西省郎・王韶之と武官主書

王韶之は琅邪王氏の一員でしたが、いわば傍流。王導の血を引く者達の後塵を拝していました。
それ故か、汚れ役を担うことに・・・。(皇帝毒殺)

ただ、王韶之には文才があり、の廟歌を制定した他、晋史の撰述にも関わっていました。

『宋書』巻二十四、荀伯子伝
荀伯子,潁川潁陰人也。祖羨,驃騎將軍。父猗,祕書郎。
伯子少好學,博覽經傳,而通率好為雜戲,遨遊閭里,故以此失清塗。解褐為駙馬都尉,奉朝請,員外散騎侍郎。著作郎徐廣重其才學,舉伯子及王韶之並為佐郎,助撰晉史及著桓玄等傳。遷尚書祠部郎。
義熙九年,上表曰:(後略)

義熙九年(413年)以前に東晋荀伯子と共に晋史や桓玄の列伝の作成に携わっていますね。

『宋書』巻二十四、王韶之伝
韶之為晉史,序王珣貨殖,王廞作亂。珣子弘,廞子華,並貴顯,韶之懼為所陷,深結徐羨之、傅亮等。

ちなみにこの晋史の撰述の際に王珣王廞の汚点について書き記したことから、それぞれの息子の王弘王華の大物となると、彼らの報復を恐れて徐羨之傅亮ら(廃立を行い、後に誅殺となった元勲達)と結びついたりしています。

『南史』巻二十四、王韶之伝
晉帝自孝武以來常居內殿,武官主書於中通呈,以省官一人管詔誥,住西省,因謂之西省郎。傅亮、羊徽相代在職。義熙十一年,宋武帝以韶之博學有文辭,補通直郎,領西省事,轉中書侍郎。

その王韶之の列伝によると、東晋の皇帝は孝武帝の代から常に内殿に居て「武官主書」を取次役とし、詔勅は西省で働く一人の省官(通称「西省郎」)が担当していたとのこと。415年から王韶之は通直郎の官でその「西省郎」の務めを任されたそうです。(通直郎とは通直散騎侍郎のこと)
「武官主書」は皇帝の居る内殿と外の取次役のようですね。

この「西省郎」の義熙年間の在任者については傅亮伝に情報が詳しくあり、当時の劉裕政権における詔勅や重要な文書担当者の流れを把握する上では外せませんね。
一方、「武官主書」は皇帝の文書に関する話の導入に使われただけで王韶之には直接関係しません。

文書を扱うのに武官というのは面白い存在。
ただ、将軍と同じ「武冠」を門下省の者達(侍中や散騎侍郎など)も身につけており、近侍する者と武官は元々縁がありました。
また、通典によると南斉では二衛・五校・羽林監など宿衛軍(禁軍)の指揮官を西省官を呼んでいました。

晋陽秋伝
「『宋書』百官志訳注(11)――中書・秘書」

中書省との関係はこちらをご覧ください。

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王薈の官歴考2

王薈の列伝で判明している経歴は以下の通り。
吏部郎→侍中→建威将軍・呉国内史→中領軍(不拜)→尚書・領中護軍→征虜将軍・呉国内史→江州刺史(不拜)→督浙江東五郡・左将軍・会稽内史→散騎常侍・督浙江東五郡・鎮軍将軍・会稽内史→死去(衛将軍を追贈)

383年に兄の王劭が死んだ時の官位はどれが該当するのでしょうか。

列伝によると王薈は江州刺史に任命(未遂)された時の官は征虜将軍・呉国内史。
王劭は「建威将軍・呉国内史」で亡くなったので、任地が同じ、将軍号は上。

列伝が正しいとすると兄の死後すぐに「征虜将軍・呉国内史」となり、兄が亡くなった呉に入ったということになるでしょう。そしてそのまま葬儀を執り行おうとしたところへ、桓沖の上奏があり、蹴ったという流れ。

時に父の死から44年が経過しており、王薈は既に壮年でした。
前秦との衝突目前という状況で、新たな琅邪王氏の筆頭格(素養も十分)を朝廷はできるだけ「上手く使いたい」はずであり、このような人事となったのでしょう。
高めの地位で、自身を含む兄弟が歴任した呉郡の長官に置くというのは良い采配でしょう。
非常事態において桓沖が江州刺史に置こうとしたのも、王薈の資質や影響力を感じさせる話です。

そして列伝が正しいのならば、383年時点で尚書・領中領軍だったことになり、その前が建威将軍・呉国内史、そのまた前が侍中ということになります。

『晋書』巻六十五、王導伝、王劭
劭字敬倫,歷東陽太守、吏部郎、司徒左長史、丹陽尹。劭美姿容,有風操,雖家人近習,未嘗見其墮替之容。桓溫甚器之。遷吏部尚書、尚書僕射,領中領軍,出為建威將軍、吳國內史。卒,贈車騎將軍,諡曰簡。

一方、兄の王劭は吏部尚書(・中領軍?)→尚書僕射・領中領軍→建威将軍・呉国内史→死去、という流れ。

これらから379年頃に行われた人事は以下の通りでしょう。
王劭:尚書僕射・領中領軍→建威将軍・呉国内史
王薈:建威将軍・呉国内史→尚書・領中領軍

王薈は兄に代わって中領軍となり、また呉郡の長官に戻ったということでしょう。

その前は任地・職掌の重複を配慮(回避)すると、王劭が丹陽尹の時に、王薈が侍中。王劭が吏部尚書となった時に、王薈が呉国内史として地方に出た、という人事が考えられます。


その後就任した「督浙江東五郡・会稽内史」は孝武帝の代に郗鑒王蘊が就任しており、どちらも将軍号が鎮軍将軍でした。王薈がなるのは、王蘊が死ぬ384年以降でしょう。
そして387年に前線を退いた謝玄が左将軍・会稽内史となるので、王薈のそれよりも前に鎮軍将軍に昇格した上、亡くなったのでしょう。

かくして王導の息子達は全員舞台から去り、孫世代の王珣らの時代となります。(ちょうどこの頃に輔国将軍・呉郡太守となっていますね)

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王薈の官歴考1

最後は王薈王導の末の息子です。

『世説新語』第六、雅量篇
王劭、王薈共詣宣武,正值收庾希家。薈不自安,逡巡欲去;劭堅坐不動,待收信還,得不定迺出。論者以劭為優。

動じない兄の王劭に対し、かなり動揺していたという逸話のある王薈とはどのような官歴だったのでしょうか。

『晋書』巻六十五、王導伝、王薈
薈字敬文。恬虛守靖,不競榮利,少歷清官,除吏部郎、侍中、建威將軍、吳國內史。時年饑粟貴,人多餓死,薈以私米作饘粥,以飴餓者,所濟活甚眾。徵補中領軍,不拜。徙尚書,領中護軍,復為征虜將軍、吳國內史。頃之,桓沖表請薈為江州刺史,固辭不拜。轉督浙江東五郡、左將軍、會稽內史,進號鎮軍將軍,加散騎常侍。卒於官,贈衞將軍。

無難で清い性格であり、「少歷清官」という形でキャリアをスタート。
まあ「清官」を歴任したのは名門出身だったおかげですが。

逸話の印象に反して生前に鎮軍将軍まで出世しています。三品将軍の上位。
一つ上の兄の王劭(五男)は生前に「建威将軍」止まり。
そして、さらに兄の王恬(次男)の追贈官(中軍将軍)と同格。
皇族でもないのに六男でここまで出世した人がかなり稀でしょう。

そういえば、荀彧の六男の荀顗も兄弟中最も出世しています。
荀顗の場合は兄が全員早世した後、抜擢を受けて出世し、時流にも上手く乗ったという人物。長兄の次男と同僚だったりもしますね。

王薈はどうだったのか。
まず、長兄の王悦は早世、次兄の王恬は享年36歳、三兄?の王洽は享年38歳、四兄?の王協も早世。ここまで全員358年までに亡くなっています。父王導の死から19年以内。

残る王劭はどうでしょうか。377年に尚書僕射となっており、当時の琅邪王氏の筆頭格だったと思われます。

『晋書』巻六十五、王導伝、王薈
頃之,桓沖表請薈為江州刺史,固辭不拜。

鍵となるのがこの情報。実は桓沖側にも記録があります。

桓沖王薈を江州刺史とするように上表し、王薈がそれを固辞したという話は、

『晋書』巻七十四、桓彝伝、桓沖、
沖率前將軍劉波及兄子振威將軍石民、冠軍將軍石虔等伐苻堅,拔堅筑陽。攻武當,走堅兗州刺史張崇。堅遣慕容垂、毛當寇鄧城,苻熙、石越寇新野。沖既憚堅眾,又以疾疫,還鎮上明。表以「夏口江沔衝要,密邇強寇,兄子石民堪居此任,輒版督荊江十郡軍事、振武將軍、襄城太守。尋陽北接強蠻,西連荊郢,亦一任之要。今府州既分,請以王薈補江州刺史。」詔從之。時始遭兄喪,將葬,辭不欲出。於是衞將軍謝安更以中領軍謝輶代之。沖聞之而怒,上疏以為輶文武無堪,求自領江州,帝許之。

桓沖前秦攻撃から撤収した直後のことであり、王薈が断った理由はちょうど兄の王劭の葬儀を行うところだったというものでした。
なお、そこで謝安が代わりに中領軍謝輶を江州刺史に任命しようとしたため、桓沖がそれなら自分がやるということになっています。

『資治通鑑』巻一百五、晋紀二十七、太元八年
秋,七月,郭銓及冠軍將軍桓石虔敗張崇于武當,掠二千戶以歸。鉅鹿公叡遣慕容垂爲前鋒,進臨沔水。垂夜命軍士人持十炬,繫于樹枝,光照數十里。沖懼,退還上明。張蚝出斜谷;楊亮引兵還。沖表其兄子石民領襄城太守,戍夏口。沖自求領江州刺史;詔許之

資治通鑑によると、383年7月の桓沖が撤収した後に江州刺史領有があったそうです。
時に、翌8月から前秦東晋征伐が始まり、同年中に「淝水の戦い」が起きた、という情勢。

したがって、383年の前半(夏?)から冬の「淝水の戦い」より前の間に建威将軍・呉国内史だった兄の王劭が亡くなったのは間違いないでしょう。
さて、王薈の躍進はここからなのでしょうか。

王羲之の子供達(王凝之王献之)が居たとはいえ、公主を娶った王献之が建威将軍・呉興太守で兄弟中トップぐらいであり、王薈が琅邪王氏の棟梁になる余地は十分にありました。

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王劭の官歴考2

『晋書』巻六十五、王導伝、王劭
遷吏部尚書、尚書僕射,領中領軍,出為建威將軍、吳國內史。卒,贈車騎將軍,諡曰簡。

王劭の後半生は丹陽尹→吏部尚書→尚書僕射・領中領軍→建威将軍・呉国内史で死去。
実はこの人事は微妙に間違っている可能性が高いです。

まず、僕射の前の吏部尚書は桓温死後の人事(373年9月)まで就任していた謝安の後でしょう。
謝安はそこで吏部尚書から尚書僕射に進み、同時に尚書僕射だった王彪之が尚書令となっていました。

『宋書』巻五十二、謝景仁伝
(前略)又遷吏部尚書。時從兄混為左僕射,依制不得相臨,高祖啟依僕射王彪之、尚書王劭前例,不解職。

さて、後の東晋末期に謝混が僕射の状態で、その従弟の謝景仁が吏部尚書に任命されるということがありました。
通常はありえない人事でしたが、宰相の劉裕は「僕射の王彪之と尚書の王劭」という前例を元に施行しています。

つまり、王劭が尚書だった頃に王彪之が僕射だったはずですね。
373年の人事よりも先に王劭は尚書になっていたと思われます。それが吏部尚書かどうかわかりませんが。
丹陽尹→尚書→吏部尚書あるいは尚書→丹陽尹→吏部尚書。

『晋書』巻二十、礼志中
寧康二年七月,簡文帝崩再周而遇閏。博士謝攸、孔粲議:「魯襄二十八年十二月乙未,楚子卒,實閏月而言十二月者,附正於前月也。喪事先遠,則應用博士吳商之言,以閏月祥。」尚書僕射謝安、中領軍王劭、散騎常侍鄭襲、右衞將軍殷康、驍騎將軍袁宏、散騎侍郎殷茂、中書郎車胤、左丞劉遵、吏部郎劉耽意皆同。(後略)

374年7月の礼制の議論の際に、王劭は中領軍として登場。
列伝では中領軍となったのは尚書僕射の時なので、おかしい。桓秘免官後、その後任の中領軍となったか、吏部尚書・領中領軍となったのが正しいのかもしれません。

ちなみに、この頃に次兄王恬の息子の王琨が丹陽尹になっていますね(車胤伝)。

『晋書』巻九、孝武帝紀、太元二年
八月壬辰,車騎將軍桓沖來朝。丁未,以尚書僕射謝安為司徒。丙辰,使持節、都督荊梁寧益交廣六州諸軍事、荊州刺史、征西大將軍桓豁卒。
冬十月辛丑,以車騎將軍桓沖都督荊江梁益寧交廣七州諸軍事、領護南蠻校尉、荊州刺史,尚書王蘊為徐州刺史、督江南晉陵諸軍,征西司馬謝玄為兗州刺史、廣陵相、監江北諸軍。壬寅,散騎常侍、左光祿大夫、尚書令王彪之卒。
十二月庚寅,以尚書王劭為尚書僕射。

377年8月から各地の都督を含む重要な人事が次々に行われます。桓沖が荊州刺史、王蘊が徐州刺史、謝玄が兗州刺史になったり。
その中で謝安が尚書僕射から司徒となり(固辞)、尚書令だった王彪之が死去、そして王劭が尚書から尚書僕射になりました。

かなり重要なポジションに就いたわけですが、資治通鑑や建康実録ではスルー。そもそもこれらに王劭は影も形もありません。
父の死から38年。年齢は40代~50代前半ですね。

この頃は前秦の脅威がいよいよ高まってきており、そのためか徐州刺史だった外戚の王蘊が尚書僕射として引っ込められ、兗州刺史の謝玄が徐州を兼ねる体制になりました。

『晋書』巻九、孝武帝紀、太元四年
六月,大旱。戊子,征虜將軍謝玄及超、難戰于君川,大破之。
秋八月丁亥,以左將軍王蘊為尚書僕射。

これが379年8月の人事。
王蘊の列伝によると僕射は左僕射のようですが、いずれにしてもこの時に王劭が僕射を離れた可能性はあるでしょう。
(なお、王彪之は琅邪王氏ですが、王蘊は太原王氏です)
王蘊はまもなく望んで丹楊尹に移り、続けて会稽内史として地方に赴任。王劭も呉国内史となっており、まとめて東の地方に出ていますね。
これらの後任の尚書僕射は、謝安の弟の謝石

兄の王洽や弟の王薈のように呉郡で善政を敷いたかどうか史書には書いていませんが、とりあえず383年初頭ぐらいに亡くなるまで3~4年ほど当地を治めていたのでしょう。

追贈は車騎将軍。兄弟の中では最も高位ですね。

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王劭の官歴考1

王導の五男の王劭と六男の王薈は、上の兄弟達とは年齢が離れていたためなのか特に絡む逸話がありませんが、この二人はまとめて登場することがあります。

『世説新語』第六、雅量篇
王劭、王薈共詣宣武,正值收庾希家。薈不自安,逡巡欲去;劭堅坐不動,待收信還,得不定迺出。論者以劭為優。

例えば、この逸話。
367年に免官された庾希が371年の粛清の際に逃亡、挙兵して斬られるという騒動があり、その時に王劭王薈桓温に会い、王薈は逃げ出したかった一方で、王劭の方は堂々としていたというものです。桓温は大権力者にして粛清の首謀者であり、恐ろしい状況ではあったでしょうね。

まずは兄の王劭から。

『晋書』巻六十五、王導伝、王劭
劭字敬倫,歷東陽太守、吏部郎、司徒左長史、丹陽尹。劭美姿容,有風操,雖家人近習,未嘗見其墮替之容。桓溫甚器之。遷吏部尚書、尚書僕射,領中領軍,出為建威將軍、吳國內史。卒,贈車騎將軍,諡曰簡。三子:穆、默、恢。穆,臨海太守。

列伝の記録はいきなり太守から始まっています。名門子弟の起家は三省の郎か府の僚佐が標準なので、何か省略されていそうです。(東陽太守は揚州の太守なので、首都に近い、内地、貴族向け)

『晋書』巻七十五、荀崧伝、荀蕤
蕤字令遠。起家祕書郎,稍遷尚書左丞。蕤有儀操風望,雅為簡文帝所重。時桓溫平蜀,朝廷欲以豫章郡封溫。蕤言於帝曰:「若溫復假王威,北平河洛,修復園陵,將何以加此!」於是乃止。轉散騎常侍、少府,不拜,出補東陽太守。除建威將軍、吳國內史。卒官。

潁川の名門出身の荀蕤は、「王洽王劭の兄)の同輩である荀羨」の兄であり、散騎常侍から少府になるのを拝命せずに東陽太守となり、建威将軍・呉国内史の地位で死去という人物でした。

太守の後が吏部郎と司徒左長史なので同等ではありませんが、いくらか参考にはなるでしょう。

吏部郎も司徒左長史も人事に関わる官であり、要職でありながら品官もまだ低く、若い名族でも就くことのできる栄誉ある官ですね。
それらの次が丹陽尹。首都の郡の長官であり、三品官。

ここまで出世するのは三品で終わった兄の王洽が死んだ後でしょう。358年以降。

さて、王劭は上記のエピソードの他にも桓温に会ったことがあるそうです。

『世説新語』第十四、容止篇
王敬倫風姿似父,作侍中,加授桓公,公服從大門入。桓公望之,曰:「大奴固自有鳳毛。」

桓温王劭を見て、「鳳毛」が有ると言ったという話。

程炎震さんが言うには、この出来事は永和八年(352年)の桓温に侍中・太尉を授けた際のものと思われるそうです。
もう一つの候補は侍中・大司馬とする人事のあった363年。

352年なら吏部郎かそれ以前?
比較的若い頃です。兄の王洽が中領軍として存命の頃。

363年なら司徒左長史?
丹陽尹が使者になるとは思えず、吏部尚書となるのはもっと後でしょう。(下に補足)

350年代や360年代は丹陽尹の在任者(候補)が孔厳庾龢韓伯など何人か居るため、王劭が丹陽尹となったのはさらに後とするのが妥当です。
(割り込むと、丹陽尹から吏部尚書になった韓伯やその後の謝安と吏部尚書の期間が重なります)


正史では丹陽尹になった後に桓温から評価されたという記述がありますが、位置がおかしいか、世説新語の逸話とは別と考えるべきでしょう。


吏部尚書については、再任したか、尚書→吏部尚書という人事があった可能性があります。

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