西晋初代鄴城守

西晋では建国前後から揚州・荊州・関中雍涼・豫州・徐州・青州などに都督諸軍事や監諸軍事が置かれており、宗室・元勲・準元勲クラスの重臣が担当していました。(ちなみに建国直後はそれぞれ、大司馬石苞、大将軍陳騫、鎮西将軍・扶風王司馬亮、安東将軍・汝陰王司馬駿、征東将軍衛瓘、鎮東将軍魯芝が該当しています。)これら以外に高い頻度で置かれていたのが、「督鄴城守諸軍事」です。『晋書』巻三十七、宗室伝、済南恵王司馬...
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司馬氏のホーム

今回も西晋宗室編ですよ。相変わらず、魏から西晋・武帝期までが範囲です。さて、君主が身内を重んじる場合、魏晋南北朝時代においては中央や地方の軍の重鎮に身内を置くことが多いです。例えば、南朝では皇帝が息子達を(実務ができないような幼い者であっても)各地の都督や中央軍の将軍などに任命することが結構あります。(一方で幼い者を行政系の要職に任命するのは余り無いですね)この傾向は宗室を重用した西晋でも見られ、...
タグ:西晋

胡掖氏

『晋書』巻一百二十五、禿髪烏孤載記初,壽闐之在孕,母胡掖氏因寢而產於被中,鮮卑謂被為「禿髮」,因而氏焉。禿髪寿闐の母は胡掖氏です。胡掖はレアな姓ですが、(匈奴名門などの)呼延氏の一種とする見解もあるようですね。河西に進出した鮮卑が匈奴っぽい姓と姻族だったのは、色々と考え甲斐があります。(特に拓跋匹孤の一族「拓跋部」は匈奴と縁深いため、当時の情勢も絡めて色々と考えられますね。)ところで資治通鑑では、...
タグ:南涼

鮮卑の被さん達

『晋書』巻一百二十五、禿髪烏孤載記初,壽闐之在孕,母胡掖氏因寢而產於被中,鮮卑謂被為「禿髮」,因而氏焉。南涼の禿髪氏の由来は被(羽織るタイプの夜着)を鮮卑語で「禿髪」と言ったからだそうです。(その被の中で寿闐が生まれたことから、子孫が氏としたようです)一方で、拓跋と禿髪は音が近いそうで(現在の日本語でも近めですね)、(ほぼ?)同音異字で差別化しただけとする見解もあるそうです。『拓跋と禿髪』http://b...
タグ:南涼 北魏

代王国の衰退

316年、拓跋猗盧(穆帝)が長子の拓跋六脩に殺され、拓跋六脩を滅ぼした拓跋普根も一ヶ月ほどで死に、その息子も年内に亡くなるなど首長の混乱が続き、鮮卑拓跋部に従っていた西晋人や烏桓が并州(劉琨)のもとへ逃げ出し、勢力も衰退します。『魏書』巻一、序紀(穆帝)九年,帝召六脩,六脩不至。帝怒,討之,失利,乃微服民間,遂崩。普根先守外境,聞難來赴,攻六脩,滅之。衞雄、姬澹率晉人及烏丸三百餘家,隨劉遵南奔并州...
タグ:代国

猗兄弟の2代目

拓跋沙漠汗の子の拓跋猗㐌・拓跋猗盧・拓跋弗はいずれも後世で諡号を与えられており、(記録上は)いずれも首長となった有力者です。その息子世代(拓跋沙漠汗の孫世代)は拓跋猗盧の時に積極的に活動しています。以下、資治通鑑+魏書ベース拓跋普根: 拓跋猗㐌の長子。305年に父が亡くなると拓跋鮮卑中部を継承。(307年から3部は統合) 312年に晋陽奪還のため拓跋猗盧によって派遣。 313年の劉琨・拓跋猗盧の前...
タグ:代国

王浚と拓跋

西晋の末期、前趙系以外の北部の有力勢力は王浚と拓跋氏でした。魏書には王浚と拓跋氏の関係が全く書かれていません。それぞれ別の州が勢力圏であるため、一見するとそれもありえそうですが、他の資料では色々と載っていました。『資治通鑑』巻八十七、晋紀九、永嘉四年劉琨自將討劉虎及白部,遣使卑辭厚禮說鮮卑拓拔猗盧以請兵。猗盧使其弟弗之子鬱律帥騎二萬助之,遂破劉虎、白部,屠其營。琨與猗盧結為兄弟,表猗盧為大單于,以...
タグ:代国 太原王氏

拓跋の左右賢王

匈奴は単于をトップとし、左賢王・右賢王が実質それに次ぐ地位にありました。一方、鮮卑は「大人」がトップであり、両者が健在だった後漢の間はその状況が続いていました。『晋書』巻三十九、王沈伝、王浚(段)疾陸眷自以前後違命,恐浚誅之。勒亦遣使厚賂,疾陸眷等由是不應召。浚怒,以重幣誘單于猗盧子右賢王日律孫,令攻疾陸眷,反為所破。『魏書』巻九十五、徒何慕容廆伝穆帝之世,頗為東部之患,左賢王普根擊走之,乃修和親...
タグ:代国

拓跋vs前趙

鮮卑拓跋部の大きな功績とされるのが、拓跋猗㐌による并州刺史司馬騰の救援です。これを拓跋猗盧が代公の地位を得た理由とされることがあり、また拓跋(北魏)側でも先祖の偉大な勲功としています。その第一弾が304年の司馬騰と劉淵の戦いですが、資治通鑑の時系列ではなんと漢王即位前です。劉淵は自立した直後に拓跋猗㐌に撃破される憂き目にあったということですね。次が305年の并州救援。後世の評価を見るとどうやらこち...
タグ:代国 前趙

永陽郡・広魏郡・略陽郡4

永陽と略陽の間の郡、広魏。これもよくわからない郡です。まず設置された時期ですが、238年に広魏太守が戦死していることから、この時にはあったようです。一方で228年初頭の諸葛亮の侵攻では「南安、天水、安定郡」が呼応しており、隴西でも太守が支えていた記述がありますが、それらに近い広魏の動静が不明であることから、まだ設置されていなかった可能性が高そうです。(おそらく)むしろ広魏郡は西側を南安、南側を天水...
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