公孫度の末裔、公孫表

『魏書』巻三十三、公孫表伝
公孫表,字玄元,燕郡廣陽人也。遊學為諸生。慕容沖以為尚書郎。慕容垂破長子,從入中山。慕容寶走,乃歸闕。以使江南稱旨,拜尚書郎。後為博士。(中略)
太宗初,表參功勞將軍元屈軍事,討吐京叛胡,為胡所敗。表以先諫止屈,太宗善之,賜爵固安子。(中略)時年六十四。

燕郡広陽の人である公孫表は360年に生まれ、(前秦で)遊学して諸生となり、後に西燕(384年~394年)に仕えて慕容沖の代には尚書郎となり、西燕を滅ぼした後燕にも仕えましたが、慕容宝(在位396年~398年)が北魏に破れて凋落すると、自ら北魏に投じ、道武帝から尚書郎や博士として用いられ、明元帝の代に固安子の爵位も授かりました。その後、423年に64歳で死亡。

おそらく生まれは前燕で、11歳の時に前秦の支配下に入り、25歳以降に西燕に従い、35歳から後燕に仕え、38歳頃から北魏の臣下になったという生涯でしょう。
このように次々に所属する国が変わる経歴は、当時は多くの漢人豪族・名士で見られたことでしょう。


さて、実は公孫表は「遼東公孫氏」の公孫度の末裔という記録があります。

『元和姓纂』巻一、公孫氏、遼東
後漢有公孫延,生度為遼東太守。子康生文懿,三代處遼東,後自立為燕王。魏明帝遣司馬宣王平之,三代五十年而滅。後魏廣州刺史、固安子公孫表稱度後。孫叡,尚書、燕郡公。曾孫遂,青州刺史。生長儒,北齊涇州刺史。孫正,唐揚州司法。

その一つがで書かれた『元和姓纂』です。
信憑性はさておき、公孫表の子孫である公孫正に仕えていることから、おそらく公孫正の一族経由で伝わった情報でしょう。

北朝では遼東襄平の公孫氏の記録が墓誌などで複数残っています。当時は公孫氏の中でも遼東襄平の一族がおそらく特に有名であり、さらに歴代の遼東公孫氏の中でも著名な公孫度がその始祖としてよく使われていたのかもしれませんね。


また、公孫表の本籍の広陽県は前燕が都を置いた薊城の近くにあります。前燕の代に一族が遼東から薊城一帯に移住し、本籍を移動させたとも考えられます。

タグ:北魏 前燕 後燕 西燕 後漢 前秦

馮跋の胡化3

馮跋はおそらく379年以前の生まれ。370年代?
西燕が上党を支配したのは386年~394年。この期間に馮跋の父の馮安西燕に仕えていました。
馮跋の一族が上党に移住したのは遥か前のことなので、馮跋は生まれも育ちも西燕でしょう。

379年以前の生まれなら、7歳以上から16歳以上まで「鮮卑族が統治する西燕」で暮らしていたことになります。

昌黎への移住は早くて394年(末)。北魏の并州襲撃が始まる時(396年秋)より前。
そこから407年頃まで「後燕の昌黎」(鮮卑慕容部の総本山)に馮跋は暮らしていました。
16歳以上から29歳以上まで?

『魏書』巻九十七、海夷馮跋伝
海夷馮跋,字文起,小名乞直伐,本出長樂信都。慕容永僭號長子,以跋父安為將。永為垂所滅,安東徙昌黎,家于長谷。(中略)既家昌黎,遂同夷俗。

馮跋は小名が「乞直伐」と鮮卑らしい物であるので、成人前に鮮卑化がある程度あったと思われます。

後燕の昌黎」で暮らしていた期間は十分長いものの、成人前となるとその前の話です。
馮跋は鮮卑化は実は西燕時代に始まっていたのでは?

馮跋は「外様の漢人」ながら後燕末期には影響力のある地位に居たらしく(さもなくばクーデターはあれほど上手くいかなかったでしょう)、その一因は馮跋が「鮮卑化した漢人」だったからではないかと思っています。
そしてこの鮮卑化は西燕時代から培われてきたものだったのではないでしょうか。

西燕が残した「鮮卑化した漢人」馮跋後燕を滅ぼし、取って代わった。そのような因縁があったかもしれませんね。

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西燕と北燕4

并州に割拠した鮮卑・慕容氏の西燕には并州人も仕えていましたが、高官として目立ったのは同族や明らかに漢人でない者でした。
西燕滅亡の間際に高官かつ兵を率いていたのは、慕容逸豆帰(大)・慕容鍾慕容逸豆帰(小)・王次多勒馬駒刁雲段平

『晋書』巻一百二十五、馮跋載記
馮跋字文起,長樂信都人也,小字乞直伐,其先畢萬之後也。萬之子孫有食采馮鄉者,因以氏焉。永嘉之亂,跋祖父和避地上黨。父安,雄武有器量,慕容永時為將軍。永滅,跋東徙和龍,家于長谷。


『魏書』巻九十七、海夷馮跋伝
海夷馮跋,字文起,小名乞直伐,本出長樂信都。慕容永僭號長子,以跋父安為將。永為垂所滅,安東徙昌黎,家于長谷。

将軍となっていた馮安の地位が気になりますね。

『魏書』巻三十三、張済伝
張濟,字士度,西河人也。父千秋,慕容永驍騎將軍。永滅,來奔。太祖善之,拜建節將軍,賜爵成紀侯。

漢人らしき張千秋は驍騎将軍となっており、別に胡人のみが軍人だったわけではなさそうですが。
この張千秋西燕滅亡時に北魏に逃れ、登用されています。

『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十九年
(八月)
永尚書僕射昌黎屈遵、尚書陽平王德、秘書監中山李先、太子詹事渤海封則、黃門郎太山胡母亮、中書郎張騰、尚書郎燕郡公孫表皆隨才擢敘。

西燕に仕え、滅亡後に後燕に用いられた者達には昌黎の屈遵、陽平の王徳、中山の李先、勃海の封則、泰山の胡母亮、燕郡の公孫表などがいました。并州人でない漢人(枠)ですね。

漢人は色々居たようですが、西燕の領内に逃れていた者だけでなく、一族が前燕(~370年)に仕えていた縁で西燕(384年~394年)に従った者もいたのではないでしょうか。

『魏書』巻三十三、屈遵伝
屈遵,字子皮,昌黎徒河人也。博學多藝,名著當時。為慕容永尚書僕射,武垣公。永滅,垂以為博陵令。

屈遵は尚書僕射&(県)公爵という大物でしたが、後燕では県令。ちょっと扱いが悪いのでは?
そんなことでは見限られて、北魏に投じたりしますよ。

『魏書』巻三十三、李先伝
李先,字容仁,中山盧奴人也,本字犯高祖廟諱。少好學,善占相之術,師事清河張御,御奇之。仕苻堅,尚書郎。後慕容永聞其名,迎為謀主。先勸永據長子城,永遂稱制,以先為黃門郎、祕書監。垂滅永,徙於中山。

李先前秦にも仕えていたパターン。慕容永の謀主であり、官位が低くとも中枢で重要な働きをしていたと思われます。

『魏書』巻三十三、公孫表伝
公孫表,字玄元,燕郡廣陽人也。遊學為諸生。慕容沖以為尚書郎。慕容垂破長子,從入中山。

公孫表西燕に創立初期(慕容沖時代)から従っていたパターン。前秦の首都に遊学していたようです。
李先公孫表後燕首都の中山に入っています。朝廷で働いていたのでしょうか。

一方の馮安西燕後燕に滅ぼされると、昌黎・和龍に移されています。待遇は不明。
昌黎は後燕の始祖の地でありますが、中央から離れており、そこにわざわざ移されたのは何故なのでしょうか。元軍人に実権を与えたくなかったとか?

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西燕と北燕3

391年、并州南北に割拠して6年目の西燕北魏の間で外交革命が起きます。

『魏書』二、道武帝紀、登国六年
六月,慕容賀驎破賀訥於赤城。帝引兵救之,驎退走。
秋七月壬申,講武於牛川,行還紐垤川。慕容垂止元觚而求名馬,帝絕之。乃遣使於慕容永,永使其大鴻臚慕容鈞奉表勸進尊號。其月,衞辰遣子直力鞮出棝楊塞,侵及黑城。九月,帝襲五原,屠之。收其積穀,還紐垤川。於棝楊塞北,樹碑記功。
冬十月戊戌,北征蠕蠕,追之,及於大磧南牀山下,大破之,班賜從臣各有差。其東西二部主匹候跋及縕紇提,斬別帥屋擊于。事具蠕蠕傳。
十有一月戊辰,還幸紐垤川。戊寅,衞辰遣子直力鞮寇南部。己卯,車駕出討。壬午,大破直力鞮軍於鐵歧山南,獲其器械輜重,牛羊二十餘萬。戊子,自五原金津南渡河。辛卯,次其所居悅跋城,衞辰父子奔遁。壬辰,詔諸將追之,擒直力鞮。十有二月,獲衞辰尸,斬以徇,遂滅之。語在衞辰傳。衞辰少子屈丐,亡奔薛干部。車駕次于鹽池。自河已南,諸部悉平。簿其珍寶畜產,名馬三十餘萬匹,牛羊四百餘萬頭。班賜大臣各有差。收衞辰子弟宗黨無少長五千餘人,盡殺之。山胡酋大幡頹、業易于等率三千餘家降附,出居于馬邑。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十六年
(七月)
魏王珪遣其弟觚獻見於燕;燕主垂衰老,子弟用事,留觚以求良馬。魏王珪弗與,遂與燕絕;使長史張袞求好於西燕。觚逃歸,燕太子寶追獲之,垂待之如初。


391年6月、後燕と対立した賀蘭部を北魏が救援。
391年7月、北魏拓跋珪が後燕の要求を拒絶し、西燕慕容永に使者を派遣。魏書によると西燕の返礼は皇帝即位の勧進だとか。(当時の拓跋珪は魏王)
この頃の後燕皇帝の慕容垂は老衰のため(66歳)、皇太子の慕容宝などが国政を主に取り仕切っていましたが、その彼らの要求が決裂の引き金になったとか。

391年10月、北魏が北の柔然を征伐、大勝し、東部・西部共に屈服させる。
391年11月、西の鉄弗部が北魏の南部を侵略。北魏は逆襲し、最終的に鉄弗部君主の劉衛辰を死なせて勢力を併呑しました。
これらは北魏の大躍進の一つですね。後燕の干渉から自立したおかげで、それだけ動けたのでしょう。
西燕としても北魏という心強い味方を得たので、Win-Winの関係。
後燕には、たまったものではありませんが。

同年、翟魏の君主翟遼が亡くなり、息子の翟釗が即位。
翌392年、後燕翟魏を滅ぼし、翟釗西燕に亡命。
既に東晋の前線も停滞しており(主力の朱序が引退)、後燕に余力が出てきました。

この翟魏西燕は協力関係でしたが、結局救援しませんでした。

『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容永
登國元年,(中略)進據長子。永僭稱帝,號年中興。
垂攻丁零翟釗於滑臺,釗請救於永,永謀於眾。尚書郎勃海鮑遵曰:「(略)」中書侍郎太原張騰曰:「(略)」(中略)釗敗降永,永以釗為車騎大將軍、東郡王。歲餘,謀殺永,永誅之。

その時の議論で(冀州)勃海人の鮑遵と(并州)太原人の張騰が登場します。
鮑遵は(冀州)長楽の馮安の一族と同じように上党に移動・移住していたか、(前燕→)前秦に仕えていたところどこかで西燕に合流したのか。
張騰は現地採用?

『魏書』巻三十三、張済伝
張濟,字士度,西河人也。父千秋,慕容永驍騎將軍。永滅,來奔。太祖善之,拜建節將軍,賜爵成紀侯。


(并州)西河の張千秋も現地採用っぽいですね。


『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝、慕容永
遣其龍驤將軍張崇攻弟武鄉公友於晉陽,遣其尚書令刁雲率眾五萬屯潞川。停鄴,月餘不進,乘詭道伐之,乃攝諸軍還於太行軹關。進師,入自木井關,攻從子征東將軍小逸豆歸、鎮東將軍王次多於臺壁。遣其從兄太尉大逸豆歸救次多等,將平規擊破之。率眾五萬與戰於臺壁南,為所敗,奔還長子,嬰城固守。大逸豆歸部將潛為內應,勒兵密進,奔北門,為前驅所獲,數而戮之,并斬公卿已下刁雲、大逸豆歸等三十餘人。所統新舊民戶,及服御、圖書、器樂、珍寶,盡獲之。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十八年
(十月)
燕主垂議伐西燕,諸將皆曰:「未有釁,我連年征討,士卒疲弊,未可也。」范陽王德曰:「既國之枝葉,又僭舉位號,惑民視聽,宜行先除之,以壹民心。士卒雖疲,庸得已乎!」曰:「司徒意正與吾同。吾比老,叩囊底智,足以取之,終不復留此賊以累子孫也。」遂戒嚴。
十一月,發中山步騎七萬,(中略)十二月,至鄴。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十九年
(二月)
燕主垂留清河公會鎮鄴,發司、冀、青、兗兵,遣太原王楷出滏口,遼西王農出壺關,自出沙庭,以擊西燕,標榜所趣,軍各就頓。西燕主永聞之,嚴兵分道拒守,聚糧台壁,遣從子征東將軍小逸豆歸、鎮東將軍王次多、右將軍勒馬駒帥眾萬餘人戍之。


『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十九年
(八月)
西燕主永困急,遣其子常山公弘等求救於雍州刺史郗恢,並獻玉璽一紐。恢上言:「(略)」帝以為然,詔青、兗二州刺史王恭、豫州刺史庾楷救之。(中略)又告急於魏,魏王珪遣陳留公虔、將軍庾岳帥騎五萬東渡河,屯秀容,以救之。(中略)晉、魏兵皆未至,大逸豆歸部將伐勤等開門內兵,人執,斬之,並斬其公卿大將刁雲、大逸豆歸等三十餘人,得所統八郡七萬餘戶及秦乘輿、服御、伎樂、珍寶甚眾。


393年11月、後燕慕容垂は歩騎7万を動員して西燕征伐を開始。連年の戦による疲弊から反対する意見もありましたが、慕容垂の弟の慕容徳の賛同もあって決行。
後燕は北部の晋陽の慕容友を攻撃しつつ、慕容垂自身は鄴の付近で一旦停止。西燕は上党への進軍ルートを読めず、出撃させていた刁雲慕容鐘の5万や慕容逸豆帰(小)・王次多勒馬駒の1万などで後燕を阻むことに失敗、諸軍を引き戻して自ら精鋭5万で迎撃することにします。
慕容垂は鄴に次男の慕容会を残して出撃し、上党に入ると慕容楷慕容農(・平規慕容国)ら諸将と共に西燕を大破し、首都の長子を包囲。
西燕東晋北魏に救援を要請し、両国とも軍を派遣したのですが、到着する前に内応により長子が陥落してしまいました。

かくして、394年8月に西燕は滅亡。

慕容永刁雲慕容逸豆帰(大)ら重臣は処刑され、支配していた8郡7万戸と長安から持ってきた前秦の(最高峰の)遺産は後燕のものとなりました。

慕容永が上党で即位して9年目。これは馮安が仕官していた期間の最大値でもありますね。

タグ:西燕 北燕 東晋 後燕 北魏 夏国

西燕と北燕2

386年末に上党の長子で慕容永が皇帝に即位。これが西燕
上党に移住していた馮安は時期不明ですが、この西燕に仕え、将軍となりました。


当初、西燕は東の冀州を支配する後燕慕容垂に称藩。ただ、皇帝即位と共に対立。
また、元々并州を支配していた前秦一派はおそらく短期間で排除されたと思われます。
北には、同年に建国された北魏拓跋珪。この一族は長らく当地に勢力を持っていた勢力。
西は前秦残党と争う後秦姚萇西燕が一時占領していた長安に本拠を置いています。
南は大国の東晋。ただ、この地域は主要拠点の揚州・荊州から離れており、支配は不安定でした。
東南には丁零の翟遼翟魏)。後燕東晋に挟まれ、苦戦。
西北には鉄弗部の劉衛辰北魏とは代々対立していました。
そして鉄弗部の東には同族の独孤部の劉顕がおり、これも北魏と対立。

さて、慕容永による長安からの東遷に従っていた中には、「慕容垂の孫の慕容盛」と「拓跋珪の叔父の拓跋窟咄」がいました。

『晋書』巻一百二十四、慕容盛載記
盛字道運,寶之庶長子也。少沈敏,多謀略。苻堅誅慕容氏,盛潛奔于沖。及沖稱尊號,有自得之志,賞罰不均,政令不明。盛年十二,謂叔父柔曰:「(略)」俄而沖為段木延所殺,盛隨慕容永東如長子,謂柔曰:「(略)」於是與柔及弟會間行東歸于慕容垂。(中略)歲餘,永誅儁、垂之子孫,男女無遺。盛既至,垂問以西事,畫地成圖。垂笑曰:「(略)」於是封長樂公。驍勇剛毅,有伯父全之風烈。

慕容盛は長子に到着した後に叔父と共に脱出し、慕容垂に合流して長楽公とされました(387年4月)。馮安の本籍、長楽郡の郡公ですね。
この頃に西燕では領内に居た慕容垂の血筋を皆殺しにしており、西燕後燕は決裂したようです。

次は拓跋窟咄

『魏書』巻二、道武帝紀、登国元年
初,帝叔父窟咄為苻堅徙于長安,因隨慕容永以為新興太守。八月,劉顯遣弟亢泥迎窟咄,以兵隨之,來逼南境。於是諸部騷動,人心顧望。帝左右于桓等,與諸部人謀為逆以應之。事泄,誅造謀者五人,餘悉不問。帝慮內難,乃北踰陰山,幸賀蘭部,阻山為固。遣行人安同、長孫賀使于慕容垂以徵師,垂遣使朝貢,并令其子賀驎帥步騎以隨同等。
冬十月,賀驎軍未至而寇已前逼,於是北部大人叔孫普洛等十三人及諸烏丸亡奔衞辰。帝自弩山遷幸牛川,屯于延水南,出代谷,會賀驎於高柳,大破窟咄。窟咄奔衞辰,衞辰殺之,帝悉收其眾。十二月,慕容垂遣使朝貢,奉帝西單于印綬,封上谷王。帝不納。
是歲,慕容垂僭稱皇帝於中山,自號大燕。苻丕死,苻登自立於隴東。姚萇稱皇帝於長安,自號大秦。慕容沖為部下所殺。慕容永僭立。

386年8月、慕容永によって新興太守とされた拓跋窟咄を独孤部の劉顕が迎え入れ、そのまま北魏の南に進出させます。これに北魏内部は動揺、拓跋珪は北に逃れ、後燕に援軍を要請。
(時期は慕容永が并州南部の上党に割拠する前。新興は并州の北部の郡ですね)
10月、後燕慕容麟拓跋珪は合流して拓跋窟咄を撃破し、拓跋窟咄の一派は劉衛辰の元に逃亡しました。

いきなり北魏が滅亡しかける出来事。この原因となった独孤部の劉顕西燕は協力関係にあったようです。

『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十二年
(八月)
劉衞辰獻馬於燕,劉顯掠之。燕主垂怒,遣太原王楷將兵助趙王麟擊顯,大破之。顯奔馬邑西山。魏王珪引兵會麟擊顯於彌澤,又破之。顯奔西燕,麟悉收其部衆,獲馬牛羊以千萬數。

翌387年に後燕北魏に撃破された劉顕西燕に逃れていますね。独孤部はこれで没落。
残る北の大勢力は鉄弗部と北魏

『魏書』巻九十五、鉄弗劉虎伝、劉衛辰
慕容永之據長子,拜衞辰使持節、都督河西諸軍事、大將軍、朔州牧,居朔方。姚萇亦遣使結好,拜衞辰使持節、都督北朔雜夷諸軍事、大將軍、大單于、河西王、幽州牧。

鉄弗部の劉衛辰慕容永から官爵を受けていましたが、後秦とも同様の関係であり、後燕にも馬を献上したりしています。後秦西燕は争ったりしており、後燕西燕の仲も冷え切っていたことから、いずれの勢力にも接近されると、外交的には余り頼りになりませんね。3股。

残る協力可能な周辺勢力は後燕とも東晋とも戦っていた翟魏

『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十四年
(十月)
燕樂浪悼王溫爲冀州刺史,翟遼遣丁零故堤詐降於溫帳,乙酉,刺溫,殺之,幷其長史司馬驅,帥守兵二百戶奔西燕。燕遼西王農邀擊刺溫者於襄國,盡獲之,惟堤走免。

389年10月に翟魏が送り込んだ者が後燕の冀州刺史を暗殺。そこから逃走した先が西燕。(慕容農に妨害されましたが)
ちなみに後燕の冀州が(長楽の)信都を治所としていたようですね。

『資治通鑑』巻一百七、晋紀二十九、太元十五年
(正月)
西燕主永引兵向洛陽,朱序自河陰北濟河,擊敗之。序追至白水,會翟遼謀向洛陽,序乃引兵還,擊走之;留鷹揚將軍朱黨戍石門,使其子略督護洛陽,以參軍趙蕃佐之,身還襄陽。

また、390年1月に西燕東晋が衝突した際には翟魏東晋を攻撃しています。
西燕東晋の洛陽を狙おうとする→東晋朱序が出撃し、むしろ追撃して上党まで進出→その隙きに翟魏が洛陽を狙う→朱序が引き返して翟魏を追い払う
という流れ。

西燕翟魏は連携していたようです。弱小勢力の生存戦略?
一方、いきなり死にかけた北魏後燕の後援を受けつつ周辺の諸部族を撃破・吸収して回っており、最初は後ろ盾だった賀蘭部も屈服させ、柔然・鉄弗部(劉衛辰)に並ぶ北方の強国となっていました。

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