしまいます。
これはありうるのでしょうか?


矢野主税氏の「韋氏研究」では(赫連勃勃に殺された)韋祖思韋玄の子(つまり韋祖征韋祖帰の兄弟)としています。
この解釈は全ての記述を満たす上に命名の慣習にも合致する最良の案。
ただ、全て正しいとすると韋玄韋祖思は親子で隠士であり、さらに共に赫連勃勃に殺されたことになります。ありえなくはありませんが、それなら何らかの言及があったも良さそうなものです。
違和感はありますが、整合性が取れる解釈と言えるでしょう。

一応、「韋玄劉裕赫連勃勃から官位を授けられた記録がある」一方で「韋祖思は(単に)隠士や国士とみなされていた」という点から、韋玄はいきなり官位を与えられるだけの年齢にあり、その息子の韋祖思は名声があったが若手だったとも考えられますね。


このような「隠士の韋祖思韋玄韋叡の祖父)の子」という解釈も面白いでしょう。

タグ: 夏国 後秦

赫連勃勃と韋祖思と韋玄

417年、東晋劉裕の北伐により、長安が陥落し、後秦が滅亡。
同年末に劉裕が帰還すると、赫連勃勃が長安を狙って動き出します。
418年、劉裕が宋公に進み、この2年後に東晋から禅譲を受けてを建国することになります。
一方、この年に赫連勃勃が長安を制圧し、皇帝に即位しました。

『晋書』巻一百三十、赫連勃勃載記
于是為壇于灞上,僭即皇帝位,赦其境內,改元為昌武。遣其將叱奴侯提率步騎二萬攻晉并州刺史毛德祖于蒲坂,德祖奔于洛陽。以侯提為并州刺史,鎮蒲坂。
勃勃歸于長安,徵隱士京兆韋祖思。既至而恭懼過禮,勃勃怒曰:「吾以國士徵汝,柰何以非類處吾!汝昔不拜姚興,何獨拜我?我今未死,汝猶不以我為帝王,吾死之後,汝輩弄筆,當置吾何地!」遂殺之。


『資治通鑑』巻一百一十八、晋紀四十、元熙元年
(正月)
夏主勃勃徵隱士京兆韋祖思祖思既至恭懼過甚,勃勃怒曰:「我以國士徵汝,汝乃以非類遇我!汝昔不拜姚興,今何獨拜我?我在,汝猶不以我為帝王;我死,汝曹弄筆,當置我於何地邪!」遂殺之。

419年、長安を得た赫連勃勃のもとに隠士の「京兆の韋祖思」が訪れます。
ところが韋祖思赫連勃勃に対して過剰に恭敬を尽くすと、その態度に激怒した赫連勃勃は自身が呼び出したにも関わらず韋祖思を責め立てた末に殺害しました。
物騒な対応ですね。


『宋書』巻九十五、索虜伝
高祖東還,即入寇北地。安西將軍義真之歸也,佛佛遣子昌破之青泥,俘囚諸將帥,遂有關中,自稱尊號,號年曰真興元年。京兆人韋玄隱居養志,有高名,姚興備禮徵,不起,高祖辟為相國掾,宋臺通直郎,又並不就。佛佛召為太子庶子,應命。佛佛大怒,曰:「姚興及劉公相徵召,並不起,我有命即至,當以我殊類,不可理其故耶。」殺之。

さて、宋書では「京兆の韋玄」が登場します。彼は長安を支配した後秦姚興東晋劉裕から手厚く招かれたにも関わらず応じませんでしたが、赫連勃勃の招聘には応じ、それで逆に赫連勃勃を怒らせて殺されたとあります。


韋祖思韋玄。どちらも赫連勃勃の招きに応じ、かえって殺された京兆の隠士です。
そのような京兆人が二人いたのか、それとも同一人物なのか。

一応、屠本『十六国春秋』では「韋玄字祖思」として同一人物(「祖思」は字)とみなしていますね。
(もっとも屠本は史書を切り貼りする際に手も加えており、元々何らかの資料にあったのか、編纂段階で同一人物とみなしてくっつけたのか不明です)

タグ:後秦 夏国 東晋

沈林子伝の地理雑考(潼関一帯)

たまにはツイッターの方のまとめ記事。











場所は下の図で白丸で囲った地域。
元嘉前史416-沈







タグ: 後秦 東晋

垂手過膝と魏晋南北朝3

五胡十六国時代の「垂手過膝」は4人、と見せかけてもう一人います。

『太平御覧』巻一百十九、偏霸部三、前趙劉曜
『十六国春秋・前趙録』
幼而聰慧,性托落高亮,與眾不群。鐵厚一寸,射而洞之。身長九尺三寸,手垂過膝,生而眉白,目有赤光,須不過百餘根,皆長五尺。

まずは前趙の劉曜。驚異の「身長九尺三寸」。匈奴族。

『太平御覧』巻七百四十四、工芸部一、射上
『晋書』
劉曜,字永明。身長九尺六寸,垂手過膝。雄武有膂力,射鐵,入一寸焉,時號神射也。

膂力があり、鉄を射抜く「神射」の使い手。「手垂過膝」か「垂手過膝」。
ちなみに同族に猿臂が二人いますね。

『太平御覧』巻一百四十二、皇親部八、劉曜劉后
崔鴻『三十国春秋・前趙録』
劉皇后,侍中暟女。年十三,長七尺八寸,手垂過膝,髮與身齊,姿色才德,邁于列后。

そして劉曜の皇后(劉芳)。皇后としては最も長身であろう「七尺八寸」で、髪は背丈と同じ長さ。
弓の名手ということでは特にないようです。
彼女の情報は正史にはなく、特にマイナーでしょう。

『晋書』巻一百十六、姚襄載記
襄字景國,弋仲之第五子也。年十七,身長八尺五寸,臂垂過膝,雄武多才藝,明察善撫納,士眾愛敬之,咸請為嗣。


『太平御覧』巻三百六十九、人事部十、臂
『後秦記』
姚襄垂臂過膝

次に羌の姚襄。「臂垂過膝」か「垂臂過膝」。晋書や十六国春秋より古い『後秦記』の時点で存在。
姚襄は身長八尺五寸ですね。後秦の始祖の一人。

『晋書』巻一百二十三、慕容垂載記
少岐嶷有器度,身長七尺七寸,手垂過膝


『太平御覧』巻一百二十五、偏霸部九、後燕慕容垂
崔鴻『十六国春秋・後燕録』
垂少有器度,身長七尺七寸,手垂過膝

その次に鮮卑の慕容垂。「手垂過膝」。前燕の宗室、後燕の建国者。
一族・兄弟の中では小柄かもしれませんが、それでも「七尺七寸」もあるとのこと。
小柄の「垂手過膝」の人物はいるのでしょうか?

『晋書』巻一百十三、苻堅載記上
臂垂過膝,目有紫光。


『太平御覧』巻一百二十二、偏霸部六、前秦苻堅
崔鴻『十六国春秋・前秦録』
姿貌魁杰,臂垂過膝,目有紫光。祖洪奇而愛之,名「堅頭」,因而謂健曰:「此兒頭大鎮重,身長任大,足短安下,非常相。」

そして氐の苻堅前秦の君主。「姿貌魁杰,臂垂過膝」。
前燕慕容恪が「身長八尺七寸,容貌魁傑」、吐谷渾の吐延が「身長七尺八寸,雄姿魁傑」とあることから、彼も大柄だったと思われます。

匈奴、羌、鮮卑、氐。劉芳はおそらく漢人。バリエーション豊かですね。
前の時代の劉備司馬炎と違い、建国者となったのは慕容垂のみ。
劉曜は(ほぼ)最後の君主、苻堅は大偉業で全盛期を築き上げ、大失敗で壊滅させた人物。
姚襄は声望がありましたが、志半ばで敗死。
(ちなみに、苻堅姚襄を破った側であり、慕容垂を配下にしていたこともありました)

「垂手過膝」や同種の異相は、建国者のものとは限らないようですね。

タグ:前秦 前趙 後秦 後燕

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