謝晦の一族と姻族

姻族といえばまず妻の一族ですが、謝晦の妻の曹氏についてはほとんど情報がありません。本籍さえも不明。

次の姻族は子の配偶者。

『宋書』巻四十四、謝晦伝
至江陵,深結侍中王華,冀以免禍。二女當配彭城王義康、新野侯義賓,元嘉二年,遣妻曹及長子世休送女還京邑。

娘を彭城王劉義康と新野侯劉義賓に嫁がせており、彼らがいわゆる娘婿に該当します。
ただ、その後まもなく謝晦は討伐・誅殺され、2人の娘は共に離縁されたと思われます。
息子の妻はもとより不明。(孫以下の世代も不在)

劉義康は武帝・劉裕の四男、劉義賓劉道鄰の五男。短期間で終わったとはいえ、の皇族が姻族となりました。


その次の姻族といえば、母の一族。直系でさらに次は祖母の一族です。

『宋書』巻四十四、謝晦伝
謝晦字宣明,陳郡陽夏人也。(中略)父重,會稽王道子驃騎長史。兄絢,高祖鎮軍長史,蚤卒。


『宋書』巻五十二、袁湛伝
初,陳郡謝重,王胡之外孫,於諸舅禮敬多闕。重子絢,湛之甥也,嘗於公座陵湛,湛正色謂曰:「汝便是兩世無渭陽之情。」絢有愧色。

謝晦の父の謝重は「王胡之の外孫」、謝晦の兄の謝絢は「袁湛の外甥」です。
つまり「謝晦の祖母」=「謝重の母」=「琅邪の王胡之の娘」。
そして「謝絢謝晦の嫡母」=「謝重の正妻」=「陳郡の袁湛の姉妹」。

王胡之は名門「琅邪王氏」主流の王導の血筋ではありませんが名族であることには変わりはなく、袁湛は名門「陳郡袁氏」の中でも特に長く栄えた系統にいました。


次は兄弟姉妹の配偶者。
謝晦の兄弟の妻の情報は見つかりませんが、2人の姉の相手の記録があります。

『宋書』巻六十、荀伯子伝
荀伯子,潁川潁陰人也。祖羨,驃騎將軍。父猗,祕書郎。(中略)
伯子為世子征虜功曹,國子博士。妻弟謝晦薦達之,入為尚書左丞,出補臨川內史。

まず、荀伯子の妻弟が謝晦。つまり謝晦の姉の夫が荀伯子

『世説新語』第二、言語
謝景重女適王孝伯兒,二門公甚相愛美。謝為太傅長史,被彈;王即取作長史,帶晉陵郡。


『世説新語』第二、言語、注
謝女譜曰「重女月鏡,適王恭子愔之。」

また、謝重の娘(謝月鏡)が王恭の子(王愔之)に嫁いでいました。(王恭一家が誅殺されたのは謝晦が9歳の時であり)よって謝晦の姉の夫が王恭の子でした。

荀伯子は、かつて大名門だった「潁川荀氏」の末裔。
王恭は名門「太原王氏」かつ外戚として重用された者。


他に影響のありそうな姻族となると、父の兄弟姉妹の配偶者が挙がるでしょう。

『宋書』巻五十六、謝瞻伝
謝瞻字宣遠,一名檐字通遠,陳郡陽夏人,衞將軍晦第三兄也。(中略)瞻幼孤,叔母劉撫養有恩紀,兄弟事之,同於至親。劉弟柳為吳郡,將姊俱行,瞻不能違,解職隨從,為柳建威長史。

謝晦の兄の謝瞻の叔母が劉氏であり、その劉氏の弟が劉柳でした。
つまり「謝晦の叔父の妻」=劉氏=「劉柳の姉」。

劉柳は歴史ある名門「南陽劉氏」の出身。


やはり一流の名門の姻族も名門ばかりですね。
(ただし、それぞれ正室は名門出身者ですが、息子が必ずしも正室の血を引いているとは限りません。側室の子供だったり、記録に残らなかった先妻・後妻の子の可能性もあるでしょう)

タグ:東晋 陳郡謝氏 潁川

三公と長安遷都3

『後漢書』巻九、献帝紀、初平元年
二月乙亥,太尉黃琬、司徒楊彪免。庚辰,董卓殺城門校尉伍瓊、督軍校尉周珌。以光祿勳趙謙為太尉,太僕王允為司徒。丁亥,遷都長安。董卓驅徙京師百姓悉西入關,自留屯畢圭苑。(中略)
三月乙巳,車駕入長安,幸未央宮。己酉,董卓焚洛陽宮廟及人家。戊午,董卓殺太傅袁隗、太僕袁基,夷其族。
夏五月,司空荀爽薨。六月辛丑,光祿大夫种拂為司空。

遷都に反対した太尉の黄琬と司徒の楊彪が免官となった後、光禄勲の趙謙が太尉、太僕の王允が司徒となります。
遷都に賛成した司空の荀爽は据え置き。

『後漢書』巻二十七、趙典伝、趙謙
謙字彥信,初平元年,代黃琬為太尉。獻帝遷都長安,以謙行車騎將軍,為前置。


『後漢書』巻二十七、王允伝
獻帝即位,拜太僕,再遷守尚書令。
初平元年,代楊彪為司徒,守尚書令如故。及董卓遷都關中,允悉收斂蘭臺、石室圖書秘緯要者以從。既至長安,皆分別條上。又集漢朝舊事所當施用者,一皆奏之。經籍具存,允有力焉。時董卓尚留洛陽,朝政大小,悉委之於允。

新たな太尉となった趙謙は車騎将軍も兼ね、遷都の露払い役を担当。
新たな司徒となった王允は守尚書令も引き継ぎ、遷都時に宮中の文書保全に尽力した他、遷都後には洛陽に残った董卓に代わって長安での朝政を一任されました。
文武の長官らしい扱いですね。
反対派の後任者が遷都で重要な役割を果たしています。

趙謙についてはこちらも参照。

三国与太噺
「蜀郡趙氏C【趙謙】」


『華陽国志』巻十、先賢志、蜀都士女、趙謙
趙謙,字彥信,戒孫也。歷位卿尹,初平元年,為太尉。時董卓秉政,欲遷天子長安。謙與司空荀爽固諫,卓不聽;以為車騎將軍,奉大駕西幸,封洛亭侯。拜司隸校尉。

なお、趙謙は太尉となった後に司空の荀爽と共に董卓を諌めたという記録もあります。
荀爽は一旦賛成したものの、後から(土壇場になって)反対に加わったのか、そもそもこの記述は遷都に協力した趙謙の経歴をごまかすために書かれたものなのか。


荀爽の列伝に遷都へのリアクションが載っていないのも、賛成したのが不名誉なことだったからなのでしょう。

『後漢書』巻六十二、荀淑伝、荀爽
進拜司空。爽自被徵命及登台司,九十五日。因從遷都長安。
爽見董卓忍暴滋甚,必危社稷,其所辟舉皆取才略之士,將共圖之,亦與司徒王允及卓長史何顒等為內謀。會病薨,年六十三。

その司空の荀爽は巨悪の董卓に対する密謀を司徒の王允などと共に立てていたそうです。
ただ、遷都終了(3月)から少し経った5月に亡くなっており、特に何か成し遂げたわけではありませんが。

タグ:後漢 潁川

潁川の韓融

潁川四長の二代目では、司空に登った荀爽が最も著名。次が陳羣の父の陳紀でしょう。
その2人の同輩として名を残した者がいます。

『後漢書』巻六十二、韓韶伝
子融,字元長。少能辯理而不為章句學。聲名甚盛,五府並辟。獻帝初,至太僕。年七十卒。

韓韶の子の韓融ですね。
記述量はかなり少ないものの、名声は甚だ盛んであり、五府から招かれ、後に太僕に登って70歳まで生きたというまあまあ大物です。


韓融の記録は他の箇所や資料で見つかりますが、主な事績は晩年の党錮の禁が終わってからです。

『後漢書』巻五十三、申屠蟠伝
中平五年,復與爽、玄及潁川韓融、陳紀等十四人並博士徵,不至。明年,董卓廢立,蟠及爽、、紀等復俱公車徵,唯蟠不到。眾人咸勸之,蟠笑而不應。居無幾,爽等為卓所脅迫,西都長安,京師擾亂。及大駕西遷,公卿多遇兵飢,室家流散,等僅以身脫。唯蟠處亂末,終全高志。

韓融は188年に荀爽鄭玄陳紀申屠蟠ら名だたる在野名士達と共に博士として招かれており(恐らく他の者と同じく応じず)、翌年に董卓に(脅迫されて)招かれると大臣の地位に就きます。


その背景は荀爽陳紀と同様。

『後漢書』巻七十二、董卓伝
卓素聞天下同疾閹官誅殺忠良,及其在事,雖行無道,而猶忍性矯情,擢用羣士。乃任吏部尚書漢陽周珌、侍中汝南伍瓊、尚書鄭公業、長史何顒等。以處士荀爽為司空。其染黨錮者陳紀、韓融之徒,皆為列卿。幽滯之士,多所顯拔。


『三国志』巻三十八、許靖伝
除尚書郎,典選舉。靈帝崩,董卓秉政,以漢陽周毖為吏部尚書,與靖共謀議,進退天下之士,沙汰穢濁,顯拔幽滯。進用潁川荀爽、韓融、陳紀等為公、卿、郡守,(後略)

党錮に巻き込まれた名士枠なので、韓融は父が党錮の禁以前に亡くなっていますが、自身はそれに引っかかるほどの名士に(160年代)のうちに到達していたようです。
荀爽陳紀と同年ぐらいとすると、第二次党錮の禁は42歳頃に始まった出来事。

党錮の禁を乗り越えた韓融は今度は董卓政権の大臣となり、そのまま長安遷都に巻き込まれます。

『後漢書』巻九、献帝紀、初平元年
二月(中略)丁亥,遷都長安。董卓驅徙京師百姓悉西入關,自留屯畢圭苑。(中略)
三月乙巳,車駕入長安,幸未央宮。(中略)
夏五月,司空荀爽薨。六月辛丑,光祿大夫种拂為司空。
大鴻臚韓融、少府陰脩、執金吾胡母班、將作大匠吳脩、越騎校尉王瓌安集關東,後將軍袁術、河內太守王匡各執而殺之,唯韓融獲免。


『後漢書』巻七十四、袁紹伝
董卓聞紹起山東,乃誅紹叔父隗,及宗族在京師者,盡滅之。卓乃遣大鴻臚韓融、少府陰循、執金吾胡母班、將作大匠吳循、越騎校尉王瓌譬解紹等諸軍。紹使王匡殺班、瓌、吳循等,袁術亦執殺陰循,惟韓融以名德免。

さらに韓融董卓が挙兵側に対して送った使者の一員に選ばれましたが、彼以外の高官使者は殺されており、際どい境遇にありました。
この時の官位は大鴻臚。190年のこと。


その後、韓融はどうやら長安の朝廷に再び合流したようです。

『資治通鑑』巻六十一、漢紀五十五、興平二年
三月,丙寅,傕使兄子暹將數千兵圍宮,以車三乘迎帝。(中略)於是群臣步從乘輿以出,兵即入殿中,掠宮人、御物。帝至傕營,傕又徙御府金帛置其營,遂放火燒宮殿、官府、民居悉盡。帝復使公卿和傕、汜,汜留楊彪及司空張喜、尚書王隆、光祿勳劉淵、衛尉士孫瑞、太僕韓融、廷尉宣璠、大鴻臚榮郃、大司農朱儁、將作大匠梁卲、屯騎校尉姜宣等於其營以為質。朱儁憤懣發病死。

195年の李傕郭汜の内輪もめの際に、郭汜側が人質にした大臣達の中に、太僕だった韓融がいます。

『後漢書』巻七十二、董卓伝
其宮女皆為傕兵所掠奪,凍溺死者甚眾。既到大陽,止於人家,然後幸李樂營。百官飢餓,河內太守張楊使數千人負米貢餉。帝乃御牛車,因都安邑。河東太守王邑奉獻綿帛,悉賦公卿以下。封邑為列侯,拜胡才征東將軍,張楊為安國將軍,皆假節、開府。其壘壁羣豎,競求拜職,刻印不給,至乃以錐畫之。或齎酒肉就天子燕飲。又遣太僕韓融至弘農,與傕、汜等連和。傕乃放遣公卿百官,頗歸宮人婦女,及乘輿器服。

同年に献帝や朝臣達は洛陽を脱出し、李傕郭汜らの追撃を受けるという過酷な逃避行を繰り広げますが、その際に太僕の韓融が弘農に派遣され、李傕郭汜との和解交渉を行い、さらに捕虜や奪われた物を取り返すことに成功しています。


しかし翌年に始まる曹操政権では特に取り上げられず、フェードアウト。
荀爽陳紀の生年と韓融の享年を考慮すると、この頃に亡くなっていてもおかしくはないでしょう。

韓融は地味ですが、すくに亡くなった荀爽や距離を取った陳紀と違い、長安政権の内側で振り回されつつも朝廷を支えた人物の一人と言えるのではないでしょうか。

タグ:後漢 潁川

陳紀と太尉

『後漢書』巻六十二、陳寔伝、陳紀
即時之郡。璽書追拜太僕,又徵為尚書令。建安初,袁紹為太尉,讓於紀;紀不受,拜大鴻臚。年七十一,卒於官。

190年春頃に逃げるように平原相として任地に入った陳紀は、後から太僕に任命され、その後にまた尚書令として召喚されたそうです。
尚書令の時期は不明。
また、袁紹が太尉に任命された際にその地位を譲られますが辞退し、大鴻臚を拝命しました。

『全三国文』巻二十六、邯鄲淳
『漢鴻臚陳紀碑』
遂晨夜間行,寓于邳郯之野。袁術恣睢,僭號江淮,圖覆社稷,結婚呂布,斯事成重,必不測救。君諗布不從,遂與成婚,送女在途。君為國深憂,乃奮策出奇,以奪其心,卒使絕好,追女而還。離逖奸謀,使不得成,國用乂安,君之力也。唯帝念功,命作尚書令。會車駕幸許,拜大鴻臚。實掌九儀,四門穆穆,遂登補袞闕,以熙帝載。不幸寢疾,年七十有一,建安四年六月卒。

碑文によると任地(平原)から徐州に逃れ、後に袁術呂布に縁談を持ちかけた際にそれの阻止に貢献、その後に尚書令の人事、そして許への遷都後に大鴻臚を拝命という順序。
碑文は董卓による人事をごまかしているので(時期をずらして描写)、この時系列も多少怪しい可能性があります。
少なくとも袁術呂布の破談は197年の出来事で、許への遷都自体は196年なので、「會車駕幸許拜大鴻臚」は文字通りではなく、許の政権(曹操体制)で大鴻臚となったということでしょう。
太僕と太尉の情報もありませんね。


『後漢書』巻七十四、袁紹伝
於是以紹為太尉,封鄴侯。時曹操自為大將軍,紹恥為之下,偽表辭不受。操大懼,乃讓位於紹。二年,使將作大匠孔融持節拜紹大將軍,錫弓矢節鉞,虎賁百人,兼督冀、青、幽、并四州,然後受之。

袁紹は196年の許への遷都後に曹操主導で太尉に任命され、その時に大将軍となった曹操よりも下位となったことから人事を辞退(拒否)しました。その際に太尉を譲った相手が陳紀なのでしょう。
そして(袁紹と決裂すると四方に敵を抱えることになる)曹操は自身を司空に変更し、袁紹に大将軍の地位を与えます。袁紹が大将軍となったのは翌年であり、その間に陳紀に太尉の話が伝わっていたのでしょう。

一方の陳紀はそのまま徐州におり、徐州を支配していた呂布袁術と結びつくのを阻止(197年)。
また、尚書令の人事は列伝(太尉の話より前)と碑文(呂布の話より後)に従うと、197年のこととなりますが、その場合は後漢書の記述(袁紹が大将軍となったのは3月)よりも後漢紀の記述(袁紹が大将軍となったのは7月)の方が都合が良さそうです。


『三国志』巻十一、袁渙伝、注引『袁氏世紀』
(呂)布之破也,陳羣父子時亦在布之軍,見太祖皆拜。

198年末の曹操呂布を撃破し、徐州を得た際に陳羣父子が徐州側に居たという記述があります。
おそらくこの「父」の方が陳紀であり、彼が大鴻臚を拝命して入朝したのは199年のこととなるでしょう。
そして同199年6月に陳紀は死去、享年71歳でした。

タグ:後漢 潁川

陳紀と董卓

『後漢書』巻七十二、董卓伝
卓素聞天下同疾閹官誅殺忠良,及其在事,雖行無道,而猶忍性矯情,擢用羣士。乃任吏部尚書漢陽周珌、侍中汝南伍瓊、尚書鄭公業、長史何顒等。以處士荀爽為司空。其染黨錮者陳紀、韓融之徒,皆為列卿。幽滯之士,多所顯拔。


『三国志』巻三十八、許靖伝
除尚書郎,典選舉。靈帝崩,董卓秉政,以漢陽周毖為吏部尚書,與靖共謀議,進退天下之士,沙汰穢濁,顯拔幽滯。進用潁川荀爽、韓融、陳紀等為公、卿、郡守,(後略)

189年、混乱に乗じて政権を掌握した董卓は天下の名士達を召し出します。
この背景には恐らく旧体制の否定や人気取り政策などがやりたい董卓と人事を任された周毖許靖らの思惑が絡んでいたようです。

ここで呼ばれた中には、「潁川四長」の子供にして潁川名士の大物となっていた荀爽韓融陳紀が含まれていました。

『後漢書』巻六十二、陳寔伝、陳紀
董卓入洛陽,乃使就家拜五官中郎將,不得已,到京師,遷侍中。出為平原相,往謁卓,時欲徙都長安。乃謂紀曰:「三輔平敞,四面險固,土地肥美,號為陸海。今關東兵起,恐洛陽不可久居。長安猶有宮室,今欲西遷何如?」紀曰:「天下有道,守在四夷。宜脩德政,以懷不附。遷移至尊,誠計之末者。愚以公宜事委公卿,專精外任。其有違命,則威之以武。今關東兵起,民不堪命。若謙遠朝政,率師討伐,則塗炭之民,庶幾可全。若欲徙萬乘以自安,將有累卵之危,崢嶸之險也。」卓意甚忤,而敬紀名行,無所復言。時議欲以為司徒,紀見禍亂方作,不復辨嚴,即時之郡。璽書追拜太僕,又徵為尚書令。

陳紀は五官中郎将を拝命。
いつもは辟招を蹴っていた陳紀でしたが、圧力が強かったためか任官に応じ、上京します。
その際に平原相に任命されていた荀爽と同行していたのかどうか気になりますね。荀爽はさらに光禄勲に進み、直後に司空まで昇格。
(五官中郎将は光禄勲に属す官なので、一時的に荀爽が上司?)
荀爽の司空就任が閏12月であり、陳紀も同じぐらいの時期に都に着いたかもしれませんね。

陳紀は洛陽に到着すると、今度は侍中を拝命。おそらく189年末の人事。
まもなく陳紀はさらに平原相に任命されます。
碑には「公車特徵,起家拜五官中郎將,到遷侍中,旬有八日,出相平原。」とあり、侍中に就任してから18日後の転任なので、翌190年1月の人事?

許靖伝の書き方を見るに、これも周毖許靖らによる人事のようです。彼らが任命した地方官の多くが190年初頭に始まる挙兵に参加していますが、陳紀に対してはどのような意図があったのでしょうか?

ともあれ、陳紀は任地に出発する前に董卓に会い、長安遷都について会話したという記録があります。
董卓が遷都を言い出すのは関東の挙兵後なので、190年の1月~2月のこと。会話の中でも関東の挙兵について両者共に言及しています。
真偽はともかく、ここで陳紀は遷都に否定的な意見を述べ、その後にさらに司徒に任命しようという話が出ると、戦乱に巻き込まれないようにさっさと任地へ向かったとあります。
司徒は2月上旬まで楊彪が務めており、遷都に反対した結果罷免され、5日後ぐらいに王允が後任に就いているので、司徒の話がありうるとすればその頃です。
洛陽から平原への道中に挙兵した長官達が展開しだした頃という危うい時期でしたが、長安遷都に巻き込まれずに済むギリギリのタイミングであり(残った荀爽韓融らは遷都へ)、董卓をめぐる危険を避けるには良い選択肢だったのでしょう。

タグ:後漢 潁川

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