魏の初代尚書2

記述の正確さが怪しいことを踏まえた上で尚書八座を特定できるか試してみましょう。

『晋書』巻二十四、職官志、尚書
及魏改選部為吏部,主選部事,又有左民、客曹、五兵、度支,凡五曹尚書、二僕射、一令為八座。

尚書八座とは、尚書省の三品官クラスの重臣達のこと。
の尚書省で尚書令・二僕射(左僕射・右僕射)・五曹尚書(吏部・左民・客曹・五兵・度支)の8人が部署を率いる長官として置かれたことに由来します。

まず「魏の初代尚書1」では以下の3人について言及しました。
建国前は桓階が尚書令、陳羣が(吏部)尚書、陳矯が尚書。
建国後は桓階が尚書令(加侍中)、陳羣が尚書僕射(加侍中)、陳矯が吏部尚書。
そして建国後に桓階は高郷亭侯、陳羣は昌武亭侯、陳矯は高陵亭侯。


建国前の尚書僕射と建国前・建国後の残りの尚書が3人~4人見つかれば埋まりますね。


最も確実な候補は衛覬です。

『三国志』巻二十一、衛覬伝
魏國既建,拜侍中,與王粲並典制度。文帝即位,徙為尚書。頃之,還漢朝為侍郎,勸贊禪代之義,為文誥之詔。文帝踐阼,復為尚書,封陽吉亭侯。

魏公国の初代侍中の一員だった衛覬は、「文帝即位」で尚書となり、禅譲の前に後漢の侍郎となって禅譲の詔勅を担当し、「文帝踐阼」でまた尚書となって陽吉亭侯に封じられました。
遷官の流れが明瞭で、封爵のタイミングと格(亭侯)もピッタリであり、模範的な情報です。

『三国志』巻二、文帝紀、延康元年、注引『献帝伝』
庚午,冊詔魏王曰:「(中略)今遣守尚書令侍中覬喻,王其速陟帝位,以順天人之心,副朕之大願。」

ただ、「還漢朝為侍郎」の内実は「後漢の侍中・守尚書令」だったようです。


杜畿も有力な候補です。

『三国志』巻十六、杜畿伝
文帝即王位,賜爵關內侯。徵為尚書。及踐阼,進封豐樂亭侯,邑百戶,守司隸校尉。帝征吳,以畿為尚書僕射,統留事。

「文帝即王位」で関内侯となり、(河東太守)から召されて尚書に就任。「及踐阼」で豊楽亭侯に進封。(ただし尚書・「守司隷校尉」となったのはそれと同時かしばらく後のことなのかは要検討ですね)
爵位は2段階昇格で「亭侯」。尚書として妥当なものでしょう。加えて、文帝の代で尚書僕射に進んでおり、陳羣のように即位前から尚書だったならより自然でしょう。

引っかかるのが、『献帝伝』には一切名前が出てこないということ。侍中が3人列挙されるぐらいなので、3人目の尚書として出てきても良さそうなものですが・・・。


実は司馬懿もれっきとした候補。

『晋書』巻一、宣帝紀
魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。(中略)及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍御史中丞,封安國鄉侯。

「文帝即位」で河津亭侯が封爵され、丞相長史に転じ、「魏受漢禪」で尚書となったとあります。
「亭侯」で尚書なので、桓階陳羣陳矯(・衛覬杜畿)と同等です。

問題は別の記事で述べた通り、続く記述にある督軍御史中丞の就任の記録が不正確であり、また「郷侯」への進爵も時期尚早を疑いたくなるものです。記述の抜けや順番ミスなどを気にかけだすと尚書となったタイミングも怪しいような気もしてきます。
(例えば、建国前に督軍御史中丞となっていることから、尚書から督軍御史中丞になったのを建国前とすると、当然ながらこの記述の尚書は建国前の人事となります)


これら建国後の初代尚書としては、衛覬杜畿は特に可能性が高く、司馬懿も帝紀に督軍御史中丞の官歴が一回分抜けているとすれば十分該当者に相応しいですね。

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魏の建国と司馬懿の官爵2

「魏の建国と司馬懿の官爵1」の続き。
次の問題は亭侯に続いて郷侯となったこと。

曹丕の魏王即位後に「亭侯」に封爵され、建国後に「郷侯」に進爵した者は、三国志上では王朗夏侯尚のみ。
魏王即位後と建国後の2段階昇格では、杜襲杜畿が魏王即位後に「関内侯」に封爵され、建国後に「郷侯」に進爵したパターン。
張遼張郃徐晃臧覇ら勧進にも名を連ねた大物軍人が「郷侯」への進爵と建国後に「県侯」への進爵。

尚書筆頭格の桓階陳羣は建国直後ではまだ「亭侯」であり、桓階は発病してから「郷侯」に進爵、陳羣は(桓階の後任の)尚書令となってから「郷侯」に進爵しています。

司馬懿桓階陳羣を超えて、三公の王朗や初代都督の夏侯尚と同じ封爵パターンとなることは果たしてありうるのでしょうか?

また、建国後に尚書を挟んでから督軍御史中丞に再任した段階で郷侯となったというのも妙なタイミングではありませんか?
なぜ最初の人事と同時ではないのでしょうか?
建国直後の人事が行われた11月初頭の段階で「封爵増位各有差」とあり、尚書を挟めたとは思い難く、別件で封爵(進爵)されたと考える必要が出てきます。


「及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍御史中丞,封安國鄉侯。」の中から「頃之,轉督軍御史中丞,」を後ろに回せばタイミングの違和感は解消しますが、処遇が同格よりも明らかに突出したものとなります。

曹丕が魏王だった期間で曹休は「亭侯」に封爵され、孫権軍を破った後に「郷侯」に進爵しています。即位や建国という区切りを挟まずに年内2段階昇格した珍しい事例。
この事例から、220年末から221年の間に「尚書の司馬懿が功績を挙げたので督軍御史中丞に転任するのと同時に郷侯に昇格した」か「司馬懿が督軍御史中丞に転じた後に功績を挙げたので郷侯に昇格した」というシナリオを考えることができます。

上記のシナリオなら建国直後で尚書&亭侯という他と同じ組み合わせとなりますね。

「封安國鄉侯」の位置が尚書右僕射より後という可能性もあります。この場合も建国直後の官爵の組み合わせの違和感が解消されます。

タグ: 西晋前史

魏の建国と司馬懿の官爵1

の建国前後の官位について、三国志本文には不正確なものが複数(多数)あるという話は既にやった通り。
これが陳寿によるものか、元資料によるものか不明ですが、いずれにしても他の不正確かどうかも判断できない者についても、三国志本文の記述が不正確な可能性はあるでしょう。
この時期の官位考察は慎重にやるか、適当なり気合なりで突破する必要があるでしょう。


晋書の司馬懿も同様。気合でなんとかします。

『晋書』巻一、宣帝紀
及魏武薨于洛陽,朝野危懼。帝綱紀喪事,內外肅然。乃奉梓宮還鄴。
魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。會孫權帥兵西過,朝議以樊、襄陽無穀,不可以禦寇。時曹仁鎮襄陽,請召仁還宛。帝曰:「孫權新破關羽,此其欲自結之時也,必不敢為患。襄陽水陸之衝,禦寇要害,不可棄也。」言竟不從。仁遂焚棄二城,權果不為寇,魏文悔之。
及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍御史中丞,封安國鄉侯。
黃初二年,督軍官罷,遷侍中、尚書右僕射。

「文帝即位」で河津亭侯に封爵され、丞相長史に転じます。「文帝即位」で「亭侯」になるのは陳羣と同じですね。
「魏受漢禪」で尚書となり、それから督軍御史中丞に転じ、安国郷侯に封爵。
黄初二年(221年)の「督軍」廃止により侍中などに転任。

まず、禅譲勧進について詳述している『献帝伝』では司馬懿は督軍御史中丞として勧進に関わっています。つまり晋書よりも前に督軍御史中丞となっています。
最もシンプルな解決案は、禅譲前に督軍御史中丞となった記録が抜けただけというもの。
丞相長史としての逸話は樊・襄陽の放棄に関するもので、実際には晋書の記述とは違って孫権に制圧されていますが、奪還した曹仁の記録や孫権側の動きから7月には決着したものと考えられ、したがって220年前半の司馬懿の逸話と思われます。
よって、「文帝即位」で丞相長史となり、年内に督軍御史中丞に転じて禅譲勧進に参加し、それから建国後に尚書となり、さらに督軍御史中丞に再任したとしてもタイムスケジュール上は何ら問題は無いでしょう。
(単に「丞相長史」という肩書は督軍御史中丞を間違えたものの可能性もありますが)
ただ、それでも建国後の人事には注意が必要ですが。


なお、建国後の督軍御史中丞を消すと次の記述との齟齬が生じるので、もし位置がおかしいとしても尚書の前に置くには工夫が必要です。具体的には、尚書の代替位置が「督軍官罷」より後、「尚書右僕射」より前です。
(督軍御史中丞→尚書→侍中・尚書右僕射か督軍御史中丞→侍中→尚書→尚書右僕射)

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魏の建国と疑惑の官歴

『晋書』巻一、宣帝紀
魏文帝即位,封河津亭侯,轉丞相長史。(中略)及魏受漢禪,以帝為尚書。頃之,轉督軍御史中丞,封安國鄉侯。
黃初二年,督軍官罷,遷侍中、(後略)

晋書の宣帝紀によると司馬懿の官歴は、曹丕の即位で(河津亭侯・)丞相長史、禅譲によるの建国で尚書、その後(黄初元年か黄初二年)に督軍御史中丞(・安国郷侯)。
しかし魏志・文帝紀の注の『献帝伝』では禅譲勧進の中で「督軍御史中丞司馬懿」の名前が出てきます。
つまり、司馬懿が「督軍御史中丞」に就任したのは禅譲よりも前とする記録と禅譲よりも後(の尚書よりもさらに後)とする記録があります。
どちらかの記録が間違っているはず。
両方とも記述自体は正しいとすると、晋書で記述(禅譲前の就任)が抜けたとするしかありません(2度就任したというパターン)。
この「轉督軍御史中丞」については、斠注では晋書が間違い(タイミングは『献帝伝』が正しい)としています。


魏志・文帝紀の注の『献帝伝』には禅譲直前の23人の官が載っており、上尊号碑には禅譲直前の46人かの官爵が残されています。
ところが、上記の宣帝紀のように、三国志の本文には『献帝伝』や上尊号碑と一致しない人物が何人もいます。


不一致の者達の列挙は別の記事でやるとして、微妙な者を以下に挙げておきます。

賈詡:上尊号碑で「太尉・都亭侯」

『三国志』巻十、賈詡伝
文帝即位,以詡為太尉,進爵魏壽鄉侯,增邑三百,并前八百戶。

「文帝即位以詡為太尉進爵魏壽鄉侯」と続く記述の中で、太尉となった時期(建国前の2月)と「郷侯」への進爵の時期(10月末に建国した後)に8ヶ月以上の間隔があります。このような連続する記述と実際の時期のズレの可能性は全ての列伝で考慮すべき要素でしょう。
また、ここの「文帝即位」は曹丕の魏王即位を指しています。


劉曄:『献帝伝』で「侍中」

『三国志』巻十四、劉曄伝
曄自漢中還,為行軍長史,兼領軍。
延康元年,蜀將孟達率眾降。達有容止才觀,文帝甚器愛之,使達為新城太守,加散騎常侍。曄以為「(略)」文帝竟不易,後達終于叛敗。
黃初元年,以曄為侍中,賜爵關內侯。

侍中となった時期は同じ年を指していますが、年号を使い分けているため侍中となったのは建国後の人事と言いたいのでしょう。
よって列伝に従うと「行軍長史・兼領軍」。これは『献帝伝』と齟齬がありますね。


惜しい者では、張遼張郃徐晃は、上尊号碑にある「使持節」の情報が列伝には無く、爵位も微妙に異なる箇所があります。

タグ: 西晋前史

魏晋南北30年、魏晋編

平成も30年が経ち、いよいよ終りを迎えますね。

30年。10歳が40歳になる期間と思えば、けっこうな長さです。
激動の魏晋南北朝時代の30年はどうでしょうか。何が変わり、何が変わらないか。

まずは三国時代と晋王朝。

黄巾の乱から約30年で後漢の崩壊が進み、曹操が華北を制し、孫権が江東に割拠し、劉備が巴蜀を得ました。184年~214年。

曹操は反董卓の挙兵から約30年で後漢の丞相・魏王に登り、の礎を築いて66歳で亡くなりました。190年~220年。

劉備陶謙の救援に出てから約30年で転戦の末に巴蜀の地で皇帝となり、63歳で亡くなりました。193年~223年。

孫堅後漢の長沙太守となってから約32年で、長男孫策の江東制圧を経て、次男孫権が交州と荊州南部を併呑しの版図が定まりました。187年~219年。

は建国から約31年で3代の皇帝を経て台頭した司馬懿に国政を掌握され、司馬師に世襲される体制となりました。220年~251年。

蜀漢は建国から約32年で諸葛亮蒋琬費褘ら3代の宰相の時代を経て、姜維が国を率いるようになりました。221年~253年。

は建国から約30年で皇帝となった孫権の長い治世の終わりを迎えました。222年~252年。

司馬懿諸葛亮を五丈原の戦いで防いで約30年で司馬氏は勲功を重ね、蜀漢を滅ぼした司馬昭の相国・晋王となりました。234年~264年。

西晋は建国から約30年で、天下統一を達成するまでの期間とその後の弛緩し始めた政治の期間が同年。265年~295年。

西晋による統一から約31年で八王の乱を経て、異民族によって首都が陥落し、西晋の中枢が壊滅しました。280年~311年。

東晋司馬睿の晋王即位から約30年で5人の皇帝が立ち、2度の首都陥落を乗り越え、桓温による成漢平定を成し遂げました。317年~347年。

桓温は徐州の都督となってから約30年で6帝に仕えて東晋の大権を掌握し、九錫を目前にして62歳で死去。343年~373年。

淝水の戦いから約33年で東晋は大戦果も亡国の危機も経験し、国内を掌握した劉裕による大北伐が実施されるに至りました。383年~416年。

タグ: 蜀漢 西晋 東晋 西晋前史

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