六朝三文雑記

六朝に関するつぶやき。




























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蘭欽の生没年

欧陽頠伝によると、蘭欽の死後に欧陽頠が衡州刺史の韋粲と共闘し、韋粲離任後に衡州を任されました。
韋粲伝によると、韋粲が衡州刺史を離任したのは547年。

また欧陽頠伝によると、蘭欽が死ぬ前の欧陽頠の動きは、「蘭欽に従って陳文徹を平定」→「直閤将軍となる」→「天門太守となり、刺史の廬陵王蕭続の賓客となる」というもの。
廬陵王蕭続が(天門郡が属する)荊州の刺史だったのは、帝紀によると大同五年(539年)7月~太清元年(547年)1月の期間。

したがって、「蘭欽の没年」は539年から547年の間となります。


さらに時期を絞り込む手がかりとなるのが、『南史』の記述。

『南史』巻六十一、蘭欽伝
後為廣州刺史。前刺史新渝侯映之薨,南安侯恬權行州事,冀得即真。及聞欽至嶺,原貨厨人,塗刀以毒,削瓜進之,欽及愛妾俱死。

広州刺史となった蘭欽を殺した蕭恬は、広州刺史の新渝侯蕭映が死んだ後に広州を取り仕切っていました(長官の代行者)。おそらく蕭映が死んでからそれほど経たないうちに蘭欽殺しが起きたのでしょう。
539年~547年のは広州方面もまだ朝廷の統制下にあるので、正規の広州刺史が不在の期間は長くなかったはずです。

蕭映の死亡時期」を特定しましょう。

蕭暎は始興王蕭憺武帝の末弟)の子の一人。若くして評判が高く、呉興太守、北徐州刺史、そして広州刺史などを歴任しました。皇太子蕭綱簡文帝)と親しく、弟と共に「東宮四友」とも呼ばれていますね。

この蕭暎は、実は陳にとって関わりの深い人物でした。

『陳書』巻一、高祖紀上
大同初,新喻侯蕭暎為吳興太守,甚重高祖,嘗目高祖謂僚佐曰:「此人方將遠大。」及暎為廣州刺史,高祖為中直兵參軍,隨府之鎮。暎令高祖招集士馬,眾至千人,仍命高祖監宋隆郡。所部安化二縣元不賓,高祖討平之。(中略)子雄弟子略與冏子姪及其主帥杜天合、杜僧明共舉兵,執南江督護沈顗,進寇廣州,晝夜苦攻,州中震恐。高祖率精兵三千,卷甲兼行以救之,頻戰屢捷,天合中流矢死,賊眾大潰,僧明遂降。梁武帝深歎異焉,授直閤將軍,封新安子,邑三百戶,仍遣畫工圖高祖容貌而觀之。
其年冬,蕭暎卒。明年,高祖送喪還都,至大庾嶺,會有詔高祖為交州司馬,領武平太守,與刺史楊㬓南討。(中略)十一年六月,軍至交州,賁眾數萬於蘇歷江口立城柵以拒官軍。㬓推高祖為前鋒,所向摧陷,(後略)

呉興太守の時に呉興人の陳覇先の武帝)を評価し、後に広州刺史となると陳覇先を幕僚に加えて赴任しています。
陳覇先は任地で成果を挙げ、また(「李賁の乱」の余波で)「盧子略の乱」が広州で発生するとこれを平定し、直閤将軍・新安子の官爵を得て大いに名を挙げました。
その年の冬に蕭暎が死去。陳覇先は遺体を都まで送り届け、また南に戻ると今度は交州の「李賁の乱」の討伐に派遣されました(交州入りは545年6月から)。陳覇先はここでも活躍し、名声を高め実績を積むとともに、初期の陳覇先軍団を形成していくことになります。


さて、ここに「盧子略の乱」を平定した年の冬に蕭暎が死んだとあります。

『南史』巻七、梁武帝紀、大同十年
十年春正月,李賁竊號於交阯,年號天德。(中略)
五月,廣州人盧子略反,刺史新渝侯映討平之。詔曲赦廣州。

これは544年のこと。

『南史』巻七、梁武帝紀、中大同元年
中大同元年春正月丁未,曲阿縣建陵隧口石辟邪起舞,有大蛇鬬隧中,其一被傷奔走。青蟲食陵樹葉略盡。癸丑,交州刺史楊㬓剋交阯嘉寧城,李賁竄入屈獠洞。交州平。

546年春に李賁をひとまず撃破しており、陳覇先は545年6月(交州入り)より前に始まった討伐軍に合流したのでしょう。

時系列としては以下のようなものが考えられます。
544年冬に広州刺史の蕭暎が死去。従兄弟の蕭恬が広州刺史を代行。
545年前半に陳覇先が交州討伐軍に参加。この頃に左衛将軍の蘭欽が広州刺史に就任し、蕭恬により殺害。
546年春、陳覇先らが交州で李賁を撃破。

欧陽頠伝には「欽征交州,復啟頠同行。欽度嶺以疾終,」とあり、実は「蘭欽は広州刺史になると同時に交州討伐に参加する予定だった」と思われます。
つまり、蘭欽の人事は546年の交州の勝利より前の話のはず。


以上により、「蘭欽の死亡時期」は544年末から546年初、特に「545年中(おそらく前半)」と推定されます。

『梁書』巻三十二、蘭欽伝
尋改授散騎常侍、安南將軍、廣州刺史。既至任所,前刺史南安侯密遣廚人置藥於食,欽中毒而卒,時年四十二。

享年は42歳。

よって、「蘭欽の生没年は504年~545年」の可能性が高いでしょう。(享年42歳を採用するなら)
誤差は1年前後。



蘭欽陳慶之の20歳年下となりますね。(蘭欽の享年が42歳なら)

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蘭欽の死後

『陳書』巻九、欧陽頠伝
歐陽頠字靖世,長沙臨湘人也。為郡豪族。祖景達,梁代為本州治中。父僧寶,屯騎校尉。
頠少質直有思理,以言行篤信著聞於嶺表。父喪毀瘠甚至。家產累積,悉讓諸兄。州郡頻辟不應,乃廬於麓山寺傍,專精習業,博通經史。年三十,其兄逼令從宦,起家信武府中兵參軍,遷平西邵陵王中兵參軍事。
梁左衞將軍蘭欽之少也,與頠相善,故頠常隨征討。為衡州,仍除清遠太守。南征夷獠,擒陳文徹,所獲不可勝計,獻大銅鼓,累代所無,頠預其功。還為直閤將軍,仍除天門太守,伐蠻左有功。刺史廬陵王蕭續深嘉之,引為賓客。征交州,復啟頠同行。度嶺以疾終,頠除臨賀內史,啟乞送欽喪還都,然後之任。時湘衡之界五十餘洞不賓,勑令衡州刺史韋粲討之,委頠為都督,悉皆平殄。啟梁武,稱頠誠幹,降詔襃賞,仍加超武將軍,征討廣、衡二州山賊。

長沙の欧陽頠蘭欽と旧知の仲であり、いつも蘭欽の征伐に従軍していたそうです。
蘭欽が衡州刺史となった時にはそこの太守となり、蘭欽が夷獠を討って陳文徹を捕らえた時は欧陽頠の功績もありました。
欧陽頠は直閤将軍として中央に入り、また天門太守として地方に出た後、「蘭欽が交州を征伐する」というので同行することになりました。

蘭欽が嶺南で病死すると、欧陽頠は臨賀内史となりますが、まずは蘭欽の遺体を都に送り届けることを願い出て、それを果たしてから任に付きました。
毒殺されてしまった蘭欽でしたが、友人の欧陽頠によって死後の面倒を見てもらえたのはせめてもの救いかもしれませんね。


欧陽頠は臨賀内史となってから、衡州刺史の韋粲の下で平定戦を主導し、その功績が報告されると褒賞を受けました。

『梁書』巻四十三、韋粲伝
中大同十一年,遷通直散騎常侍,未拜,出為持節、督衡州諸軍事、安遠將軍、衡州刺史。皇太子出餞新亭,執粲手曰:「與卿不為久別。」太清元年,粲至州無幾,便表解職。
二年,徵為散騎常侍。粲還至廬陵,聞侯景作逆,便簡閱部下,得精卒五千,馬百匹,倍道赴援。

この時の上司となった韋粲韋叡の孫)は546年頃に衡州刺史となり、547年に離任しました。。
ところが翌548年、首都に戻る途中で「侯景の乱」が起きたことを知ると、韋粲はそのまま侯景との戦いに身を投じます。
(そして韋粲は奮闘しましたが、549年初に戦死)


『陳書』巻九、欧陽頠伝
侯景構逆,自解還都征景,以頠監衡州。京城陷後,嶺南互相吞併,蘭欽弟前高州刺史攻始興內史蕭紹基,奪其郡。以兄與頠有舊,遣招之,頠不從。乃謂使云:「高州昆季隆顯,莫非國恩,今應赴難援都,豈可自為跋扈。」及高祖入援京邑,將至始興,頠乃深自結託。遣兵攻頠,高祖援之,裕敗,高祖以王懷明為衡州刺史,遷頠為始興內史。高祖之討蔡路養、李遷仕也,頠率兵度嶺,以助高祖。及路養等平,頠有功,梁元帝承制以始興郡為東衡州,以頠為持節、通直散騎常侍、都督東衡州諸軍事、雲麾將軍、東衡州刺史,新豐縣伯,邑四百戶。

この時、欧陽頠韋粲に代わって衡州を任されました。
その後、の首都が陥落し、各地が群雄割拠の状況に陥ると嶺南もまた乱世に巻き込まれます。

その時に野心を持った一人が蘭欽の弟の蘭裕でした。(蘭裕は広州に近い高州の刺史だったとあり、兄弟で南方に威名があったのでしょう)
蘭裕は始興郡を攻め落とすと、兄の友人だった欧陽頠に誘いをかけますが、欧陽頠は乗らず、むしろ侯景を討つために北上を始めた陳覇先と結びつきました。
そこで蘭裕欧陽頠にも攻撃をかけますが、陳覇先によって撃破・平定されました。陳覇先はさらに北上して侯景討伐に向かい、欧陽頠は始興郡からそれを援助し、またそのまま南方に留まりました。

そして陳覇先を建国した後も欧陽頠は南方を統治し続け、15年以上に渡って衡州から広州にかけて勢力を持った大物となりました。

これらが蘭欽が死んだ後に起きた出来事の一部ですね。

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梁の文徳主帥2

528年、北魏爾朱栄が起こした「河陰の変」によりへの亡命者が相次ぎます。

『梁書』巻四十六、胡僧祐伝
胡僧祐字願果,南陽冠軍人。少勇決,有武幹。仕魏至銀青光祿大夫,以大通二年歸國,頻上封事,高祖器之,拜假節、超武將軍、文德主帥,使戍項城。城陷,復沒于魏。中大通元年,陳慶之送魏北海王元顥入洛陽,僧祐又得還國,除南天水、天門二郡太守,有善政。

528年に亡命した胡僧祐もその一人でしょうか。
胡僧祐は超武将軍・文徳主帥となり、項城に駐屯。
ここが陥落して北魏の捕虜となりますが、翌529年の陳慶之元顥の北伐で洛陽が陥落した際ににまた逃れることができました。今度は太守に。

その後、北魏は分裂して東魏西魏が成立。
その中で西魏独孤信楊忠東魏に圧迫されて梁に亡命。

『周書』巻十九、楊忠伝
東魏荊州刺史辛纂據穰城,忠從獨孤信討之,纂戰敗退走。信令忠與都督康洛兒、元長生為前驅,馳至其城,叱門者曰:「(略)」門者盡散。忠與洛兒、長生乘城而入,彎弓大呼,纂兵衞百餘人莫之敢禦,斬纂以狥,城中懾服。居半歲,以東魏之逼,與信奔梁。梁武帝深奇之,以為大德主帥、關外侯。
大統三年,與信俱歸闕。

楊忠は537年に帰国するまでにで文徳主帥となり、関外侯に封じられています。

は当初は東魏西魏の両方と交戦。後に停戦し、平和を享受します。

『梁書』巻三十二、陳慶之伝、陳昕
大同四年,為邵陵王常侍、文德主帥、右衞仗主,敕遣助防義陽。魏豫州刺史堯雄,北間驍將,兄子寶樂,特為敢勇。慶之圍懸瓠,雄來赴其難,寶樂求單騎校戰,昕躍馬直趣寶樂,雄即散潰,仍陷溱城。六年,除威遠將軍、小峴城主,以公事免。

その交戦時代のの主力の一人が陳慶之です。
また、五男の陳昕が538年に邵陵王常侍・文徳主帥・右衛仗主に就任し、陳慶之の下で東魏と戦って活躍しました。
(邵陵王は当時は江州刺史だった蕭綸のこと)
そして540年に威遠将軍・小峴城主に就任。淮南への転任ですね。
威遠将軍は格が低い将軍号のようです。

陳慶之は文徳主帥と縁がありますね。二代続けては正史中では唯一無二。

文徳主帥は前線に配備されることが多いようで、明らかに中央に留まっているパターンもあります。

『周書』巻四十七、芸術伝、姚僧垣
大同五年,除驃騎廬陵王府田曹參軍。九年,還領殿中醫師。時武陵王所生葛修華,宿患積時,方術莫効。梁武帝乃令僧垣視之。還,具說其狀,并記增損時候。梁武帝歎曰:「(略)」十一年,轉領太醫正,加文德主帥、直閤將軍。梁武帝嘗因發熱,欲服大黃。僧垣曰:「(略)」帝弗從,遂至危篤。梁簡文帝在東宮,甚禮之。四時伏臘,每有賞賜。太清元年,轉鎮西湘東王府中記室參軍。

優れた医術を持つ姚僧坦は545年に太医正となり、文徳主帥と直閤将軍を加官。
そこで姚僧坦は皇太子の蕭綱に重んじられたり、武帝に服薬について進言したり。
その後、姚僧坦は547年に鎮西将軍・湘東王の記室参軍に転任。
(湘東王とは荊州刺史の蕭繹、後の元帝のことですね)

翌548年、「侯景の乱」勃発。の首都は突如猛威に晒されます。

『陳書』巻十四、南康愍王陳曇朗
南康愍王曇朗,高祖母弟忠壯王休先之子也。休先少倜儻有大志,梁簡文之在東宮,深被知遇。太清中既納侯景,有事北方,乃使休先召募得千餘人,授文德主帥,頃之卒。高祖之有天下也,每稱休先曰:「此弟若存,河洛不足定也。」

その時に陳休先が兵を集め、文徳主帥に任じられています。やはり兵権に絡んでいる官のようですね。
陳休先は皇太子蕭綱の知遇を得ていた人物で、陳覇先の武帝)の同母弟でもありました。
侯景の乱」の最中に亡くなったようで、後に陳覇先が覇権を握った頃にその死を惜しんでいます。

この「侯景の乱」には上述の陳昕も関わっています。

『南史』巻八十、賊臣伝、侯景
景儀同范桃棒密貪重賞,求以甲士二千人來降,以景首應購,遣文德主帥前白馬游軍主陳昕夜踰城入,密啟言狀。簡文以啟上,上大悅,使報桃棒,事定許封河南王,鐫銀券以與之。簡文恐其詐,猶豫不決。(中略)簡文見其言愈疑之。朱异以手搥胸曰:「今年社稷去矣。」俄而桃棒軍人魯伯和告景,並烹之。

侯景の配下の范桃棒が裏切って梁に協力しようと企んだ際に文徳主帥・前白馬游軍主だった陳昕に送り込んで武帝と皇太子蕭綱と調整しようとしました。ところが蕭綱は最後まで疑い続け、そうこうするうちに范桃棒はバレて殺され、陳昕もまた侯景に屈さずに殺されました。
陳昕がまた文徳主帥となったという記述は当人の列伝にはありませんが、侯景迎撃の際か侯景により任命されたのでしょう。

タグ: 西魏

徐陵と梁末の情勢3

「徐陵と梁末の情勢1」の続き。

「主上又遣吏部尚書王通、鴻臚卿謝岐等至和州,與司馬行臺,共為盟誓。」
これは555年の陳覇先による北斉との外交に関するものですね。
背景としては、同年初頭に北斉が貞陽侯蕭淵明の君主に擁立すべく軍を送り込んだことに対し、王僧辯らが屈して7月に奉戴したところ、陳覇先王僧辯を殺して中断させ、別に敬帝を擁立しました。

『資治通鑑』巻一百六十六、梁紀二十二、紹泰元年
冬,十月,己酉,晉安王即皇帝位,大赦,改元,中外文武賜位一等。以貞陽侯淵明為司徒,封建安公。告齊云:「僧辯陰圖篡逆,故誅之。」仍請稱臣於齊,永為籓國。齊遣行台司馬恭與梁人盟於歷陽。

王僧辯を殺したとはいえ、結局は北斉に対して称藩することになり、10月の敬帝即位と共に歴陽で北斉と盟約を結びました。
その時に派遣されたのが、吏部尚書の王通と鴻臚卿の謝岐ですね。

王通は琅邪王氏の出身で、禅譲の儀を行ったほどの重臣であり、その弟達もまたで出世したという陳の代表的な名族ですね。

『南史』巻六十三、王神念伝、王僧辯
時齊文宣又納貞陽侯明以為梁嗣,與僧辯書,幷貞陽亦頻與僧辯書,論還國繼統之事。僧辯不納。及貞陽與齊上黨王高渙至東關,散騎常侍裴之橫軍敗,僧辯遂謀納貞陽,仍書定君臣之禮。因遣第七子顯、顯所生劉幷弟子珍往充質,遣左戶尚書周弘正至歷陽迎明。又遣吏部尚書王通送啟,因求以敬帝為皇太子。明報書許之。僧辯遣使送質于鄴,貞陽求度衞士三千。僧辯慮其為變,止受散卒千人而已,幷遣龍舟法駕往迎。貞陽濟江之日,僧辯擁檝中流,不敢就岸,末乃同會于江寧浦。明踐位,授僧辯大司馬,領太子太傅、揚州牧,餘如故。

王僧辯が貞陽侯蕭淵明を擁立する際の北斉とのやり取りの中で、蕭方智(敬帝)を皇太子とすることを要求する使者として派遣されており、2度目の派遣ですね。列伝にはない情報。

謝岐は会稽の人で、張彪の腹心でしたが陳覇先に降伏後は機密も任され重要なブレーンの一人となりました。学識も備えた能吏タイプ。
列伝には兼尚書右丞だったことがあるだけで、鴻臚卿になったことなどは載っていませんね。(これがまた怪しい)

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