崔浩の母

『魏書』巻三十五、崔浩伝
浩母盧氏,諶孫也。

崔浩の母は盧氏盧諶の孫です。

盧諶は高祖父が「後漢の名臣」盧植、曽祖父が「の三公」盧毓、祖父が「西晋の九卿」盧珽、そして父が八王の乱で活躍した盧志という人物。

『晋書』巻四十四、盧欽伝、盧諶
諶字子諒,清敏有理思,好老莊,善屬文。選尚武帝女滎陽公主,拜駙馬都尉,未成禮而公主卒。後州舉秀才,辟太尉掾。洛陽沒,隨志北依劉琨,與志俱為劉粲所虜。粲據晉陽,留諶為參軍。琨收散卒,引猗盧騎還攻粲。粲敗走,諶得赴琨,先父母兄弟在平陽者,悉為劉聰所害。琨為司空,以諶為主簿,轉從事中郎。琨妻即諶之從母,既加親愛,又重其才地。
建興末,隨琨投段匹磾。匹磾自領幽州,取諶為別駕。匹磾既害琨,尋亦敗喪。時南路阻絕,段末波在遼西,諶往投之。元帝之初,末波通使于江左,諶因其使抗表理琨,文旨甚切,於是即加弔祭。累徵諶為散騎中書侍郎,而為末波所留,遂不得南渡。末波死,弟遼代立,諶流離世故且二十載。石季龍破遼西,復為季龍所得,以為中書侍郎、國子祭酒、侍中、中書監。屬冉閔誅石氏,諶隨閔軍,于襄國遇害,時年六十七,是歲永和六年也。

盧諶西晋で285年に誕生し、幼少期は名家の御曹司とされたものの、成人する頃には西晋は内乱状態であり、父は漢(前趙)に殺され、自身は劉琨、段部を経て、後趙に仕え重臣となりますが、末期に冉閔に従ったところ、351年の襄国の戦いで敗死しました。
漢人として名高く、特に書道において高い評判がありました。

『魏書』巻四十七、盧玄伝
盧玄,字子真,范陽涿人也。曾袓諶,晉司空劉琨從事中郎。袓偃,父邈,並仕慕容氏為郡太守,皆以儒雅稱。神䴥四年,辟召儒儁,以玄為首,授中書博士。司徒崔浩,玄之外兄,每與玄言,輒歎曰:「對子真,使我懷古之情更深。」浩大欲齊整人倫,分明姓族。玄勸之曰:「夫創制立事,各有其時,樂為此者,詎幾人也?宜其三思。」浩當時雖無異言,竟不納,浩敗頗亦由此。後轉寧朔將軍、兼散騎常侍,使劉義隆。義隆見之,與語良久,歎曰:「中郎,卿曾袓也。」既還,病卒。

さて、崔浩盧玄の外兄でした。
盧玄盧諶の曾孫であり、祖父は盧偃、父は盧邈といい、どちらも慕容氏(前燕後燕)に仕えたそうです。

つまり、崔浩の母は盧偃の娘、盧邈の姉妹となりますね。

タグ:北魏 西晋 後趙

上党馮氏(胡)

元々、上党郡は并州の東南にあり、辺境扱いの并州の中では最も内地にありました。
東隣が魏郡(鄴など)、南隣が河内郡(洛陽のすぐ北)という立地。
ただ、周りが山だらけであり(大行山脈)、後漢末期には黒山賊の根城となった他、後には胡族の石勒の一族が住んだりして平野部とは異なる環境にもありました。
并州の内地に進出していた匈奴からは直接攻撃を受けることもありましたね。

西晋末期、五胡十六国時代に突入した辺りでは当然のようにここに非漢人勢力が出現しました。

『晋書』巻一百四、石勒載記上
胡部大張㔨督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因說㔨督曰:「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能。」勒曰:「如其不能者,兵馬當有所屬。今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計。」㔨督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海。元海署㔨督為親漢王,莫突為都督部大,以勒為輔漢將軍、平晉王以統之。勒於是命㔨督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也。


例えば、上党に割拠した胡部大の張㔨督馮莫突。彼らは石勒によって漢王劉淵前趙)に帰順し、張㔨督は親漢王、馮莫突は都督部大となり、さらに張㔨督は「石会」と改名して石勒の兄として遇されたそうです。
資治通鑑では307年の出来事としていますね。

馮莫突・・・?
まさか上党の馮氏?
しかし「都督部大」となっていることから、明らかに胡人のような扱いです。
たまたま「馮」の入った名前だったのか、それとも漢人の「上党の馮氏」にあやかったのか。

ともかく、この頃の上党には胡人の有力者に「馮」姓?の胡人が居たようですね。

時に永嘉年間。
永嘉年間の馮氏・・・。

『晋書』巻一百二十五、馮跋載記
馮跋字文起,長樂信都人也,小字乞直伐,其先畢萬之後也。萬之子孫有食采馮鄉者,因以氏焉。永嘉之亂,跋祖父和避地上黨。

馮跋の祖父の馮和とも接点があったかもしれませんね。
タグ:後趙 北燕

兗州刺史の檀斌/檀贇

『晋書』巻六、明帝紀、太寧三年
夏四月(中略)己亥,雨雹。石勒將石良寇兗州,刺史檀贇力戰,死之。將軍李矩等並眾潰而歸,石勒盡陷司、兗、豫三州之地。
(中略)
六月,石勒將石季龍攻劉曜將劉岳于新安,陷之。(中略)
秋七月辛未,以尚書令郗鑒為車騎將軍、都督青兗二州諸軍事、假節,鎮廣陵,領軍將軍卞壼為尚書令。


晋書・帝紀によると、
325年4月、後趙石良が兗州を攻め、東晋の兗州刺史檀贇が戦死。司・豫州の地で粘っていた李矩も壊走し、東晋は司・兗・豫三州を失いました。おのれ賊。

『晋書』巻一百五、石勒載記下
晉都尉魯潛叛,以許昌降於勒。石瞻攻陷晉兗州刺史檀斌于鄒山,死之。勒西夷中郎將王勝襲殺并州刺史崔琨、上黨內史王眘,以并州叛于勒。先是,石季龍攻劉曜將劉岳于石梁,至是,石梁潰,執岳送襄國。季龍又攻王勝于并州,殺之。李矩以劉岳之敗也,懼,自滎陽遁歸。矩長史崔宣率矩眾二千降于勒。於是盡有司兗之地,徐豫濱淮諸郡縣皆降之。


晋書・載記によると、
後趙石瞻が鄒山を攻め落として東晋の兗州刺史檀斌を戦死させ、并州の乱を平定したり、石虎前趙劉岳を洛陽付近を破ったりするうちに司州・兗州を全制圧、徐州・豫州の諸郡県も相次いで降るようになりました。強敵の劉岳を含む西・南の複数方面で並行して勝利をおさめており、後趙に勢いがありますね。


さあ、本題は後趙石良石瞻に殺された兗州刺史の檀贇檀斌
(名前がどちらも違うというのは珍しいパターン)

『資治通鑑』巻九十三、晋紀十五、太寧三年
夏,四月,後趙將石瞻攻兗州刺史檀斌于鄒山,殺之。

資治通鑑では載記の石瞻檀斌を殺したという話を採っているので、とりあえず檀斌でいきます。

この檀斌とは何者なのでしょうか。正史では出落ちですが、実は重要人物かもしれません。

まず、檀氏といえば兗州(山陽→)高平の一族。後に檀道済らを出す集団であり、後漢でも既にいました。

『晋書』巻六、明帝紀、太寧二年
二年春正月丁丑,帝臨朝,停饗宴之禮,懸而不樂。庚辰,赦五歲刑以下。術人李脫造妖書惑眾,斬于建康市。石勒將石季龍寇兗州,刺史劉遐自彭城退保泗口。


『晋書』巻六、明帝紀、太寧二年
六月,敦將舉兵內向,(中略)丁卯,加司徒王導大都督、假節,領揚州刺史,(中略)以尚書令郗鑒行衞將軍、都督從駕諸軍事,(中略)徵平北將軍、徐州刺史王邃,平西將軍、豫州刺史祖約,北中郎將、兗州刺史劉遐,奮武將軍、臨淮太守蘇峻,奮威將軍、廣陵太守陶瞻等還衞京師。帝次於中堂。


『晋書』巻八十一、劉遐伝
太寧初,自彭城移屯泗口。王含反,遐與蘇峻俱赴京都。含敗,隨丹陽尹溫嶠追含至於淮南,遐頗放兵虜掠。嶠曰:「天道助順,故王含剿絕,不可因亂為亂也。」遐深自陳而拜謝。事平,以功封泉陵公,遷散騎常侍、監淮北軍事、北中郎將、徐州刺史、假節,代王邃鎮淮陰。


その前年(324年)、兗州刺史の劉遐後趙石虎に圧迫されて彭城から泗口に後退しており、さらにまもなく王敦の乱(第二次)に対応するために劉遐などの対北前線の長官達が首都に呼び戻され、国内で戦っています。劉遐は続けて徐州刺史に転任し、淮陰に駐屯。

よって檀斌はおそらく劉遐の後任でしょう。

ところで檀斌が居た鄒山は劉遐時代の駐屯地よりも北上しています。
檀斌の奮戦により北上したのでしょうか。

『晋書』巻六、元帝紀、永昌元年
秋七月,王敦自加兗州刺史郗鑒為安北將軍。石勒將石季龍攻陷太山,執守將徐龕。兗州刺史郗鑒自鄒山退守合肥。

実は鄒山は東晋が最初に兗州刺史を置いた時の拠点でした。
元々は、兗州人の郗鑒の集団が独自に守っていた場所であり、それを東晋が自陣営に引き入れたというわけですね。
郗鑒後趙の圧迫が強まると南に移動し、まもなく東晋の首都に召喚されると劉遐と交代しました。
この劉遐は冀州の集団を率いて後趙と戦っていたものが、やはり南に移って東晋の前線指揮官に起用されたという人物でした。

そこから思うに、檀斌もまた兗州で手勢を持っていた人物ではないでしょうか。
それを東晋が兗州刺史として引き入れ、現地の鄒山を守らせたものの、やはり強大な後趙には勝てなかったと。
そして一帯の著名な檀氏となると、やはり高平の檀氏だったと思われます。

檀斌の死後、郗鑒がまた兗州刺史となりますが、長江沿いの広陵を拠点としており(北府の原型)、「本来の兗州一帯」は当分の間、東晋の手を離れることになりました。

タグ:東晋 後趙

色白の劉曜

『太平御覧』巻三百七十、人事部十一、手
『幽明録』
石勒問佛圖澄:「劉曜可擒,兆可見不?」澄令童子齊七日,取麻油掌中研之,燎旃檀而咒。有頃,舉手向童子,掌內粲然有異。澄問:「有所見不?」曰:「惟見一軍人,長大白晳,以朱絲縛其肘。」澄曰:「此即也。」其年果生擒曜。


石勒仏図澄劉曜を捕らえられるか尋ねたところ、仏図澄は童子に七日間斎させ、奇跡の力で劉曜を捕らえる予言を示したということがありました。
この時、童子は「長大白晳」の軍人が縛られているものが見えたと答え、仏図澄がこれが劉曜であると述べました。

九尺を超える劉曜は確かに「長大」ですが、「白晳」というのは新たな情報でしょう。「眉白」はありました。
劉曜は色白?
また、「白晳」は美男美女にしばしば使われる表現でもあり、劉曜もそうだったのでしょうか。

ちなみにで書かれた『幽明録』とで書かれた『晋書』では少し書き方が違いますね。

『晋書』巻九十五、芸術伝、仏図澄
及曜自攻洛陽,勒將救之,其羣下咸諫以為不可。勒以訪澄,澄曰:「相輪鈴音云:『秀支替戾岡,僕谷劬禿當。』此羯語也。秀支,軍也。替戾岡,出也。僕谷,劉曜胡位也。劬禿當,捉也。此言軍出捉得曜也。」又令一童子潔齋七日,取麻油合胭脂,躬自研於掌中,舉手示童子,粲然有輝。童子驚曰:「有軍馬甚眾,見一人長大白晳,以朱絲縛其肘。」澄曰:「此即曜也。」勒甚悅,遂赴洛距曜,生擒之。


これの訳文はこちらを御覧ください。

五胡十六国の歴史を語るブログ
「五胡十六国時代の怪異譚10」



タグ:前趙 後趙

徐統の予言2

『晋書』巻一百十三、苻堅載記上
高平徐統有知人之鑒,遇堅於路,異之,執其手曰:「苻郎,此官之御街,小兒敢戲於此,不畏司隸縛邪?」堅曰:「司隸縛罪人,不縛小兒戲也。」統謂左右曰:「此兒有霸王之相。」左右怪之,統曰:「非爾所及也。」後又遇之,統下車屏人,密謂之曰:「苻郎骨相不恒,後當大貴,但僕不見,如何!」堅曰:「誠如公言,不敢忘德。」

ここの記述、よくよく考えるとツッコミどころがあります。

この時はまだ蒲姓のはずなので、苻堅を「苻郎」と呼んでいるのは一体?
まさか苻氏への改姓まで予見していた?

『太平御覧』巻一百二十二、偏霸部六、前秦苻堅
崔鴻『十六国春秋・前秦録』
趙右光祿大夫司隸校尉高平徐統有知人之鑒,遇堅於路,異之,執其手曰:「符郎,此官之御街,小兒敢戲!」統顧左右曰:「此兒有霸王之相。」后復遇之,統下車謂曰:「符郎當大貴,但僕不及見,如何?」堅曰:「若如公言,不敢忘德。」

十六国春秋でも同様。

『太平御覧』巻三百八十二、人事部二十三、醜丈夫
車頻『秦書』
苻堅六歲戲于路,司隸徐統見而异焉。而問曰:「苻郎,此官街,小兒戲不畏縛耶?」答曰:「吏縛犯事者,不縛小兒戲。」統語左右曰:「此兒有王霸相。」左右曰:「此兒狀貌甚醜,而君以爲相貴异,何也?」曰:「非爾等所知也。」

最も古そうな『秦書』でも「苻郎」。

タグ:前秦 後趙

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