李特兄弟の前半生1

『晋書』巻一百二十、李特載記
特少仕州郡,見異當時,身長八尺,雄武善騎射,沈毅有大度。

李特は若くして州や郡に仕えました。
当時の李特は既に略陽郡・臨渭県の人なので、雍州(又は秦州)や略陽郡(なら広魏郡)に属する仕事に就いたのでしょう。

『晋書』巻一百二十、李特載記
特父慕為東羌獵將。

さて、父の李慕は「東羌猟将」となりました。謎の官位ですが、四男の李流の記録から薄っすらと予想がつきます。

『晋書』巻一百二十、李流載記
李流字玄通,特第四弟也。少好學,便弓馬,東羌校尉何攀稱流有賁育之勇,舉為東羌督。

248年生まれの李流西晋の東羌校尉何攀に評価され、「東羌督」に推挙されました。

東羌校尉は末の鄧艾が就任して以来、隴右の軍官として置かれ、秦州刺史の杜預が兼ねたり、恵帝の前期で馬隆何攀孟観が就任したりしています。
何攀が東羌校尉だったのは290年代前半。李流は40代で東羌校尉が管轄する東羌督に就任したものと思われます。

李慕の東羌猟将も東羌校尉が関わる官職でしょう。鄧艾が拝命したものが最初の東羌校尉なら、255年以降となります。
(旧来の「東羌」はおおよそ「安定郡の北や東の羌族」を指しているので、略陽の彼らが関わるなら隴右/秦州に置かれた「東羌校尉」絡みでしょう)


李特に話を戻すと「少仕州郡」なので、時期は10代か20代、ギリギリ30代から?
李特の生年は不明ですが、おそらく230年代か240年代前半。
よって州郡で働いたのは、生年と出仕が早い組み合わせなら240年代後半、遅い組み合わせなら280年頃ですが、李慕のことを考慮しますと、早くても250年代後半ではないでしょうか。
(仮に241年生まれで25歳出仕なら、265年に出仕)

出仕が早い場合は、鄧艾による隴右の立て直しや蜀漢との戦いに関与できるタイミング。
遅ければ西晋の秦州分離や「樹機能の乱」による西部の混乱の中で州郡に仕えることになります。
その後が、隴右が一段落ついてから「斉万年の乱」で再び荒れるまでの間の時期。

また、李特は274年までに息子が3人生まれ、288年までに4人以上の孫ができました。


李特の一族は西晋に仕え、住んでいた隴右の動乱を乗り越え、子孫にも恵まれました。
本来ならそのまま一生を終えるはずでしたが・・・。

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李特5兄弟の年齢

李輔李特李庠李流李驤の5兄弟の生年はいつでしょうか。

没年・享年から計算して生年が割り出せる親族は以下の通り。
三男李庠が247年生まれ。
四男李流が248年生まれ。

次男李特の三男李雄が274年生まれ。
五男李驤の子の李寿が300年生まれ。

次男李特の次男李蕩の四男の李班が288年生まれ。
次男李特の三男李雄の四男の李期が314年生まれ。


まず、五男の李驤の生年は248年以降であり、250年代生まれの可能性が高いでしょう。この場合は、李寿李驤が40代の時の子供。
これより後なら四男と五男の年齢差が12歳を超えてしまいます。ただ、260年代までなら22歳差で異母兄弟ならありえる範囲。
ただ、李驤李特称制の時に驍騎将軍として兄弟や甥よりも(魏晋の制度で)明らかに格下の将軍号を授かっており、けっこう若手だったと考えられる材料はあります。


次に李輔李特の生年は247年以前。
(よって李特が28歳以上の時に三男の李雄が誕生)

「李蕩の生年」で、李特の次男である李蕩の生年は260年代後半から270年前後の可能性が高いと推定しました。
また、李蕩李雄の母であり、李特の妻である羅氏は250年代生まれでないと厳しい逸話があることも述べました。

李輔李特は共に303年まで戦場に出ています。
当時80歳以下なら生年は224年~247年の間。
当時65歳以下なら生年は239年~247年の間。

もし李特の生年を231年とすると、次男李蕩が30代後半頃に生まれ、三男李雄が45歳の時に生まれ、71歳~73歳の時に益州で戦ったことになります。
もし李特の生年を241年とすると、次男李蕩が20代後半頃に生まれ、三男李雄が35歳の時に生まれ、61歳~63歳の時に益州で戦ったことになります。
(参考として、李雄はその四男の李期より40歳年長)

李特の生年は241年±5年の236年~246年の間ぐらいで、李輔はその数歳~10歳ぐらい年長なら高齢過ぎないでしょう。
この場合、李特羅氏(おそらく後妻)より5歳~20歳ぐらい年長ですね。


生年をちょっと若めに想定すると、
長男の李輔が240年前後生まれ?
次男の李特が240年代前半生まれ?
三男の李庠が247年生まれ。
四男の李流が248年生まれ。
五男の李驤が250年代生まれ?

上限下限はここから10歳広げたぐらいでしょう。

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李蕩の生年

李特の次男の李蕩李雄の同母兄であり、成漢2代目君主となった李班の父でした。
この李蕩は、没年はわかりますが享年の情報が無く、生年不詳です。

算出可能な生年のある親族から絞り込んでみましょう。

まず、同母弟の李雄が274年生まれ。
(14ヶ月して誕生という聖人じみた逸話があります)
李蕩の生年は最も近くて同年(の春)ですが、普通に考えて前年以前の可能性が高いでしょう。

彼らの年齢差は同母兄弟なので余り大きくはないでしょう。
仮に李蕩は「同母弟李雄との年齢差が14歳以内」とすると、生年は260年~273年の間。

次に、李蕩の四男の李班が288年生まれです。
上記の仮定ならば、李蕩李班父子の年齢差は、15歳~28歳の間。
しかし李班の上に3人の兄がいることを思えば、父の李蕩の生年の下限はもっと早い可能性が高いでしょう。
(仮に李班より長兄の李琀が3歳年長とし、父がその15歳以上年長とすると、李蕩の生年は270年以前)

最後に、生母の羅氏が303年に鎧を着て自ら(負傷しながらも)戦っており、その時に高齢過ぎないはず。
例えば当時55歳以下なら生年は249年以降となり、それで初産が数え年15歳以降なら李蕩の誕生は263年以降でしょう。


生年が264年以前なら、同母弟との年齢差が11歳以上となり、母が50代後半以上で重装で戦ったことになります。
生年が272年以降なら、数え年17歳(満年齢で15歳か16歳)以下で4人以上の子供がいたことになります。


以上を考慮しますと、李蕩の生年は260年代後半から270年前後の可能性が高いでしょう。

例えば、李蕩が同母弟の李雄の5歳年長とすると、生年は269年、20歳の時に四男が生まれ、32歳~34歳の時に益州で奮戦。そして母の羅氏は250年代前半ぐらいが生年で、10代後半で李蕩、20代前半で李雄を産み、50歳前後で戦闘にも参加。
だいたい、そんなところでしょうね。

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李蕩・李雄兄弟の誕生

李特の妻の羅氏は次男の李蕩と三男の李雄を生みましたが、それぞれ妊娠した時に夢を見ました。

『晋書』巻一百二十一、李雄載記
李雄字仲儁,特第三子也。母羅氏,夢雙虹自門升天,一虹中斷,既而生蕩。後羅氏因汲水,忽然如寐,又夢大蛇繞其身,遂有孕,十四月而生雄。常言吾二子若有先亡,在者必大貴。

(訳文は「いつか読みたい晋書訳」などをご覧ください)
そして片方が死んだら、生き残ったもう片方が大成する、と羅氏は常々言っていました。
どうにも苛烈な予言ですね。彼女がその20年以上後に鎧を着て負傷しながらも戦い続けたような、いわゆる女傑ゆえなのでしょうか。

『華陽国志』巻九、李特志
特長子蕩,字仲平,好學,有容觀。少子雄,字仲雋。初,特妻羅氏夢雙虹自門升天,一虹中斷。羅曰:「吾二兒,若有先亡,在者必大貴。」

『晋書』巻一百二十一、李雄載記
雄身長八尺三寸,美容貌。少以烈氣聞,每周旋鄉里,識達之士皆器重之。

『晋書』巻一百二十、李特載記
於是特自稱使持節、大都督、鎮北大將軍,承制封拜一依竇融在河西故事。兄輔為驃騎將軍,弟驤為驍騎將軍,長子始為武威將軍,次子蕩為鎮軍將軍,少子雄為前將軍,(中略)
山道至狹,唯可一二人行,軍不得前,謂其司馬王辛曰:「父在深寇之中,是我死日也。」乃衣重鎧,持長矛,大呼直前,推鋒必死,殺十餘人。


兄の李蕩は字を仲平といい、学問を好み、容姿や振る舞いが優れていました。また、後の記述を見るとけっこう武闘派です。(父を救うために自ら重鎧を着て長矛を持って突撃し、10人余りを討ち取ったり)
父が八尺あり、同母弟がさらに高いので、彼も長身だった可能性があります。

弟の李雄は字を仲儁といい、身長は八尺三寸(約2m)、容貌は美しく、若くして「烈気」との評判があり、故郷の識者達から評価されていました。
若くして「烈気」との評判は、最も早く台頭した叔父の李庠と同じであり、三国志では「師を侮辱した者を殺した夏侯惇」が同様の評価を得ています。
(2メートルの烈士とはインパクトがあります)

名前と字は、「蕩平」と「雄儁」の熟語ですね。


なお、字が共に「仲」から始まりますが、屠本の十六国春秋(の典拠不明な情報)によると「異母兄の李始の字が伯起」であり、母の違いで分けた可能性があります。
それと華陽国志では李蕩が「長子」とありますが、これは「羅氏の子として長男」という意味か、羅氏の方が格が高いなどの理由で李始が庶子扱いされたためと考えられるでしょう。
(羅姓は成漢の歴史で李姓に次いで多く見られ、特に重要な一族だったと思われます)

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李特5兄弟

略陽に移住した李虎の子の李慕には5人の息子がいました。

『太平御覧』巻一百二十三、偏霸部七、蜀李特
崔鴻『十六国春秋・蜀録』
及魏武克漢中,特祖父虎歸魏,魏武嘉之,遷略陽,拜虎等為將軍。(中略)虎子慕為東羌獵將,慕凡有五子:輔、特、庠、流、驤。特身長八尺,雄武善騎射,沉毅有大度。

『華陽国志』巻九、李特志
李特,字玄休,略陽臨渭人也。(中略)特父慕,為東羌獵將。特兄弟五人:長兄輔,字玄政。次特。特弟庠,字玄序。庠弟流,字玄通。流弟驤,字玄龍。皆銳驍有武幹。


長男:李輔、字は玄政。
次男:李特、字は玄休。
三男:李庠、字は玄序。
四男:李流、字は玄通。
五男:李驤、字は玄龍。

5兄弟の字は全て「玄」が含まれています。
「玄」を兄弟で共有するのは様々な時代で見られますが、「玄」は道教に縁深い文字であり、彼らは元は道教系の五斗米道の影響を受けていた集団だったことから、何か関係があったら面白いですね。

また名前と字は「輔政」「庠序」「流通」「龍驤」という熟語になるように付けられています。そこは漢人と変わりませんね。
ただ、李特だけ熟語が分かりません。「特休」?特別休暇?
私が浅学なだけかもしれませんが、実は「休牛」の組み合わせで元の名前が「李牛」であり、どこかで「牛」を「特」に改名した、と考えても面白そうです。


兄弟揃って驍勇鋭敏で武事の才幹を備えており、さらに李特李庠李流の3人には騎射や弓馬に優れていたという記述もあります。(残り2人も同様だった可能性もあります)
そして李特が「身長八尺」(約190センチ)なので他の兄弟も大柄だったかもしれませんね。

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