鄧至羌の由来

南北朝時代の周辺勢力の中に羌族が率いる「鄧至」という国がありました。

『南史』巻七十九、夷貊伝下、西戎、鄧至国
鄧至國,居西涼州界,羌別種也。世號持節、平北將軍、西涼州刺史。宋文帝時,王象屈耽遣使獻馬。梁天監元年,詔以鄧至王象舒彭為督西涼州諸軍事,進號安北將軍。五年,舒彭遣使獻黃耆四百斤,馬四匹。其俗呼帽曰突何。其衣服與宕昌同。


『北史』巻九十六、四夷伝下、鄧至
鄧至者,白水羌也,世為羌豪,因地名號,自稱鄧至。其地自亭街以東,平武以西,汶嶺以北,宕昌以南,土風習俗,亦與宕昌同。其王像舒治遣使內附,高祖拜龍驤將軍、鄧至王,遣貢不絕。周文命章武公導率兵送之。

君主は象屈耽像舒治象舒彭など「象氏」。
鄧至の由来はそこの地名によるものとあります。

鄧至は仇池氐の西、宕昌羌の南におり、南北朝どちらにも遣使していましたが、西魏北周の頃に滅亡したようです。

『旧唐書』巻四十一、地理志四、剣南道、扶州
同昌
歷代吐谷渾所據。西魏逐吐谷渾,於此置鄧州及鄧寧郡,蓋以平定鄧至羌為名。隋初,改置扶州及同昌縣。煬帝又為同昌郡。流於此也。

その故地には鄧州と鄧寧郡が置かれました。
鄧至羌を平定してできた州と郡なので、鄧州と鄧寧郡。そのままですね。
後に鄧州は扶州に改称し、また同昌県や同昌郡が置かれました。


また、この地域には「鄧至山」がありました。これが「鄧至」の由来でしょう。

『隋書』巻二十九、地理志上、梁州、同昌郡
同昌郡<西魏逐吐谷渾,置鄧州。開皇七年改曰扶州。統縣八,戶一萬二千二百四十八。>
(中略)
同昌<西魏置。有鄧至山,云鄧艾所至,故名焉。>

そして鄧至山は「鄧艾が至った場所」だったため、名付けられたそうです。

つまり、遡ると鄧艾が鄧至羌の由来だったことになります。
種族名・勢力名として残るとは本人も夢にも思っていなかったでしょうね。

(鄧艾→鄧至山→鄧至羌→鄧州・鄧寧郡)

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東魏の堯雄

『魏書』巻四十二、堯暄伝
堯暄,字辟邪,上黨長子人也。本名鍾葵,後賜為暄。祖僧賴,太祖平中山,與趙郡呂舍首來歸國。
暄聰了,美容貌,為千人軍將、東宮吏。高宗以其恭謹,擢為中散。奉使齊州,檢平原鎮將及長史貪暴事,推情診理,皆得其實。除太尉中給事、兼北部曹事,後轉南部。太和中,遷南部尚書。于時始立三長,暄為東道十三州使,更比戶籍。賜獨車一乘,廐馬四匹。時蕭賾遣其將陳顯達寇邊,以暄為使持節、假中護軍、都督南征諸軍事、平陽公。軍次許昌,會陳顯達遁走,暄乃班師。暄前後從征及出使檢察三十餘許度,皆有克己奉公之稱。賞賜衣服二十具、綵絹十匹、細絹千餘段、奴婢十口,賜爵平陽伯。及改置百官,授太僕卿。車駕南征,加安南將軍。轉大司農卿。太和十九年,卒於平城。高祖為之舉哀。贈安北將軍、相州刺史,賻帛七百匹。
初,暄使徐州,見州城樓觀,嫌其華盛,乃令往往毀撤,由是後更損落。及高祖幸彭城,聞之曰:「暄猶可追斬。」
暄長子洪,襲爵。鎮北府錄事參軍。
子桀,字永壽。元象中,開府儀同三司、樂城縣開國公。
洪弟遵,伏波將軍、河州冠軍府長史、臨洮太守。卒,贈龍驤將軍,諡曰思。
遵弟榮,員外散騎侍郎。
子雄,字休武。元象中,儀同三司、豫州刺史、城平縣開國公。
雄弟奮,字彥舉。興和中,驃騎將軍、潁州刺史。
奮弟難宗,武定中,征西將軍、南岐州刺史、征羌縣開國伯。


堯雄は上党・長子の出身。東魏諸将の中では特に内地側の出身ですね。
高祖父は北魏道武帝後燕に侵攻した後から仕え、祖父の堯暄孝文帝の南征に従軍して最後は九卿に登ったという人物でした。
堯暄の長男の子の堯桀堯雄の従兄。
堯暄の子が堯雄堯奮堯難宗。4人とも東魏に仕えました。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
堯雄,字休武,上黨長子人也。祖暄,魏司農卿。父榮,員外侍郎。雄少驍果,善騎射,輕財重氣,為時輩所重。永安中,拜宣威將軍、給事中、持節慰勞恒燕朔三州大使。仍為都督,從叱列延討劉靈助,平之,拜鎮東將軍、燕州刺史,封城平縣伯,邑五百戶。
義旗初建,雄隨尒朱兆敗於廣阿,遂率所部據定州以歸高祖。時雄從兄傑,尒朱兆用為滄州刺史,至瀛州,知兆敗,亦遣使歸降。高祖以其兄弟俱有誠欵,便留傑行瀛州事。尋以雄為車騎大將軍、瀛州刺史以代傑,進爵為公,增邑五百戶。于時禁網疏闊,官司相與聚斂,唯雄義然後取,復能接下以寬恩,甚為吏民所懷附。

堯雄は当初は北魏孝荘帝に仕えて恒燕朔三州大使となり、(孝荘帝死後の)531年春に定州で劉霊助を討ち、燕州刺史となり城平県伯に封爵。この頃は洛陽以北、特に河北で活動していました。
劉霊助平定では堯雄は都督恒雲燕朔・山東行台の叱列延慶の下で参戦し、他に定州刺史侯淵が参加していました)
その夏に高歓が冀州で挙兵し、西南の広阿(殷州)を制圧。秋に并州から東進した爾朱兆が殷州を奪還し、冬に両軍が衝突。爾朱兆は号10万の大軍を率いましたが猜疑心により他の同族から支援が得られず、高歓に大破されました。
侯淵堯雄兄弟は爾朱兆側で参戦していましたが、ここで敗れると北隣の定州に戻って州ごと高歓に降伏。また従兄の堯桀も東隣の瀛州で高歓に帰順し、堯雄は瀛州刺史・城平県公とされます。
時に33歳。
彼らが冀州の北ごと高歓に降ったので、高歓がそのまま南下して爾朱氏らとの戦いに専念できたわけですから、大きな役割を果たしたといえるでしょう。

高歓は532年に爾朱氏を倒し、孝武帝を擁立して北魏で大権を掌握。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。

534年夏~秋に高歓孝武帝が決裂した際には、堯雄は瀛州刺史を離任していたものの并州刺史や相州刺史の軍勢と行動を共にする立場だったらしく、晋陽~鄴の辺りにいたようです。
秋に孝武帝が西の関中に逃れると高歓は洛陽を制圧して西にも対応しつつ、侯景高昂らに南の荊州刺史賀抜勝を討たせました。堯雄も三荊の平定に参加し、それから二豫揚郢四州都督・豫州刺史となります。
(豫州を拠点とし、南の東豫州、東?の揚州、南の郢州などに接する地域を管轄)
534年冬に東魏が成立。
そこから「独孤信の三荊平定2」で述べたように(豫州の北の)潁州の「元洪威の乱」で潁川で趙継宗が挙兵すると堯雄が討伐。
東魏初頭、豫州の西北にある洛陽南側の山岳地帯には西魏側につく勢力がおり、慕容紹宗らが討伐したものの滅ぼすことができていませんでした。また黄河以南はさらに東の地域にも反乱者が何度が発生しており、そこにの北伐が加わって不安定な情勢でした。

534年末に始まったの北伐。元慶和を擁して進められ、半年以上続きました。
李洪芝王当伯が平郷城を破って豫州に侵攻して来たところを堯雄が伏兵で一網打尽にしたというのは、その北伐軍との戦いの一貫でしょう。
平郷は南頓のすぐ西にある地名であり、豫州治所の懸瓠城の東北側。李洪芝らは項城(南頓の東隣の前線)を制圧した湛僧智らの先鋒だったのでしょう。
続いて陳慶之が州城に迫ると、堯雄は出撃して戦い「所向披靡」(向かう所敵なし/当たるを幸いなぎ倒す)のような奮戦で堯雄自身が2箇所負傷したものの勢いは凄まじく、陳慶之は敗れて輜重を捨てて逃走。
帝紀では535年2月21日に「蕭衍司州刺史陳慶之寇豫州,刺史堯雄擊走之。」とあり、この時のことでしょう。
そして元慶和を魏王として南境に侵攻すると、堯雄は軍を率いて元慶和を討ち、南頓で大破しました。帝紀では6月に「元慶和寇南豫州,刺史堯雄大破之。」とありますが、正しくは「元慶和寇南頓,豫州刺史堯雄大破之。」なのでしょう。
列伝ではこれらを一連の戦いの別個のように書いていますが、すべて「元慶和の北伐」に関するものですね。

この年の堯雄は「州城」、豫州治所の懸瓠城と南頓を短期間で往復して戦っていたようです。
時に36歳。(陳慶之は52歳)

また陳慶之が南荊州を包囲すると、堯雄は「の北面重鎮」である白苟堆が手薄であるとして攻撃をかけ、陳慶之に南荊州を諦めて白苟堆の救援に向かわせた上、536年5月に陥落させました。
(列伝の記述の位置は間違いでしょう)
そして冬の行台侯景の楚城(楚州)制圧にも参加。ただ、直後にこの軍は陳慶之に敗れ、輜重を捨てて逃走することになりました。
堯雄は転任するところを、豫州民が上書して刺史としての留任を求めたため、堯雄はまた行豫州事とされました。

この年の終わりから東魏の間で使者の往来と和議が始まります。そして翌年から西魏との戦いに突入。


『北斉書』巻二十、堯雄伝
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。育,寶各還本州,據城降敵。雄收集散卒,保大梁。周文帝因延敬之敗,遣其右丞韋孝寬等攻豫州。雄都督郭丞伯、程多寶等舉豫州降敵,執刺史馮邕並家屬及部下妻子數千口,欲送之長安。至樂口,雄外兵參軍王恒伽、都督赫連儁等數十騎從大梁邀之,斬多寶,拔雄等家口還大梁。西魏以丞伯為潁川太守,雄仍與行臺侯景討之。雄別攻破樂口,擒丞伯。進討懸瓠,逐西魏刺史趙繼宗、韋孝寬等。復以雄行豫州事。西魏以是云寶為揚州刺史,據項城;義州刺史韓顯據南頓。雄復率眾攻之,一日拔其二城,擒顯及長史丘岳,寶遁走,獲其妻妾將吏二千人,皆傳送京師。加驃騎大將軍。仍隨侯景平魯陽,除豫州刺史。

537年春、西魏に侵攻した高歓の主力・竇泰が敗死。冬、高歓は再び攻め込みますが「沙苑の戦い」で大敗。西魏は逆侵攻し、独孤信らが洛陽を制圧。
そこへ潁州長史賀若統が潁州刺史田迅を捕らえて西魏に呼応。東魏は行台任祥堯雄・広州刺史趙育・揚州刺史是云宝らを率いさせて攻撃させますが、西魏怡峯らに敗れ、さらに趙育是云宝がそれぞれの州で西魏に寝返るという事態になります。(寡兵の宇文貴堯雄らが大敗し、さらに宇文貴怡峯任祥も撃破されたという流れ)
豫州もまた西魏韋孝寛が攻め込んでくると堯雄の配下の郭丞伯程多宝らが寝返って豫州刺史馮邕を捕らえて降伏。この時、堯雄は大梁(梁州、潁州の北)におり、まず部下に程多宝を討ち取らせると、次に行台侯景と共に攻めて潁州で郭丞伯を捕らえ、豫州から趙継宗韋孝寛を追い払い、是云宝らが占拠する項城・南頓も攻め落とし、魯陽の奪還にも参加してまた豫州刺史となりました。
豫州などの奪還は翌538年春のことで、行台任祥・大行台侯景・司徒高昂・大都督万俟受洛干などの大物が多数投入された作戦でした。
東魏は同年秋の「河橋の戦い」で勝利して西魏を追い返しますが高昂の死などの犠牲も大きく、さらには冬に洛陽が再奪還されてしまいます。堯雄はこの戦いには不参加のようですが、再占領した豫州一帯の押さえとして動かせなかったのではないでしょうか。

(ちなみに539年に陳慶之が死去)


『北斉書』巻二十、堯雄伝
雄雖武將,而性質寬厚,治民頗有誠信,為政去煩碎,舉大綱而已。撫養兵民,得其力用,在邊十年,屢有功績,豫人於今懷之。又愛人物,多所施與,賓客往來,禮遺甚厚,亦以此見稱。興和三年,徵還京師,尋領司、冀、瀛、定、齊、青、膠、兗、殷、滄十州士卒十萬人,巡行西南,分守險要。四年,卒於鄴,時年四十四。贈使持節、都督青徐膠三州軍事、大將軍、司徒公、徐州刺史,諡武恭。

堯雄は541年まで豫州を統治した後、首都・鄴に召喚されます。10州の兵10万を西南に配備し、542年に死去。享年44歳。
同年8月に侯景が河南道大行台となり、豫州を中心に河南の広範囲(13州)を管轄するようになりました。

その翌年に東魏はまた西魏の侵攻を受けたところ「邙山の戦い」で大破して洛陽一帯を回収。
そして数年後に侯景による3国を巻き込む大波乱が幕を開けることになります。

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陳慶之vs東魏5

536年の前半と後半に梁の陳慶之と東魏の侯景・堯雄らの攻防があったことについて、「陳慶之vs東魏3」「陳慶之vs東魏4」でまとめました。

気になるのが、それぞれの背景、関連性、そして戦果です。


5月の堯雄の白苟堆占領により、陳慶之の南荊州包囲は頓挫しました。

『北史』巻六、斉神武帝紀、天平三年
九月辛亥,汾州胡王迢觸、曹貳龍聚眾反,署立百官,年號平都,神武討平之。

その4ヶ月後に始まった侯景の南征ですが、開始の9日後に高歓が西討しており、東魏はせっかくの南征に専念していないようです。
このタイミングで侯景率いる諸軍だけが動いたとなると、それで勝てる見込みがあった、又は外的な要因で動く必要があったのではないかと疑いたくなります。
何かを当てにして、又は「目的地の動き」を切っ掛けにして南征が行われたのではないでしょうか。

『魏書』巻十二、孝静帝紀、天平三年
二月丁未,蕭衍光州刺史郝樹以州內附。(中略)
秋七月庚子,大赦天下。蕭衍夏州刺史田獨鞞、潁川防城都督劉鸞慶並以州內附。八月,并、肆、汾、建四州隕霜,大飢。九月壬寅,以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,節度諸軍南討。

実はこの年の2月にの光州が東魏に通じ、7月には夏州と「潁川防城都督」も東魏に通じました。(「防城都督」は北朝の官制なのでは??)
この光州も夏州も蛮の区画であり、どうやら諸蛮が東魏に帰順するという事件が相次いだようです。
光州は北司州の東、豫州の西の地域。潁川郡は(光州の東南の)霍州にも置かれていました。

『魏書』巻六十一、田益宗伝
田益宗,光城蠻也。


『周書』巻三十、于翼伝
陳將魯天念久圍光州,聞翼到汝南,望風退散。霍州蠻首田元顯,負險不賓,於是,送質請附。

そして光城蛮(光州蛮)にも霍州蛮にも「田氏」の首長がいました。

これらはの「北司州の東かつ西豫州の南」の諸蛮が多い地域でしょう。
侯景はこれらの諸蛮に乗じて攻め込んできたのでしょうか。そして陳慶之が撃退したので、実際に州を併呑することはできなかったとか?


しかし楚州は北司州の北西にあり、南荊州も少なくとも北司州の西側にあったと思われます。
むしろ逆側ですね。

『梁書』巻二十八、夏侯亶伝、夏侯夔
六年,轉使持節、督豫淮陳潁建霍義七州諸軍事、豫州刺史。豫州積歲寇戎,人頗失業,夔乃帥軍人於蒼陵立堰,溉田千餘頃,歲收穀百餘萬石,以充儲備,兼贍貧人,境內賴之。


『梁書』巻三十二、陳慶之伝
中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。

地域としては豫州刺史夏侯夔が都督する建州霍州義州などの西部かさらに西、陳慶之が都督する北司州の東かつ西豫州の南。おおよそ両者の境界上。どちらが担当だったのでしょうか?


西側の蛮で有力なのは大陽蛮の桓氏。その基盤から、北魏の南荊州などが設置されました。
「隨郡太守桓和」で述べたように、楚州刺史の桓和がその関係者だった可能性があります。
陳慶之は離反する「東の蛮」への対処ではなく、「西の蛮」に関わる地域(南荊州)にまず攻撃をかけ、堯雄の働きにより失敗すると、今度は侯景らが「西の蛮」に対処するために攻め込み、桓和がやられたものの陳慶之は撃退した、ということなのでしょうか。

桓和は後にの同地域で活動しているのが確認できるので、ここで身柄を奪還したのか、後から送還されたのでしょう。

『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同二年
十二月,東魏以并州刺史尉景為太保。
壬申,東魏遣使請和,上許之。
東魏清河文宣王亶卒。
丁丑,東魏丞相歡督諸軍伐魏,遣司徒高敖曹趣上洛,大都督竇泰趣潼關。

11月頃の決着後に東魏西魏への3路攻撃に先駆けてとの和平交渉に取り掛かっています。
東魏との交渉開始の手土産として捕虜の送還を行っており、同様な形で桓和の帰還が実現した可能性はあるでしょう。
(また過去に交渉による「捕虜」のやりとりもありました。ただ「土地」は武力と現地勢力次第)

そして楚州は魏書の州郡志では「西楚州」と呼ばれ東魏の土地としては「緣邊新附地居險遠」とされ、侯景が547年に梁に帰順した時に手土産にしようとした13州にも楚州や西楚州は含まれておらず、おそらく東魏末期に侯景を撃破しの司州(義陽)一帯なども制圧した際に東魏の領土となったようです。

『梁書』巻三十九、羊鴉仁伝
大同七年,除太子左衞率,出為持節、都督南北司豫四州諸軍事、輕車將軍、北司州刺史。

陳慶之の死後に北司州刺史となった羊鴉仁の都督区にも「楚州」が含まれており、やはり奪還に成功したのでしょう。

結果的に、この陳慶之の戦いが最後の停戦前の東魏のまともな衝突となったようです。
陳慶之の勝利が和平交渉にも影響したのかもしれませんね。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同二年
秋,七月,庚子,東魏大赦。
上待魏降將賀拔勝等甚厚,勝請討高歡,上不許。勝等思歸,前荊州大都督撫寧史寧謂勝曰:「朱异言於梁主無不從,請厚結之。」勝從之。上許勝、寧及盧柔皆北還,親餞之於南苑。勝懷上恩,自是見禽獸南向者皆不射之。行至襄城,東魏丞相歡遣侯景以輕騎邀之,勝等棄舟自山路逃歸,從者凍餒,道死者太半。旣至長安,詣闕謝罪,魏主執勝手歔欷曰:「乘輿播越,天也,非卿之咎。」丞相泰引盧柔為從事中郎,與蘇綽對掌機密。
九月,壬寅,東魏以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,督諸將入寇。


『周書』巻三十二、盧柔伝
及孝武西遷,東魏遣侯景襲穰,勝敗,遂南奔梁。柔亦從之。勝頻表梁求歸,武帝覽表,嘉其辭彩。既知柔所製,因遣舍人勞問,并遺縑錦。後與勝俱還,行至襄陽,齊神武懼勝西入,遣侯景以輕騎邀之。勝及柔懼,乃棄船山行,贏糧冒險,經數百里。時屬秋霖,徒侶凍餒,死者太半。至豐陽界,柔迷失道,獨宿僵木之下,寒雨衣濕,殆至於死。
大統二年,至長安。封容城縣男,邑二百戶。

一方で賀抜勝らの西魏への帰還を許可したところ、襄陽に到達した時点で高歓の命により侯景が軽騎兵を出して待ち伏せたことから、賀抜勝らは秋霖に苦しみながらも山道を通って帰国したという出来事がありました。
これ以降、は北朝2国と停戦して平和が実現するのですが、北朝2国の間では戦いが激化します。

さて、「秋」かその前頃に侯景が荊州方面で活動しているというのは、南荊州の救援に関するものの延長上なのではないでしょうか。
さらに言えば、「北還の支援」を名目で北伐するパターンは過去に何度もあり、今回の賀抜勝の帰国も実は陳慶之らの支援があったのではないでしょうか。
本来の南荊州は襄陽と義陽(北司州)の中間にあり、陳慶之が支援のために動く先としてはうってつけです。
そして陳慶之の攻撃が中断された結果、賀抜勝の帰還の支援が不十分となり、彼らが苦労しながら帰国することになったということも考えられます。


5月以前の「陳慶之の南荊州包囲」も冬10月の「侯景の南征」も「の諸蛮」や「賀抜勝の帰国」を巡る戦い・作戦なのかもしれませんね。

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任思祖と荘思延

『梁書』巻二十八、夏侯亶伝、夏侯夔
(普通)八年,敕夔帥壯武將軍裴之禮、直閤將軍任思祖出義陽道,攻平靜、穆陵、陰山三關,克之。是時譙州刺史湛僧智圍魏東豫州刺史元慶和於廣陵,入其郛。魏將元顯伯率軍赴援,僧智逆擊破之,夔自武陽會僧智,斷魏軍歸路。慶和於內築柵以自固,及夔至,遂請降。夔讓僧智,僧智曰:「(略)」於是夔乃登城拔魏幟,建官軍旗鼓,眾莫敢妄動,慶和束兵以出,軍無私焉。凡降男女口四萬餘人,粟六十萬斛,餘物稱是。顯伯聞之夜遁,眾軍追之,生擒二萬餘人,斬獲不可勝數。詔以僧智領東豫州,鎮廣陵。夔引軍屯安陽。夔又遣偏將屠楚城,盡俘其眾,由是義陽北道遂與魏絕。

527年、司州刺史夏侯夔が壮武将軍裴之礼や直閤将軍任思祖を率いて平静・穆陵・陰山の3関を制圧。
この3関は平静(平靖)が含まれているので義陽三関かと思いましたが、穆陵・陰山はもっと東の弋陽・光山の南にあった関のようですね。
位置は北魏の東豫州(広陵)の南であり、夏侯夔はそのまま湛僧智の東豫州攻略に合流しています。
夏侯夔は続けて北魏の増援も大破し大戦果を挙げ、さらに司州に引き返した後には配下に楚城を制圧させています。これが後の義陽制圧につながったようです。

『梁書』巻二十八、裴邃伝、裴之礼
子之禮,字子義,自國子生推第,補邵陵王國左常侍、信威行參軍。王為南兗,除長流參軍,未行,仍留宿衞,補直閤將軍。丁父憂,服闋襲封,因請隨軍討壽陽,除雲麾將軍,遷散騎常侍。又別攻魏廣陵城,平之,(後略)

裴之礼は名将・裴邃の息子であり、前年の寿陽攻略に参加し、また東豫州(広陵)の平定にも参加しました。この頃は前線ではなく中央所属だったようです。
なお、列伝には壮武将軍になったという情報はありませんが、よくあること。


一方の任思祖は列伝もない人物です。
とりあえず、任思祖も直閤将軍なので当時は中央所属でしょう。

『北斉書』巻二十二、李元忠伝、李愍
太昌初,除太守卿。後出為南荊州刺史、當州大都督。此州自孝昌以來,舊路斷絕,前後刺史皆從間道始得達州。愍勒部曲數千人,徑向懸瓠,從比陽復舊道,且戰且前三百餘里,所經之處,即立郵亭,蠻左大服。梁遣其南司州刺史任思祖、隨郡太守桓和等率馬步三萬,兼發邊蠻,圍逼下溠戍。愍躬自討擊,破之。詔加車騎將軍。

後に任思祖は534年頃に下溠戍を包囲したところ、北魏の南荊州刺史の李愍に撃破されています。
この時の任思祖は南司州刺史ですね。

実は「南司州刺史」という官には問題があります。

『梁書』巻三十二、陳慶之伝
中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。


『南史』巻六十一、陳慶之伝
中大通二年,除南北司二州刺史,加都督。

530年(中大通二年)から陳慶之がずっと南北司二州刺史に在任していたはずであり、南司州の刺史のポジションが重複してしまっています。

解決策は3つ。
<1> 南司州が複数あった。
<2> この時に陳慶之は南司州刺史ではなかった。
<3> 任思祖は南司州刺史ではなかった。

<2>では陳慶之は「最初は北司州刺史だけで後に兼任した」か「そもそも就任が中大通二年ではなく中大通五年か中大通六年の任思祖より後」かのいずれかが考えられますね。


さて、正史上には他に任思祖の記述はありませんが・・・

『魏書』巻八十、賀抜勝伝
除勝使持節、侍中、都督三荊二郢南襄南雍七州諸軍事、驃騎大將軍、開府儀同三司、荊州刺史。
勝將圖襄陽,攻蕭衍下迮戍,克之,擒其戍主尹道玩、戍副庫峩。又使人誘動蠻王問道期,道期率種起義。衍雍州刺史蕭續遣軍擊道期,為道期所敗,漢南大駭。勝又遣軍攻均口,擒衍將莊思延,又攻馮翊、安定、沔陽、酇陽城,並平之。續遣將柳仲禮於穀城拒守,勝攻之不克,乃班師。沔北盪為丘墟矣。


『周書』巻十四、賀抜勝伝
乃拜勝為都督三荊、二郢、南襄、南雍七州諸軍事,進位驃騎大將軍、開府儀同三司、荊州刺史,加授南道大行臺尚書左僕射。勝攻梁下溠戍,擒其戍主尹道珍等。又使人誘動蠻王文道期,率其種落歸款。梁雍州刺史蕭續擊道期不利,漢南大駭。勝遣大都督獨孤信、軍司史寧。歐陽酇城。南雍州刺史長孫亮、南荊州刺史李魔憐、大都督王元軌取久山、白洎,都督拔略昶、史仵龍取義城、均口,擒梁將莊思延,獲甲卒數千人。攻馮翊、安定、馮陽,竝平之。勝軍於樊、鄧之間。

李愍が南荊州刺史だった頃に行われた賀抜勝の南征において、荘思延という人物が北魏に捕らえられました。
義城・均口を攻撃した結果、荘思延と数千人の甲卒を捕らえた内容。

荘思延
任思祖

似ていませんか?
他国の人物名を微妙に間違うということはしばしばあり、「荘」思延は「任」思延だったという可能性は十分あるでしょう。

もし同一人物だった場合、にとっては由々しき事態です。
最悪のケースでは、任思祖は3万の兵に群蛮の戦力を加えた気合を入れた陣容で下溠戍包囲したものの敗れ、さらに逆襲を受けて南司州刺史と重武装の兵が数千も捕まるという痛手を受けたことになります。
(最善でも同一人物なら捕まったのが南司州刺史ではなく南司州長史などになる程度の違い)

もっとも荘姓も任姓も珍しいものではなく、荘思延が敗れた義城・均口を「常識的に」解釈すれば任思祖の居た南司州や下溠戍から離れており、両者を結びつける根拠は弱いでしょう。
ただ面白いネタが作れるだけですね。(全くの無根拠でもありませんが)

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隨郡太守の桓和

『北斉書』巻二十二、李元忠伝、李愍
太昌初,除太守卿。後出為南荊州刺史、當州大都督。此州自孝昌以來,舊路斷絕,前後刺史皆從間道始得達州。愍勒部曲數千人,徑向懸瓠,從比陽復舊道,且戰且前三百餘里,所經之處,即立郵亭,蠻左大服。梁遣其南司州刺史任思祖、隨郡太守桓和等率馬步三萬,兼發邊蠻,圍逼下溠戍。愍躬自討擊,破之。詔加車騎將軍。愍於州內開立陂渠,溉稻千餘頃,公私賴之。轉行東荊州,仍除驃騎將軍、東荊州刺史、當州大都督,加散騎常侍。天平二年,卒。

北魏の南荊州刺史となった李愍は着任して南荊州を復旧させた後、の隨郡太守桓和らと戦いました。
この戦いは、の南司州刺史任思祖・隨郡太守桓和ら歩騎3万が蛮も動員しつつ下溠戍を包囲したことで始まり、李愍が自ら討って撃破しました。
時期は不明ですが太昌元年(532年末)より後、天平二年(535年)より前なのは確実

『周書』趙剛伝を見た感じでは李愍は534年末の東魏成立直後に東荊州に転じているようですが、それなら533年の賀抜勝の南征の時か終了後すぐ辺りの出来事なのでしょう。


『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
(天平)三年五月,豫州刺史堯雄攻衍白苟堆鎮,克之,擒其北平太守苟元曠。十月,行臺侯景攻陷衍楚城,獲其楚州刺史桓和兄弟。


『北史』巻五、東魏孝静帝紀、天平三年
九月壬寅,以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,節度諸軍南討。丙辰,陽平人路季禮聚眾反。辛酉,御史中尉竇泰討平之。
冬十一月戊申,詔遣使巡檢河北流移飢人。侯景攻剋梁楚州,獲刺史桓和

大同二年/天平三年(536年)、9月に始まった東魏侯景の南征によりの楚城・楚州が陥落し、楚州刺史桓和が捕らえられました。

『南史』巻六十一、陳慶之伝
大同二年,魏遣將侯景攻下楚州,執刺史桓和。景仍進軍淮上,慶之破之。時大寒雪,景棄輜重走。

ただ、その侯景軍は陳慶之に撃破され遁走。

隨郡太守から楚州刺史に出世したところ、兄弟揃って東魏の捕虜に。
刺史クラスが兄弟で同任地にいるというのは通常の人事では珍しいことでしょう。


さて、大陽蛮の首長には桓氏がいます。

『北史』巻九十五、四夷伝中、蛮
延興中,大陽蠻首桓誕擁沔水以北,滍葉以南,八萬餘落,遣使內屬。孝文嘉之,拜誕征南將軍、東荊州刺史、襄陽王,聽自選郡縣。誕字天生,桓玄之子也。(中略)子暉,字道進,位龍驤將軍、東荊州刺史,襲爵。(中略)
永平初,東荊州表太守桓叔興前後招慰大陽蠻歸附者一萬七百戶,請置郡十六、縣五十,詔前鎮東府長史酈道元檢行置之。叔興即暉弟也,延昌元年,拜南荊州刺史,居安昌,隸於東荊。(中略)
正光中,叔興擁所部南叛。(中略)六鎮、秦、隴所在反叛,二荊、西郢蠻大擾動,斷三鵶路,殺都督,寇盜至於襄城、汝水,百姓多被其害。梁遣將圍廣陵,楚城諸蠻,並為前驅。自汝水以南,恣其暴掠,連年攻討,散而復合,其暴滋甚。

かつては南朝から北魏に帰順して東荊州や南荊州の設立に関わった一族ですが、520年代にはに付くようになっていました。また楚城の諸蛮も梁に協力した勢力の一つでした。

桓和兄弟も実は蛮出身で現地を任されたタイプなのではないでしょうか?
隨郡太守の時も辺蛮を動員していますね。


『梁書』巻三、武帝紀下、太清元年
二月己卯,白虹貫日。庚辰,魏司徒侯景求以豫、廣、潁、洛、陽、西揚、東荊、北荊、襄、東豫、南兗、西兗、齊等十三州內屬。壬午,以景為大將軍,封河南王,大行臺承制,如鄧禹故事。丁亥,輿駕躬耕籍田。
三月庚子,高祖幸同泰寺,設無遮大會,捨身,公卿等以錢一億萬奉贖。甲辰,遣司州刺史羊鴉仁、兗州刺史桓和、仁州刺史湛海珍等應接北豫州。


『梁書』巻三十九、羊鴉仁伝
大同七年,除太子左衞率,出為持節、都督南北司豫楚四州諸軍事、輕車將軍、北司州刺史。侯景降,詔鴉仁督土州刺史桓和之、仁州刺史湛海珍等精兵三萬,趨懸瓠應接景,仍為都督豫司淮冀殷應西豫等七州諸軍事、司豫二州刺史,鎮懸瓠。


『南史』巻七、梁武帝紀、太清元年
三月庚子,幸同泰寺,設無遮大會。上釋御服,服法衣,行清淨大捨,名曰「羯磨」。以五明殿為房,設素木牀、葛帳、土瓦器,乘小輿,私人執役。乘輿法服,一皆屏除。甲辰,遣司州刺史羊鴉仁率土州刺史桓和、仁州刺史湛海珍等應接侯景。兵未至,而東魏遣兵攻景,景又割地求救於西魏,方解圍。

547年の侯景帰順の際に北司州刺史の羊鴉仁と共に兗州刺史(又は土州刺史)の桓和が派遣されています。

土州は楚城と隨郡の中間辺りに置かれた州であり、この桓和も同一人物なのでは?


『周書』巻十九、楊忠伝
梁司州刺史柳仲禮留其長史馬岫守安陸,自率兵騎一萬寇襄陽。初,梁竟陵郡守孫暠以其郡來附,太祖命大都督符貴往鎮之。及仲禮至,暠乃執貴以降。仲禮又進遣其將王叔孫與暠同守。太祖怒,乃令忠帥眾南伐。攻梁隨郡,克之,獲其守將桓和。所過城戍,望風請服。忠乃進圍安陸。仲禮聞隨郡陷,恐安陸不守,遂馳歸赴援。諸將恐仲禮至則安陸難下,請急攻之。忠曰:「(略)」於是選騎二千,銜枚夜進,遇仲禮於淙頭。忠親自陷陳,擒仲禮,悉俘其眾。馬岫以安陸降,王叔孫斬孫暠,以竟陵降,皆如忠所策。梁元帝遣使送子方畧為質,并送載書,請魏以石城為限,梁以安陸為界。乃旋師。


『周書』巻十九、泉企伝、泉仲遵
梁司州刺史柳仲禮每為邊寇,太祖令仲遵率鄉兵從開府楊忠討之。梁隨郡守桓和拒守不降。忠謂諸將曰:「本圖仲禮,不在隨郡。如即攻守,恐引日勞師。今若先取仲禮,則桓和可不攻自服。諸君以為何如?」仲遵對曰:「蜂蠆有毒,何可輕也。若棄和深入,遂擒仲禮,和之降不,尚未可知。如仲禮未獲,和為之援,首尾受敵,此危道也。若先攻和,指麾可剋。剋和而進,更無反顧之憂。」忠從之。仲遵以計由己出,乃率先登城,遂擒。仍從忠擊仲禮,又獲之。

そして549年に西魏楊忠らがに侵攻した際に隨郡を落として隨郡太守の桓和を捕らえ、さらに司州刺史の柳仲礼も捕らえ、遂に安陸(南司州)を下すということがありました。

この隨郡太守の桓和もまた先の桓和と同一人物なのではないでしょうか。

少なくとも、530年代初頭から540年代末まで隨郡~楚城一帯(漻水流域?)で桓和という人物が活動していました。
桓和はこの地域の有力者で、もしかしたら大陽蛮などの蛮に関わりのある一族だったのかもしれませんね。

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