魏晋南北30年、十六国編

興亡の激しい五胡十六国時代の30年は濃密です。残念ながら記録が残っておらず、部分的にしか分からないものも多いのですが。

前趙劉淵西晋の将軍として部族を率いた頃から約30年で建国と西晋撃破を成し遂げた末、自立した後趙により滅ぼされました。299年~329年。

後趙石勒が趙王に即位してから約30年で華北の覇者となり、滅亡の引き金となる君主石虎の死を迎えました。319年~349年。

成漢李雄の成都王即位から約30年で巴蜀を平定し、李雄の長き治世の終わりを迎えました。304年~334年。

前涼は4代目張駿の死から約30年で9代目張天錫の代となり、前秦に滅ぼされました。346年~376年。

前燕慕容皝の燕王即位から約33年で子の慕容儁の皇帝即位を経て、孫の慕容暐の代に前秦に滅ぼされました。337年~370年。

前秦は建国から約32年で3代目苻堅による華北統一を達成しますが、その崩壊の引き金となる淝水の大敗が起きました。351年~383年。

淝水の戦いから約30年で後燕後秦西秦後涼南涼北涼南燕西涼北燕などが建国され、後燕後涼南燕が滅亡しました。383年~413年。

前燕慕容垂は洛陽攻略に従軍してから約31年で前燕前秦の臣下時代を経て後燕を建国し、北魏征伐の帰路70歳で死去。365年~396年。

後秦は建国から約33年で3代の皇帝が立ち、関中・中原を支配しましたが、東晋劉裕により滅ぼされました。384年~417年。

前秦呂光が西域遠征に出てから約31年で、帰国した呂光による涼州・河西統一と後涼建国、自立した禿髪烏孤南涼沮渠蒙遜北涼李暠西涼の建国、そして後秦による後涼の滅亡と北涼西秦による南涼の滅亡がありました。383年~414年。

北涼沮渠蒙遜は君主となってから約32年で西涼を滅ぼして河西を統一し、北魏に称藩して涼王となり、66歳で死去。401年~433年。

西秦は2代目乞伏乾帰後秦に降伏してから約31年で再興して南涼などを平らげましたが、4代目乞伏慕末の代でにより滅亡しました。400年~431年。

北魏に敗れた劉衛辰が殺されてから約30年で息子の赫連勃勃を建国し、関中を得て皇帝となりましたが、3代目赫連定の代で北魏吐谷渾により滅亡しました。391年~431年。

北燕馮跋後燕で挙兵して慕容雲高雲)を立ててから約30年で北燕北魏によって滅亡し、2代目馮弘が高句麗で殺されました。407年~438年。

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南涼の嶺南平定3

『資治通鑑』巻一百一十、晋紀三十二、隆安二年
左司馬趙振曰:「楊軌新敗,呂氏方強,洪池以北,未可冀也,嶺南五郡,庶幾可取。大王若無開拓之志,振不敢言;若欲經營四方,此機不可失也。使羌得西平,華、夷震動,非我之利也。」

趙振の発言にはいくつか興味深い情報があります。

まず、落ち目の後涼(呂氏)に対して手強いとしており、(南涼が支援していた)楊軌が敗れたばかりであり、(後涼楊軌が争っていた)洪池以北を狙うべきではないとしています。

『晋書』巻一百二十六、禿髪烏孤載記
隆安元年,自稱大都督、大將軍、大單于、西平王,赦其境內,年號太初。曜兵廣武,攻克金城。光遣將軍竇苟來伐,戰於街亭,大敗之。

南涼は広武・金城に進出し、その北の街亭で後涼を大破し、さらに北(洪池以北)の姑臧で戦っていた郭黁楊軌らに重鎮を送り込んで支援していました。当初の南涼は広武から洪池以北を狙うという戦略だったと思われます。
趙振は代わりに嶺南五郡を取るべきと述べます。これは洪池嶺南の5郡、資治通鑑の注では広武・西平・楽都・澆河・湟河のこととしています。しかし広武は既に南涼が進出し活動している地域であり、他に三河郡なども嶺南にあった可能性があるので、別の組み合わせのような気もします。

そして、「南涼建国と西秦」で指摘したように、

『晋書』巻一百二十五、乞伏乾帰載記
禿髮烏孤遣使來結和親。使乞伏益州攻克支陽、鸇武、允吾三城,俘獲萬餘人而還。

南涼が使者を出して和親した西秦が支陽・鸇武・允吾3城を攻め破り、万余りの捕虜を連れ去っていました。
資治通鑑ではこれを398年正月の出来事としていますが、また注釈で支陽が広武、允吾が金城にあったとしています。南涼が北の姑臧方面に介入している最中に、南の進出した領域に西秦が侵攻していたということですね。
思うに、楽都・澆河・湟河には後涼の勢力が残っており、彼らが南涼が北に向かった裏で広武・金城を回復し、それに対して南涼西秦の支援を求めて3城撃破につながったということはないでしょうか。
洪池以北を狙った南涼は地盤を固めることができず、本拠の廉川にも楊軌梁飢の進出を許してしまうような状態だったとすると、梁飢を破ったことによる嶺南諸郡の獲得は非常に重大な成果だったことになりますね。

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後涼の撤退と解氷

郭黁伝に西秦征伐に出た後涼が撤退時期に関する情報があります。

『晋書』巻九十五、芸術伝、郭黁
光將伐乞伏乾歸,黁諫曰:「今太白未出,不宜行師,往必無功,終當覆敗。」太史令賈曜以為必有秦隴之地。及克金城,光使曜詰黁,黁密謂光曰:「昨有流星東墜,當有伏尸死將,雖得此城,憂在不守。正月上旬,河冰將解,若不早渡,恐有大變。」後二日而敗問至,光引軍渡河訖,冰泮。時人服其神驗。光以黁為散騎常侍、太常。

後涼が金城を攻略すると、征伐(開始)時に失敗に終わると述べていた郭黁に対して呂光が人を使って詰問しており(近くには居たようですが)、その際(又はすぐ後?)に郭黁呂光に「正月上旬には黄河の氷が溶けだすので、(撤退のために)早めに渡らないと一大事になる」といったことを述べ、その2日後に敗報が届き(おそらく先鋒呂延の敗北)、後涼軍が黄河を渡り終えた頃に氷が溶け出していたそうです。


記述をそのままに捉えると、金城攻略の2日後に呂延の敗北(の報せ)があったことになりますね。
さらには正月上旬の解氷に間に合って退却できているので、「元日かその数日以内に南岸金城制圧、そこから数日(から十日)以内に南岸金城から撤退」か「前年末に南岸金城制圧、年初に南岸金城から撤退」となるでしょう。

私としては話が盛ってあり、実際にあったとしても期間はもう少し広かったと思うのですが、撤退に「黄河の氷結」が重要な要素だったとすると、侵攻でも同様であり、凍っていたであろう期間から、やはり前年冬から西秦征伐が始まっていた見解の傍証にはなるでしょう。

南岸金城を制圧した後涼主力軍は正月前半に撤退していたとなると、禿髪烏孤の即位は後涼の敗退に対する反応である可能性が高まり、晋書帝紀の「3月に呂纂乞伏乾帰に敗れた」のは時期が間違っている可能性も増すでしょう。


また、呂光が(たかが)先鋒の敗戦だけで撤退に踏み切ったのは、撤退困難な中で継戦することのリスクを避けたためなのかもしれませんね。

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南涼建国と西秦

資治通鑑では397年1月に「西秦後涼撃退」と「南涼建国」が発生しています。
晋書の帝紀では、南涼建国が2月、西秦後涼撃退が3月のようです。
おおよそ春頃にこの2つの出来事があったのでしょう。

南涼は建国(禿髪烏孤の即位)後、広武→金城と進出し(南下)、さらに後には街亭で後涼軍に勝利しています(北上)。
これらは後涼の国土の東南部にあり、結果的に首都圏と西南部を遮断し、後涼に首都圏より南を失わせることになったでしょう。

同時に、南涼後涼に南接していた西秦と新たに隣接するようになったはずです。

『晋書』巻一百二十五、乞伏乾帰載記
乃縱反間,稱秦王乾歸眾潰,東奔成紀。延信之,引師輕進,果為乾歸所敗,遂斬之。
禿髮烏孤遣使來結和親。使乞伏益州攻克支陽、鸇武、允吾三城,俘獲萬餘人而還。

晋書の西秦側の記録では、「後涼撃退」の次に「南涼からの和親の使者」の記述があり、その次に「支陽・鸇武・允吾3城への侵攻」が載っています。

『資治通鑑』巻一百十、晋紀三十二、隆安二年
(正月)西秦王乾歸遣乞伏益州攻涼支陽、鸇武、允吾三城,克之;虜萬餘人而去。

資治通鑑によると、「支陽・鸇武・允吾3城への侵攻」は「後涼撃退」のちょうど1年後。

本来の金城郡は黄河の南北に広がっており、396年までは北岸側が後涼領、南岸側が西秦領でした。
西秦が侵攻した3城は北岸側の金城の一部ですね。
南涼が攻め破った場所と被っているような?
ここが侵攻時に後涼だったとすると、「後涼南涼から取り返していた」「南涼はほとんど占領していなかった」「侵攻は南涼進出前だった」などの理由があるはずです。
南涼領というパターンもありますが、やはり後の南涼西秦の対応から早々に関係が悪化するような展開の可能性は低いでしょう。

いずれにしても西秦南涼よりも強かったと思われます。南涼建国が後涼撃退の一助となった可能性があるとしても、両勢力の先祖では南涼側が格上だったとしても、当時は西秦のほうが確たる勢力を築いていたはずです。西秦はまともな勢力を築き上げてから10年以上経っており、吐谷渾に対する遠征を行う余力もありました。一方の南涼は嶺南五郡の獲得に1年半以上かかっており、後涼に殴り掛かる勢いはあったものの、勢力としては西秦ほど成熟しては居なかったでしょうね。
「禿髮烏孤遣使來結和親」というのがまさに当時の力関係を表しているものでしょう。

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竇苟の連戦

『晋書』巻一百二十二、呂光載記
光於是次于長最,使呂纂率楊軌、竇苟等步騎三萬攻金城。乾歸率眾二萬救之。(中略)呂纂克金城,(中略)乾歸(中略)乃縱反間,稱乾歸眾潰,東奔成紀。呂延信之,引師輕進。(中略)與乾歸相遇,戰敗,死之。耿稚及將軍姜顯收集散卒,屯于枹罕。光還于姑臧。

後涼西秦征伐時の主力は金城を攻略した3万の軍勢でしょう。総大将呂光直属から出された軍であり、大将は庶長子の呂纂です。
そこには楊軌竇苟などの著名な将軍も参加しています。

さて、後涼軍はまもなく先鋒の呂延乞伏乾帰に大敗・戦死したことをきっかけとして退却することになりました。呂光は姑臧に帰還しましたが、竇苟も同行したのでしょうか。

『資治通鑑』巻一百九、晋紀三十一、隆安元年
光亦引兵還姑臧。禿髮烏孤自稱大都督、大將軍、大單于、西平王,大赦,改元太初。治兵廣武,攻涼金城,克之。涼王光遣將軍竇苟伐之,戰于街亭,涼兵大敗。

資治通鑑ではその直後で同月中の記述に「竇苟が自立した南涼を討伐し、大敗した」ことを載せています。

北から街亭に進んだとしたら、姑臧への帰還に同行したはず(姑臧には入城していないかもしれませんが)。
南から街亭に向かっていたとしたら、まだ西秦近くの前線側に居たことになるでしょう。

竇苟
らが街亭で戦う前に南涼は金城で勝利しており、竇苟西秦近くに居たとすると両陣営とも後涼首都方面へ移動してから決戦したことになります。
竇苟が撤退する途中だったのか、首都の姑臧を狙った南涼を阻もうとしたのか。

そして北からの場合でも、南涼が北上したのを後涼が迎撃したのか、後涼の南下に対して南涼が打って出たのか、2パターン想定されます。
「涼王光遣將軍竇苟伐之」や「光遣將軍竇苟來伐」といった表現から、「後涼の南下」が決戦の引き金だった可能性が最も高いですが、他の展開も十分にありうるでしょう。

なお、この「竇苟の連戦」から「西秦の金城陥落」と「街亭の戦い」が同月だった可能性はかなり低いと私は考えています。


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