陳慶之vs東魏9

まとめ。

まず、陳慶之東魏の戦いにおいて両陣営とも撃退したとかどこかを攻め落としたとか記録がありますが、「の司州と東魏の豫州の間の地域」は結局ほとんど変動しておらず、明記されていませんが奪われた場所も取り返したことになります。
結果的に両国は拮抗。陳慶之の戦績は「勝ったり負けたり」となるでしょう。
まあ、何人もの刺史や行台が投入された東魏の方が力を入れていたとはみなせますので、それと「勝ったり負けたり」できた陳慶之は十分優秀だったと言えるでしょう。



詳細になると、様々な解釈ができます。
そもそも陳慶之が中大通二年(530年)に南北司二州刺史となったかどうかという問題があります。
次に「懸瓠包囲」が何度あったか複数の解釈ができ、それに続く「溱水の勝利」「楚城の孫騰堯雄らの撃破」も一連の戦いか別の出来事か異なる解釈ができます。

535年2月、堯雄が司州刺史陳慶之と郢州刺史田朴特らの侵攻を撃退。
536年5月、堯雄の白苟堆攻略。同時に陳慶之の南荊州包囲を頓挫させました。
536年10月、侯景堯雄の楚城攻略。これを陳慶之が撃退。
時期がはっきりと記録された出来事はこの3つですが、「陳慶之撃退」の経緯や「白苟堆攻略」の時期については列伝の記述と齟齬が生じるため、別の解釈も可能でしょう。

陳慶之の内政の時期も列伝そのままに受け取ると、東魏との攻防が続いていた時期に兵民休養と生産増大政策が実施されたことになってしまいます。(両立は難しいのでは?)

他に「南荊州の位置」の問題や「賀抜勝の帰国」「諸蛮の離反」「講和」なども関連する/しないの解釈が分かれる出来事でしょう。

史書に明言されていない展開(仮説・妄想)も含めますと、さらにバリエーションは増加。





お好きな組み合わせをお試しください(一部矛盾するものがあります)

南司州刺史(南荊州刺史李愍が破った任思祖を巡る問題):
[南司-1]533年頃に北魏に敗れた任思祖は南司州刺史ではない
[南司-2]533年頃の南司州刺史は任思祖
[南司-3]533年頃の南司州刺史は任思祖北魏に捕まる

陳慶之の司州着任(陳慶之の「南北司二州刺史」着任時期を巡る問題):
[司州-1]中大通二年(530年)に南北司二州刺史となる(列伝)
[司州-2]中大通二年に北司州刺史となり、後に南司州を兼ねる
[司州-3]中大通五年(533年)か六年(534年)に南北司二州刺史となる

最初の懸瓠包囲(懸瓠包囲の時期・回数を巡る問題):
[懸瓠-1]530年~534年の北魏
[懸瓠-2]535年2月に堯雄に撃退された戦い

溱水の戦い(溱水の戦いの時期・回数を巡る問題):
[溱水-1]最初の懸瓠包囲に続けて(懸瓠包囲は1~3回)
[溱水-2]2度目の懸瓠包囲に続けて(懸瓠包囲は2~3回)
[溱水-3]3度目の懸瓠包囲に続けて(懸瓠包囲は3回)

楚城の孫騰堯雄撃破(楚城の孫騰らの撃破を巡る問題):
[楚城-1]535年2月過ぎ、懸瓠から撤退したすぐ後
[楚城-2]535年5月~年末過ぎ
[楚城-3]536年の9月以前
[楚城-4]535年2月過ぎ、「孫騰侯進」ではなく「侯景高昂

白水蛮の離反(新蔡懸瓠の白水蛮の離反の時期を巡る問題):
[白水-1]530年~534年の北魏
[白水-2]535年2月に堯雄に撃退された戦い
[白水-3]535年3月以降

北朝の南荊州(528年に陥落した安昌を巡る問題):
[南荊-1]従来の安昌を回復。東魏に帰属し、537年~538年に西魏が制圧
[南荊-2]従来の安昌を回復。東魏に帰属し、536年頃にが制圧
[南荊-3]安昌より北に南荊州を設置(候補は東荊州の付近)

白苟堆攻略(堯雄の白苟堆攻略時期を巡る問題):
[白苟-1]536年5月に堯雄が白苟堆を攻め落とす
[白苟-2]535年2月~6月に堯雄が白苟堆を攻め落とす(列伝の時系列)

陳慶之の内政(兵民休養と生産増大政策の時期を巡る問題):
[内政-1]530年~534年の北魏
[内政-2]535年に楚城で東魏を撃破した後
[内政-3]537年以降、講和後


この組み合わせによっては、陳慶之が司州刺史となった背景、懸瓠包囲が失敗した理由や回数、南荊州包囲の展開などさらに考えを発展させられます。

ちなみに資治通鑑は[司州-1][懸瓠-1][溱水-1][内政-1]の組み合わせで、「楚城の孫騰堯雄撃破」の時期が不正確。他は触れていませんね。

タグ: 東魏

陳慶之vs東魏8

「陳慶之vs東魏7」の続き。「懸瓠・溱水・楚城の戦い」について。

懸瓠に関する戦いについてもう一つ南朝側の記録があります。

『陳書』巻八、周文育伝
司州刺史陳慶之與薈同郡,素相善,啟薈為前軍軍主。慶之使薈將五百人往新蔡懸瓠,慰勞白水蠻,蠻謀執薈以入魏,事覺,薈與文育拒之。時賊徒甚盛,一日之中戰數十合,文育前鋒陷陣,勇冠軍中。薈於陣戰死,文育馳取其尸,賊不敢逼。及夕,各引去。文育身被九創,創愈,辭請還葬,慶之壯其節,厚加賵遺而遣之。

陳慶之の前軍軍主の周薈が兵500を率いて新蔡・懸瓠に向かい、白水蛮を慰撫しようとしたところ、蛮が周薈を捕らえて「魏」に附こうとしたので、周薈周文育父子が応戦し、周文育は奮戦して非凡な武勇を発揮したものの、周薈は戦死してしまったということがありました。
新蔡・懸瓠の近くに「白水」と蛮?
白が付く地名は「白苟堆」などいくつか近辺にありますが、蛮が関わるにはやや北に寄った地域ですね。

『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
(天平二年)二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。

「郢州刺史の田朴特」は蛮関係者の可能性があり、一緒になって攻め込んだところ新蔡から懸瓠の間で離反したので監視役だった周薈が戦死することになったとか?
北魏の南荊州の南部に白水(西に流れて沔水に合流)があり、南荊州の一帯には大陽蛮(桓氏や田氏)が居ました。場所は、「陳慶之と豫州」で述べた北郢州の西。
北郢州付近の白水蛮を田朴特が率いていてもおかしくはないでしょう。

よって、周薈が戦死したのは535年の懸瓠(豫州)攻撃に関するものと推定できるような材料はありますね。
懸瓠包囲<1度>説なら一時は優勢だったはずの陳慶之が撤退に追い込まれたことになりますが、その理由が堯雄の奮戦とこの白水蛮の反乱とこじつけることができますね。


懸瓠包囲の後に行われた楚城の戦いでは「行台孫騰」も撃破しています。
参謀や文官の役割の多い孫騰が行台として前線に出るのは珍しいこと。

『北斉書』巻十八、孫騰伝
天平初,入為尚書左僕射,內外之事,騰咸知之,兼司空、尚書令。時西魏遣將寇南兗,詔騰為南道行臺,率諸將討之。騰性尫怯,無威略,失利而還。又除司徒。

孫騰伝では西魏の将が南兗に侵攻した際に「南道行台」に任じられて諸将を率いて討伐したものの、軍事の適性がなく負けて帰った、とあります。
西魏の侵攻があるのは537年の「沙苑の戦い」の大勝に乗じた攻勢の時。

孫騰はこれ以外にも行台となって陳慶之と戦っていたということなのでしょうか。陳慶之に敗れ、また西魏にも敗れるという散々な結果?
それとも相手が「西魏」ではなく、同じ一つの出来事を指しているのでしょうか。

『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平元年
閏月,蕭衍以元慶和為鎮北將軍、魏王,入據平瀨鄉。


『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
二年正月,衍將湛僧珍寇南兗州,州軍擊破之。行臺元晏又破湛僧珍等於項城,虜其刺史楊㬓。二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
五月,魏加丞相泰柱國。
元慶和引兵逼東魏南兗州,東魏洛州刺史韓賢拒之。
六月,慶和攻南頓,豫州刺史堯雄破之。
秋,七月,(中略)東魏遣行臺元晏擊元慶和。

534年末から535年中にかけての北伐があり、そこで元慶和が魏王に立てられ総大将となり、何度も南兗州に侵攻しては東魏が複数の行台を投入して防衛・撃退していました。
南道行台の孫騰が混ざっても違和感のない状況。

「東南道行台」の元晏が項城、任祥が徐州に出ており、「南道行台」がさらに西の豫州に向かうのは妥当でしょう。
また、「南兗州」ではなく「南兗」とありますが、これは「南頓」や「南境」の間違いでそもそも西寄りにも攻撃が来たので孫騰が派遣されたというパターンかもしれません。


陳慶之が534年末か535年に東魏に侵攻したならばそれは「元慶和の北伐」と連動したものです。
そして堯雄は豫州の東の南頓方面で2月以前と6月に戦っており、豫州の治所の懸瓠から間違いなく何度か離れていました。
陳昕が活躍した懸瓠包囲はまさにその時の出来事なのでしょう。堯雄が離れていた可能性があるのは「534年末~535年2月」か「6月前後」なのでどちらかが該当するはず。


そして孫騰堯雄陳慶之が楚城でぶつかったのは、最も早くて2月の陳慶之撃退直後。
(それ以前では孫騰堯雄陳慶之と楚城で戦っている場合ではありません)
最も遅くて、「侯景の南征(楚城攻撃)」の前。
(それ以降は和議や複数の列伝の記述と齟齬が生じます)

早いパターンなら、陳慶之を撃退した勢いに乗って侵攻したものの失敗。そもそも孫騰諸軍の到来が陳慶之を追い払った要因かもしれません。
6月前後でも同じようなものですが、対元慶和戦が佳境に入っているので、陳慶之への牽制の意味合いが強くなるのでは?
535年末~536年初なら、むしろに対する反撃(逆侵攻)であり、それを凌いだ陳慶之が南荊州という次の手を打ったとも考えることができるでしょう。
それより少し後なら、南荊州の援軍と失敗。
最も遅いパターンなら、堯雄により南荊州を救い白苟堆を陥落させたものの、楚城への追加攻撃は勝てず、それが次の「侯景の南征」の要因となったという筋書きができますね。

陳慶之の列伝では「侯景の南征」の時期(年)を指定しており、その前年以前とするのが無難でしょうね。



『梁書』巻三十二、陳慶之伝
又破行臺孫騰、大都督侯進、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。


『魏書』巻八十、賀抜勝伝
時獻武王已遣行臺侯景、大都督高敖曹討之,勝戰敗,為流矢所中,乃率左右五百餘騎奔蕭衍。

なお、陳慶之が撃破した相手は「行臺孫騰、大都督侯進」とありますが、534年秋~冬に荊州の賀抜勝を討った者達が「行臺侯景、大都督高敖曹」とあることから、「孫騰侯進」は何かの間違いで実は「侯景高昂」を破ったという仮説もできるでしょう。
彼ら2人とも535年1月時点でまた荊州の独孤信を討っており、それが引き返して堯雄と共に楚城・陳慶之を攻撃したというのは「全く無理のない展開」です。
ただ、この人選は筋の通っているものの、記録上の名前と乖離が激しく、強く主張できないのが難点ですね。
タグ: 東魏

陳慶之vs東魏7

陳慶之東魏の戦いの中で「懸瓠・溱水・楚城の戦い」が一番詳細不明です。
確かに「何をやったか」は載っていますが、時期や背景、そして結果などがよくわかりません。

『梁書』巻三十二、陳慶之伝
中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。慶之至鎮,遂圍懸瓠。破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是云寶於溱水,又破行臺孫騰、大都督侯進、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。

内容は「懸瓠を包囲」、「溱水で潁州刺史婁起と揚州刺史是云宝を撃破」、「楚城で行台孫騰・大都督侯進・豫州刺史堯雄・梁州刺史司馬恭を撃破」の3段階。

まず戦場が懸瓠→溱水→楚城と後退しています。
一方で相手不明、刺史2人、行台・都督・刺史2人と段々相手が強化されています。

最初の包囲の結果(制圧したかどうか)が書かれずに溱水の戦いの記述に移っており、懸瓠の包囲は失敗しましたが後退した場所で敵を撃破する戦果はあったとしても別に問題はないでしょう。
そして次の楚城の戦いは「又」を挟んでおり、多少(例えば1年)の期間が間にあったとしてもおかしくないでしょう。

楚城の戦いは間違いなく東魏成立後。
懸瓠~溱水の戦いはいつのことでしょうか。懸瓠(豫州)は陥落していないことから、いつの出来事としても陳慶之を防いだことには変わりなく、その栄誉ある戦果については535年2月の堯雄の戦いしか記録が見つかりませんね。
魏書の帝紀は、を破った記録を精力的に載せているので「書き漏らし」説も手軽に採用しにくい結論。
賀抜勝の南征のような)敵対者の功績や混乱している時期の出来事、そして北魏東魏に不名誉な展開ならば抜けたり省かれたりすることはまだありうるでしょう。
例えば、陳慶之を防いだものの溱水で手酷く負けたので書かれなかったとか。

溱水の方の「陳慶之vs東魏6」で考察し、北魏末より東魏以降の方が可能性が高いとしました。
連続した出来事ならやはり東魏としたほうが分があるでしょう。


『梁書』巻三十二、陳慶之伝、陳昕
大同四年,為邵陵王常侍、文德主帥、右衞仗主,敕遣助防義陽。魏豫州刺史堯雄,北間驍將,兄子寶樂,特為敢勇。慶之圍懸瓠,雄來赴其難,寶樂求單騎校戰,昕躍馬直趣寶樂,雄即散潰,仍陷溱城。

陳慶之の五男の陳昕の列伝で大同四年(538年)以降に陳慶之が懸瓠を包囲したという戦いを載せています。
講和後に陳慶之東魏に攻め込むという非常識なことをやっていない限りは、不可能な展開。
「陳慶之、3度洛陽を落とす」でもネタにしましたが、陳昕の記録には「年」のミスが間違いなくあり、ここでも間違いがないとは言い切れません。

間違いならば、正しい組み合わせは「中大通四年」「大同元年」「大同二年」のいずれかが候補。

陳昕の記録によると、陳昕は義陽の防衛援助のために中央の命で派遣され、「陳慶之が懸瓠を包囲すると堯雄がやって来て」(堯雄の甥の)堯宝楽が単騎での戦いを挑んできたので陳昕が馬を走らせ攻めかかると、堯雄の軍勢は潰散し、「溱城を落とす」ことができました。
堯雄が州の治所の懸瓠を離れていたらしく、また懸瓠の包囲に続いて溱水付近で勝利したようです。
また、(懸瓠は落とせなかったようですが)堯雄の軍勢には勝利したとしています。

陳慶之陳昕の両方で示される懸瓠→溱水の戦いは同一のもの?特に分ける理由がないですね。
「散潰」させた割には懸瓠で堯雄を破ったという記述が陳慶之側にないのが気になりますが。陳昕の記述が盛っているか、堯雄がすぐに立て直したか結局陳慶之を撃破したので、特に書かれなかったのか。


溱水は東荊州の近くに水源があり、朗陵(安昌)と北宜春(真陽)・馬郷城(平陽)の間を抜けて懸瓠のすぐ南で汝水に合流します。
安昌はが一時期占領して陳州を置いた場所。真陽と平陽は東魏の郢州が置かれた場所。
陳慶之は元「陳州」を一時奪還していたか、相手の「郢州」を一時制圧していたのかもしれません。


それで結局、南朝側が述べる懸瓠の包囲(戦い)とは、535年2月までの戦いのことなのでしょうか。

『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平二年
(二月)戊戌,蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。


『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
(天平二年)二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
(二月)戊戌,司州刺史陳慶之伐東魏,與豫州刺史堯雄戰,不利而還。

堯雄伝は陳慶之を「敗」で「棄輜重走」。それ以外の魏書では「擊走」。資治通鑑の側視点では「不利」で「還」。
帝紀や島夷蕭衍伝で「破」「大破」という表現が使われておらず、指揮官や多くの兵士を捕らえたり討ち取ったりするという戦果はなく、北朝側から見ても撃破・撃退・追い返した程度の勝利だったのでしょう。勝ちは勝ちですが。

堯雄伝では「堯雄無双」のように書かれていますが、他の戦果が「生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾」や「擒梁鎮將苟元廣,兵二千人」や「大破慶和於南頓」と具体的だったり強い表現だったりするのに比べれば、結局「慶之敗,棄輜重走」というのは奮戦の割には手応えが少ない感じがしますね。

そして陳昕の記述で「雄即散潰」とあるのと整合性が取れるのかどうか。


以上から考えると、懸瓠包囲は1度、2度、3度のいずれか。
<1度>
陳慶之が懸瓠包囲、堯雄の来援、陳昕の奮戦で堯雄軍潰散、陳慶之が溱水で潁州刺史と揚州刺史に勝利、堯雄の奮戦で陳慶之を撃退。という流れ。
<2度>
(戦闘A)陳慶之が懸瓠包囲、堯雄が出撃、堯雄の奮戦で陳慶之を撃退。
(戦闘B)陳慶之が懸瓠包囲、堯雄の来援、陳昕の奮戦で堯雄軍潰散、陳慶之が溱水で潁州刺史と揚州刺史に勝利、陳慶之が撤退。
<3度>
(戦闘A)陳慶之が懸瓠包囲、堯雄が出撃、堯雄の奮戦で陳慶之を撃退。
(戦闘B)陳慶之が懸瓠包囲、陳慶之が溱水で潁州刺史と揚州刺史に勝利、陳慶之が撤退。
(戦闘C)陳慶之が懸瓠包囲、堯雄の来援、陳昕の奮戦で堯雄軍潰散、陳慶之が溱城を落とす、陳慶之が撤退。


タグ: 東魏

陳慶之vs東魏6

「溱水で潁州刺史婁起と揚州刺史是云宝を撃破」
今回はこれの時期について考察。

鍵は潁州刺史と揚州刺史。

『魏書』巻一百六、地理志中、潁州
潁州<孝昌四年置,武泰元年陷,武定七年復。>
領郡二十、縣四十
戶三千六百一、口一萬三千三百四十三
汝陰、弋陽二郡


『魏書』巻一百六、地理志中、揚州
揚州<後漢治歷陽,魏治壽春,後治建業。晉亂,置豫州,劉裕、蕭道成並同之。景明中改,孝昌中陷,武定中復。>
領郡十、縣二十一
梁郡<州治。>


陳慶之が赴任したとされる530年時点で潁州(汝陰など)と揚州(寿春など)は陥落しており、置かれたとすれば代替のもの。

『魏書』巻一百六、地理志中、鄭州
鄭州<天平初置潁州,治長社城。武定七年改治潁陰城。>


『魏書』巻一百六、地理志中、北揚州
北揚州<天平二年置。治項城。>

東魏で潁州が潁川郡長社、揚州が陳郡項城に設置されましたが、果たして北魏ではどうなのか明確な記録はなさそうです。
(隋書では「項城に東魏が揚州・丹陽郡・秣陵県を置き、が殷州とし、東魏がまた北揚州とした」とあり、侯景の離反前後で改称があったようです)

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。

潁州は東魏成立直後から、揚州は翌年から。(潁州は「天平」の年号に建元する前の534年中に設置された可能性もありますが)


<北魏>
鄭先護が「都督二豫東雍三州諸軍事・征東將軍・豫州刺史」「兼尚書右僕射・二豫郢潁四州行臺」
樊子鵠が「車騎大將軍・豫州刺史・假驃騎大將軍・都督二豫郢三州諸軍事・兼尚書右僕射・二豫郢潁四州行臺」
<東魏>
堯雄が「二豫揚郢四州都督・豫州刺史」
張亮が「平南將軍・梁州刺史・都督揚潁等十一州諸軍事・兼行臺殿中尚書」「都督二豫揚潁等八州軍事・征西大將軍・豫州刺史・尚書右僕射・西南道行臺」

とりあえず、北魏のこの時期(530年)に豫州の近くに郢州と潁州があり、東魏には揚州も近くにあったことは確認できますが、北魏の揚州は実態があったかどうか。

『魏書』巻八十、斛斯椿伝
尒朱世隆之立前廢帝也,椿參其謀,以定策功,拜侍中、驃騎大將軍、儀同三司、京畿北面大都督,改封城陽郡開國公,增邑五百戶,并前一千五百戶,尋加開府。時椿父敦先在秀容,忽有傳敦死問,請減己階以贈之,自襄威將軍超贈車騎將軍、恒州刺史。尋知其父猶在,詔復椿官,仍除其父為車騎將軍、揚州刺史。世隆之厚椿也如此。

翌年に斛斯椿の父の斛斯敦が「揚州刺史」となっていますが、いかにも名誉職です。

堯雄の担当が「二豫郢潁四州」ではなく「二豫揚郢四州」となっているので、530年頃の潁州は「東魏で揚州が置かれる項城」一帯にあったのかもしれません。
(項城は汝陰のちょうど上流にあり、近くには豫州ぐらいしかないので十分ありうる話でしょう)
郢州も義陽の元の州が陥落し、代わりに真陽県に置かれていました。真陽は懸瓠の南、溱水の東南。


ちなみに「二豫」は豫州と東豫州。

『資治通鑑』巻一百六十、梁紀十六、太清元年
(三月)庚辰,景又遣其行臺郎中丁和來,上表言:「臣與高澄有隙,請舉函谷以東,瑕丘以西,、廣、郢、荊、襄、兗、南兗、濟、東豫、洛、陽、北荊、北揚等十三州內附,惟青、徐數州,僅須折簡。且黃河以南,皆臣所職,易同反掌。若齊、宋一平,徐事燕、趙。」

(北)広陵城に置かれた東豫州は既に陥落していますが、どこか豫州の東南辺りに置いていたのでしょう。

よって東魏では、懸瓠の豫州を中心に、西南から南に郢州、東南に東豫州、東から東北に揚州、北に潁州、北西に広州、西から東荊州という位置関係だったと思われます。


話を戻しますと、潁州と揚州が併存したのは陥落前と東魏以降は確実ですが、その中間では曖昧でしょう。

『魏書』巻七十二、曹世表伝
後加征虜將軍,出行豫州刺史。值蕭衍將湛僧珍陷東豫州,州民劉獲、鄭辯反於州界,為之內應。朝廷以源子恭代世表為州,以世表為東南道行臺,率元安平、元顯伯、皇甫鄧林等討之。(中略)世表時患背腫,乃輿病出外,呼統軍是云寶謂之曰:「(略)」乃簡選兵馬,付寶討之。促令發軍,日暮出城,比曉兵合。賊不意官軍卒至,一戰破獲,諸賊悉平,湛僧珍退走。


是云宝は527年に豫州に居るので、530年~534年の北魏末期の間に豫州の近くに居ても問題はありませんが、揚州刺史だったとすると問題があるのではないでしょうか。
この時期の刺史は高歓の一党だった者を除けば東魏で刺史として再起用されることはなく、東魏の揚州刺史だったという記録のある是云宝が以前に揚州刺史だったとすれば「孝武帝擁立前後か孝武帝出奔後の人事」によるものとすべきではないでしょうか。(高歓北魏の河南方鎮に強い影響力を発揮できた時期)

これも東魏成立後とした方が問題が少ないでしょう。


余談ですが、揚州・雍州・陽州は混ざることがあるので是云宝は「陽州刺史」だった可能性もあります。戦場からは遠いですが、潁州とは近く、合流・南下して陳慶之を討ったとすれば違和感はない流れ。ただ、この時期は李延孫の反乱があったりして陽州刺史を動かしている場合かどうか微妙ですが。

タグ: 北魏 東魏

東魏の堯雄

『魏書』巻四十二、堯暄伝
堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。
暄聰了,美容貌,為千人軍將、東宮吏。高宗以其恭謹,擢為中散。奉使齊州,檢平原鎮將及長史貪暴事,推情診理,皆得其實。除太尉中給事、兼北部曹事,後轉南部。太和中,遷南部尚書。于時始立三長,暄為東道十三州使,更比戶籍。賜獨車一乘,廐馬四匹。時蕭賾遣其將陳顯達寇邊,以暄為使持節、假中護軍、都督南征諸軍事、平陽公。軍次許昌,會陳顯達遁走,暄乃班師。暄前後從征及出使檢察三十餘許度,皆有克己奉公之稱。賞賜衣服二十具、綵絹十匹、細絹千餘段、奴婢十口,賜爵平陽伯。及改置百官,授太僕卿。車駕南征,加安南將軍。轉大司農卿。太和十九年,卒於平城。高祖為之舉哀。贈安北將軍、相州刺史,賻帛七百匹。
初,暄使徐州,見州城樓觀,嫌其華盛,乃令往往毀撤,由是後更損落。及高祖幸彭城,聞之曰:「暄猶可追斬。」
暄長子洪,襲爵。鎮北府錄事參軍。
子桀,字永壽。元象中,開府儀同三司、樂城縣開國公。
洪弟遵,伏波將軍、河州冠軍府長史、臨洮太守。卒,贈龍驤將軍,諡曰思。
遵弟榮,員外散騎侍郎。
子雄,字休武。元象中,儀同三司、豫州刺史、城平縣開國公。
雄弟奮,字彥舉。興和中,驃騎將軍、潁州刺史。
奮弟難宗,武定中,征西將軍、南岐州刺史、征羌縣開國伯。


堯雄は上党・長子の出身。東魏諸将の中では特に内地側の出身ですね。
高祖父は北魏道武帝後燕に侵攻した後から仕え、祖父の堯暄孝文帝の南征に従軍して最後は九卿に登ったという人物でした。
堯暄の長男の子の堯桀堯雄の従兄。
堯暄の子が堯雄堯奮堯難宗。4人とも東魏に仕えました。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
堯雄,字休武,上黨長子人也。祖暄,魏司農卿。父榮,員外侍郎。雄少驍果,善騎射,輕財重氣,為時輩所重。永安中,拜宣威將軍、給事中、持節慰勞恒燕朔三州大使。仍為都督,從叱列延討劉靈助,平之,拜鎮東將軍、燕州刺史,封城平縣伯,邑五百戶。
義旗初建,雄隨尒朱兆敗於廣阿,遂率所部據定州以歸高祖。時雄從兄傑,尒朱兆用為滄州刺史,至瀛州,知兆敗,亦遣使歸降。高祖以其兄弟俱有誠欵,便留傑行瀛州事。尋以雄為車騎大將軍、瀛州刺史以代傑,進爵為公,增邑五百戶。于時禁網疏闊,官司相與聚斂,唯雄義然後取,復能接下以寬恩,甚為吏民所懷附。

堯雄は当初は北魏孝荘帝に仕えて恒燕朔三州大使となり、(孝荘帝死後の)531年春に定州で劉霊助を討ち、燕州刺史となり城平県伯に封爵。この頃は洛陽以北、特に河北で活動していました。
劉霊助平定では堯雄は都督恒雲燕朔・山東行台の叱列延慶の下で参戦し、他に定州刺史侯淵が参加していました)
その夏に高歓が冀州で挙兵し、西南の広阿(殷州)を制圧。秋に并州から東進した爾朱兆が殷州を奪還し、冬に両軍が衝突。爾朱兆は号10万の大軍を率いましたが猜疑心により他の同族から支援が得られず、高歓に大破されました。
侯淵堯雄兄弟は爾朱兆側で参戦していましたが、ここで敗れると北隣の定州に戻って州ごと高歓に降伏。また従兄の堯桀も東隣の瀛州で高歓に帰順し、堯雄は瀛州刺史・城平県公とされます。
時に33歳。
彼らが冀州の北ごと高歓に降ったので、高歓がそのまま南下して爾朱氏らとの戦いに専念できたわけですから、大きな役割を果たしたといえるでしょう。

高歓は532年に爾朱氏を倒し、孝武帝を擁立して北魏で大権を掌握。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。

534年夏~秋に高歓孝武帝が決裂した際には、堯雄は瀛州刺史を離任していたものの并州刺史や相州刺史の軍勢と行動を共にする立場だったらしく、晋陽~鄴の辺りにいたようです。
秋に孝武帝が西の関中に逃れると高歓は洛陽を制圧して西にも対応しつつ、侯景高昂らに南の荊州刺史賀抜勝を討たせました。堯雄も三荊の平定に参加し、それから二豫揚郢四州都督・豫州刺史となります。
(豫州を拠点とし、南の東豫州、東?の揚州、南の郢州などに接する地域を管轄)
534年冬に東魏が成立。
そこから「独孤信の三荊平定2」で述べたように(豫州の北の)潁州の「元洪威の乱」で潁川で趙継宗が挙兵すると堯雄が討伐。
東魏初頭、豫州の西北にある洛陽南側の山岳地帯には西魏側につく勢力がおり、慕容紹宗らが討伐したものの滅ぼすことができていませんでした。また黄河以南はさらに東の地域にも反乱者が何度が発生しており、そこにの北伐が加わって不安定な情勢でした。

534年末に始まったの北伐。元慶和を擁して進められ、半年以上続きました。
李洪芝王当伯が平郷城を破って豫州に侵攻して来たところを堯雄が伏兵で一網打尽にしたというのは、その北伐軍との戦いの一貫でしょう。
平郷は南頓のすぐ西にある地名であり、豫州治所の懸瓠城の東北側。李洪芝らは項城(南頓の東隣の前線)を制圧した湛僧智らの先鋒だったのでしょう。
続いて陳慶之が州城に迫ると、堯雄は出撃して戦い「所向披靡」(向かう所敵なし/当たるを幸いなぎ倒す)のような奮戦で堯雄自身が2箇所負傷したものの勢いは凄まじく、陳慶之は敗れて輜重を捨てて逃走。
帝紀では535年2月21日に「蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。」とあり、この時のことでしょう。
そして元慶和を魏王として南境に侵攻すると、堯雄は軍を率いて元慶和を討ち、南頓で大破しました。帝紀では6月に「元慶和寇南豫州,刺史堯雄大破之。」とありますが、正しくは「元慶和寇南頓,豫州刺史堯雄大破之。」なのでしょう。
列伝ではこれらを一連の戦いの別個のように書いていますが、すべて「元慶和の北伐」に関するものですね。

この年の堯雄は「州城」、豫州治所の懸瓠城と南頓を短期間で往復して戦っていたようです。
時に36歳。(陳慶之は52歳)

また陳慶之が南荊州を包囲すると、堯雄は「の北面重鎮」である白苟堆が手薄であるとして攻撃をかけ、陳慶之に南荊州を諦めて白苟堆の救援に向かわせた上、536年5月に陥落させました。
(列伝の記述の位置は間違いでしょう)
そして冬の行台侯景の楚城(楚州)制圧にも参加。ただ、直後にこの軍は陳慶之に敗れ、輜重を捨てて逃走することになりました。
堯雄は転任するところを、豫州民が上書して刺史としての留任を求めたため、堯雄はまた行豫州事とされました。

この年の終わりから東魏の間で使者の往来と和議が始まります。そして翌年から西魏との戦いに突入。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。育,寶各還本州,據城降敵。雄收集散卒,保大梁。周文帝因延敬之敗,遣其右丞韋孝寬等攻豫州。雄都督郭丞伯、程多寶等舉豫州降敵,執刺史馮邕並家屬及部下妻子數千口,欲送之長安。至樂口,雄外兵參軍王恒伽、都督赫連儁等數十騎從大梁邀之,斬多寶,拔雄等家口還大梁。西魏以丞伯為潁川太守,雄仍與行臺侯景討之。雄別攻破樂口,擒丞伯。進討懸瓠,逐西魏刺史趙繼宗、韋孝寬等。復以雄行豫州事。西魏以是云寶為揚州刺史,據項城;義州刺史韓顯據南頓。雄復率眾攻之,一日拔其二城,擒顯及長史丘岳,寶遁走,獲其妻妾將吏二千人,皆傳送京師。加驃騎大將軍。仍隨侯景平魯陽,除豫州刺史。

537年春、西魏に侵攻した高歓の主力・竇泰が敗死。冬、高歓は再び攻め込みますが「沙苑の戦い」で大敗。西魏は逆侵攻し、独孤信らが洛陽を制圧。
そこへ潁州長史賀若統が潁州刺史田迅を捕らえて西魏に呼応。東魏は行台任祥堯雄・広州刺史趙育・揚州刺史是云宝らを率いさせて攻撃させますが、西魏怡峯らに敗れ、さらに趙育是云宝がそれぞれの州で西魏に寝返るという事態になります。(寡兵の宇文貴堯雄らが大敗し、さらに宇文貴怡峯任祥も撃破されたという流れ)
豫州もまた西魏韋孝寛が攻め込んでくると堯雄の配下の郭丞伯程多宝らが寝返って豫州刺史馮邕を捕らえて降伏。この時、堯雄は大梁(梁州、潁州の北)におり、まず部下に程多宝を討ち取らせると、次に行台侯景と共に攻めて潁州で郭丞伯を捕らえ、豫州から趙継宗韋孝寛を追い払い、是云宝らが占拠する項城・南頓も攻め落とし、魯陽の奪還にも参加してまた豫州刺史となりました。
豫州などの奪還は翌538年春のことで、行台任祥・大行台侯景・司徒高昂・大都督万俟受洛干などの大物が多数投入された作戦でした。
東魏は同年秋の「河橋の戦い」で勝利して西魏を追い返しますが高昂の死などの犠牲も大きく、さらには冬に洛陽が再奪還されてしまいます。堯雄はこの戦いには不参加のようですが、再占領した豫州一帯の押さえとして動かせなかったのではないでしょうか。

(ちなみに539年に陳慶之が死去)


『北斉書』巻二十、堯雄伝
雄雖武將,而性質寬厚,治民頗有誠信,為政去煩碎,舉大綱而已。撫養兵民,得其力用,在邊十年,屢有功績,豫人於今懷之。又愛人物,多所施與,賓客往來,禮遺甚厚,亦以此見稱。興和三年,徵還京師,尋領司、冀、瀛、定、齊、青、膠、兗、殷、滄十州士卒十萬人,巡行西南,分守險要。四年,卒於鄴,時年四十四。贈使持節、都督青徐膠三州軍事、大將軍、司徒公、徐州刺史,諡武恭。

堯雄は541年まで豫州を統治した後、首都・鄴に召喚されます。10州の兵10万を西南に配備し、542年に死去。享年44歳。
同年8月に侯景が河南道大行台となり、豫州を中心に河南の広範囲(13州)を管轄するようになりました。

その翌年に東魏はまた西魏の侵攻を受けたところ「邙山の戦い」で大破して洛陽一帯を回収。
そして数年後に侯景による3国を巻き込む大波乱が幕を開けることになります。

タグ:東魏 北魏 西魏 北斉 北周

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム