諸葛亮と軻比能

蜀漢の丞相の諸葛亮は225年に南中を平定すると、227年に自ら漢中に移って北伐に乗り出します。
228年春、この北伐を受けての西部は震撼しますが、曹真張郃郭淮らの対応により撃退に成功しました。
さらには同年秋にへの南征に出ますが、これは失敗。揚州方面で大敗しました。
一方の諸葛亮は再び北伐を行い、翌229年春に武都・陰平2郡を獲得します。

このように228年はにとって南方勢力に悩まされる年でしたが、北方でも事件が起きていました。
当時の北方最大の脅威は鮮卑の軻比能です。軻比能はしばしばに敵対的であり、の護烏桓校尉の田豫や雁門太守の牽招らは親魏派の鮮卑を雁門郡近辺に置いたり、軻比能を討伐したりしてそれまで対処していました。
ところが、228年秋に護烏桓校尉田豫が討伐の帰路で軻比能に包囲される事態が起きます。この時は并州の牽招の救援や鮮卑に信望のあった幽州の太守の説得により解放。
その後、田豫は転任となり、代わりに護烏桓校尉となった幽州刺史王雄が北方を慰撫します。軻比能は何度か幽州に献上物をささげるようになりますが、蜀漢諸葛亮との接触があることを牽招から警戒されていました。

軻比能略図

230年秋には今度は蜀漢への南征を進めますが、頓挫して撤退。(これを推進していた西部の重鎮の曹真は翌年3月に病没)
231年2月、諸葛亮がまた北伐を行い、天水郡南部の祁山に進出。は3月に司馬懿を(曹真の代わりに)向かわせます。
司馬懿郭淮らを天水郡東部の上邽、張郃を北側の略陽に向かわせ、また魏書によると上邽一帯の麦の保護を命じられていましたが、諸葛亮郭淮らは破れて上邽の麦が刈り取られます。
司馬懿が天水郡に到達した後、諸葛亮は後退しますが、5月に祁山の近くで軍の攻撃を大破。
そして6月に蜀漢軍は兵糧不足により撤退しますが、ここで軍は追撃させた張郃を逆に討ち取られる被害を出しました。

この北伐に軻比能の関与がありました。
諸葛亮は祁山に進出していた時に軻比能に使者を出し、軻比能らはこれに応じて雍州の北の地域に到来。そこで魏は雁門太守牽招に討伐の指示を出しましたが、戦いに発展することなく軻比能は去ったようです。
これらの時期は不明ですが、
1.進軍中に張郃司馬懿に隴山の東に軍を分けて置くように進言していますが、理由は「北の近くに居た軻比能に警戒したため」と推測でき、
2.司馬懿は軍の分散に反対してそれを却下したものの諸葛亮と戦っている最中に実害はなかったため、おそらく軻比能は既に撤収していたと考えられ、
3.夏4月に軻比能が幽州に訪れて馬を献上していることから、春に来たなら4月以前に撤収しているはずであり、
4.また魏が護匈奴中郎将を復活させたのは、軻比能への対策が一層必要になったからとすると、
「2月~3月の間の出来事」となるでしょう。
この場合は諸葛亮軻比能の連携開始がかなり早く(祁山侵攻前から?)、牽招への討伐指示も早期(司馬懿の派遣と同時?)、そして軻比能の撤収も早かった(3月中?)となるでしょう。
(「四」と「六」の誤記は稀にあるので、もう少し後ろにずれていた可能性もありますが)

興味深いことに、蜀漢が胡族を北伐に組み込んだ一方で、郭淮が隴右(隴山の西の地域)の兵糧欠乏を羌胡からの調達で賄っていました。胡人をより上手く活用できた側が目標を達成できたとも言えるかもしれません。

さて、の護匈奴中郎将は并州刺史を兼ねており、おそらく并州刺史だった畢軌の強化のためでしょう。この後に牽招はその畢軌と共に本格的な軻比能討伐を計画しています。
しかし牽招は亡くなり、233年に軻比能が雁門一帯の鮮卑を引き入れた際には畢軌の将軍達が敗死し、中央から討伐軍が派遣される事態となっていました。
翌234年の諸葛亮の北伐はが徹底堅守した上、両国とも兵糧不足への備えがあったため膠着し、諸葛亮が病没してようやく終了しました。これで蜀漢の攻勢は減衰。
さらに235年に幽州刺史王雄の策により軻比能が暗殺され、以降は次の幽州刺史である毌丘倹が遼東の公孫淵との戦いに注力していることから、鮮卑の脅威は一段落したようです。

そして238年には司馬懿公孫淵征伐に投入され、遼東を平定したことで倭などの東夷にの影響が及ぶようになりました。
やがて240年代以降に蜀漢姜維が羌胡と連携して北伐するようになり、并州内で匈奴の劉氏が力をつけ、遼東方面でに協力した鮮卑から慕容部が生まれ、軻比能の勢力圏だった地域で拓跋部が台頭します。

を巡る「西の脅威」諸葛亮と「北の脅威」軻比能の接点は一瞬しか輝かず、「南の脅威」孫権と「東の問題」公孫淵の繋がりほど目立たず問題になりませんでしたが、彼らが失敗したことにより次の時代が生まれたのは間違いないでしょう。

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劉備の大大大系図

劉備の親戚の親戚の親戚の親戚の親戚の・・・などを集めた巨大系図抜粋 をご用意しました!

蜀漢大系図

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安夷将軍・高梁亭侯の程昺?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

上尊号碑の「安夷将軍 高梁亭侯 臣昺」に該当する者は果たして三国志中にいるのでしょうか?
現在は便利なことに三国志中の文字が検索できます。
「昺」は本文で虞昺の箇所のみ。注では会稽典録の虞昺の箇所のみ。
異体字の「昞」は無さそうです。
「炳」の方は複数見つかります。曹熊の子の曹炳とか。しかし安夷将軍・高梁亭侯となれそうな者はいません。

同音の「秉」を使った者なら卞秉がおり、候補の一人と考えています。
ただ、「安夷将軍」とは地方・辺境向けな印象を受ける将軍号ですね。やはり帰順者なのではないでしょうか。


さて、「安夷将軍」の前の「綏辺将軍」の前の「懐遠将軍」は、「懐遠将軍・関内侯の侯巽(侯選)?」で河東の侯選と予想しました。
この侯選と同じく河東人で、一緒に曹操に降伏し、「皆復官爵」とされた程銀ってどうなったのでしょうか?
実は「臣昺」が程銀のことだったりしないでしょうか。流石に無理?

『後漢書』志第十九、郡国志一、司隷、河東郡
楊 有高梁亭。

河東郡の楊県には「高梁亭」があるので、河東人が高梁亭侯になるのも悪くないとは思いますが・・・。

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安夷将軍・高梁亭侯の呂昺?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

「漢字が何となく似ている」と「将軍&列侯の可能性あり」を満たす者を探す方式で上尊号碑の穴埋めはまだまだできます。
信憑性はこじつけレベルのものが多いですけど。

今回は「安夷将軍 高梁亭侯 臣昺」の候補者。
部首に「日」が入っていて、列侯になれそうな人といえば・・・、

そうです。東平の呂曠です!

『三国志』巻一、武帝紀、建安八年
公之去鄴而南也,譚、尚爭冀州,譚為尚所敗,走保平原。尚攻之急,譚遣辛毗乞降請救。諸將皆疑,荀攸勸公許之,公乃引軍還。冬十月,到黎陽,為子整與譚結婚。尚聞公北,乃釋平原還鄴。東平呂曠、呂翔叛尚,屯陽平,率其眾降,封為列侯。

203年、袁尚から離反して陽平で曹操に降伏し、列侯に封じられたという人物。

この17年後に生きていた可能性はあるのか、また「昺」が魏志や魏書で「曠」と書かれる妥当性はあるのか、疑問は尽きませんが、候補といえば候補です。

ちなみに東平の近くに「高梁亭」があります。

『宋書』巻四十三、檀道済伝
加道濟都督征討諸軍事,率眾北討。軍至東平壽張縣,值虜安平公乙旃眷。(中略)大破之。轉戰至高梁亭,虜寧南將軍、濟州刺史壽昌公悉頰庫結前後邀戰,(中略)即斬悉頰庫結。道濟進至濟上,連戰二十餘日,前後數十交,虜眾盛,遂陷滑臺。道濟於歷城全軍而反。

後に檀道済が北伐で東平の寿張の次に高梁亭で戦っています。
(『読史方輿紀要 』曰く、寿張県の東北に在り)

東平人の呂曠(=呂昺?)が高梁亭侯となるのも自然な組み合わせ?

タグ: 創作

安衆将軍・元就亭侯の劉神?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。

「安衆将軍・元就亭侯の尹神?」で上尊号碑の「安衆将軍 元就亭侯 臣神」の該当者を一人挙げました。今までの上尊号碑編に比べると歯切れ悪い感じでしたが。
その際に「候補の一つ」と書いたのは、実は他にも候補がいるからです。

次の有力候補(与太話のお相手)は、劉雄鳴です。

藍田の劉雄鳴は関中の小群雄でしたが、「雲霧を起こす力がある」と人々に噂された変わった人物です。

思いて学ばざれば
『劉雄鳴』


てぃーえすのメモ帳
『関中諸将』

経歴はこちらをご覧ください。

『三国志』巻八、張魯伝、注引『魏略』
劉雄鳴者,藍田人也。少以采藥射獵為事,常居覆車山下,每晨夜,出行雲霧中,以識道不迷,而時人因謂之能為雲霧。郭、李之亂,人多就之。建安中,附屬州郡,州郡表薦為小將。馬超等反,不肯從,超破之。後詣太祖,太祖執其手謂之曰:「孤方入關,夢得一神人,即卿邪!」乃厚禮之,表拜為將軍,遣令迎其部黨。部黨不欲降,遂劫以反,諸亡命皆往依之,有眾數千人,據武關道口。太祖遣夏侯淵討破之,雄鳴南奔漢中。漢中破,窮無所之,乃復歸降。太祖捉其鬚曰:「老賊,真得汝矣!」復其官,徙勃海。

劉雄鳴曹操に一旦は帰順して将軍に取り立てられますが、数千の仲間に担がれる形で離反し、撃破されると張魯のもとへ逃走。張魯が平定されると再び降伏し、元の官に再任されました。

劉神説」の鍵は3点。

その1。
劉雄鳴は「将軍」となっており、また曹操に帰順した者で小勢力の長だったという特別なステータスがありました。
将軍として上尊号碑に名を連ねていてもおかしくない経歴でしょう。
「安衆」という将軍号もいかにも帰順者です。

その2。
劉雄鳴は「雄鳴」と書かれていることから、姓が「劉」で名前/字/称号/通称などが「雄鳴」だったはずです。
当時は二文字の名前は珍しく、本名は魏略に載ってなく不明とするのが自然な解釈。
つまり実の名前は「神」であり、何らかの理由で書かれなかったとする筋書きは十分通用するでしょう。流石に「神」と書くのはどうかと思われたのでしょうか。

その3。
曹操劉雄鳴の1度目の帰順の際に、「夢の中で神人を得たが、あれは卿(あなた)のことだったのか!」と述べています。
ここで「神人」=「劉雄鳴」と考えたのは、劉雄鳴の本名が劉神だったからなのでは?


爵位に関する情報が無く、勃海に飛ばされたという記述を思えば果たして禅譲に関与できる立場になれたのかという疑問点もありますが、まあまあ良い案ではないでしょうか。

夏侯淵伝に「南山賊劉雄」が同一人物っぽく、劉雄(字や通称が「雄鳴」)だった可能性もありますが。

タグ: 後漢 創作

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