拓跋と前涼の接触

拓跋猗㐌は297年から301年まで西略に出ており、20国ほど従えたそうです。『魏書』巻一、序紀、昭帝三年,桓帝度漠北巡,因西略諸國。(中略)七年,桓帝至自西略,諸降附者二十餘國,凡積五歲,今始東還。この頃の西晋は「斉万年の乱」(296年~299年)や「趙王司馬倫の専横」(300年~301年)にみまわれ、そのまま「八王の乱」が勃発します。拓跋部が遠方で好き勝手にやっていてもすぐには掣肘できない状況で...
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沙漠汗の妻3

魏書によると封氏は早崩(早卒)、封氏と蘭氏の夫の拓跋沙漠汗は277年没、蘭氏の子の拓跋弗は294年没、そして拓跋弗は拓跋沙漠汗と封氏の改葬を考えていたとあります。つまり封氏は294年以前に死んだことになりますね。例えば封氏は長男が生まれた267年に15歳ぐらいとすると、夫が死んだ時に25歳ぐらい、294年に42歳ぐらい。いつ死んでも早卒となりますね。(もっと年長でも許容範囲内)もし封氏が夫と同時期...
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沙漠汗の妻2

拓跋沙漠汗の妻の封氏と蘭氏は他の魏書の人物と同様に後世で姓が変更されている可能性があります。『魏書』巻一百一十三、官氏志神元皇帝時,餘部諸姓內入者。(中略)是賁氏,後改為封氏。(中略)凡此諸部,其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。北方賀蘭,後改為賀氏。(中略)烏洛蘭氏,後為蘭氏。どちらの姓も拓跋氏に従い、後に北魏で漢人風の姓を得た者達の中にいます。一方で蘭氏は匈奴の有力姓の中にもいます。鮮卑...
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沙漠汗の妻

珍しいことに拓跋沙漠汗は2人の妻の姓が判明しています。『魏書』巻十三、皇后伝、文帝皇后封氏文帝皇后封氏,生桓、穆二帝,早崩。桓帝立,乃葬焉。高宗初,穿天淵池,獲一石銘,稱桓帝葬母封氏,遠近赴會二十餘萬人。有司以聞,命藏之太廟。次妃蘭氏,生二子,長子曰藍,早卒;次子,思帝也。封氏と蘭氏ですね。さて、封氏の長男の拓跋猗㐌は267年生まれです。また拓跋沙漠汗は261年~267年と277年~279年は西晋...
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竇氏と拓跋2

『魏書』巻十三、皇后伝、神元皇后竇氏神元皇后竇氏,沒鹿回部大人賓之女也。賓臨終,誡其二子速侯、回題,令善事帝。及賓卒,速侯等欲因帝會喪為變,語頗漏泄,帝聞之,知其終不奉順,乃先圖之。於是伏勇士於宮中,晨起以佩刀殺后,馳使告速侯等,言后暴崩。速侯等驚走來赴,因執而殺之。竇賓が死ぬとその息子達は従わなかったため、拓跋力微に殺されました。ちなみに拓跋力微の妻の竇氏もこの時に殺されています。まず竇氏を殺し...
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竇氏と拓跋

拓跋力微の庇護者にして妻の父である竇賓。彼は世系表に(真偽はともかく)色々と情報があります。『新唐書』巻七十一、宰相世系表一下、竇氏(竇)統字敬道,鴈門太守,以竇武之難,亡入鮮卑拓拔部,使居南境代郡平城,以間窺中國,號沒鹿回部落大人。後得匈奴舊境,又徙居之。生賓,字力延,襲部落大人。竇賓は竇氏が沒鹿回部落大人を名乗ってから生まれたようですが、これの発端が168年の竇武誅殺とされており、当然ながらそ...
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去卑・劉猛・劉虎と北部

「劉豹と劉猛2」で述べたように、後世では劉猛は去卑の親族とされています。また鉄弗部の劉虎は魏書で去卑の孫で劉猛の従子とされています。さて、劉虎は新興慮虒の北に居住していたとあります。「新興慮虒」の北は雁門郡です。雁門と言えば、鄧艾が去卑の子を配置するように言った場所です。そして劉虎の父は(敗れた)劉猛の勢力を継承し、劉虎はそれを継承したとあります。なんと「去卑の子の配置」と「劉虎の本拠」が重なりま...
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劉豹と劉猛2

劉猛は後世では去卑の縁者としており、魏書では息子です。この去卑は後漢末期に朝廷を支援した匈奴(右賢王)であり、魏で(鄧艾の上奏で)その息子が劉豹の対抗馬として期待された人物です。一方で載記によると劉豹は単于(元右賢王)於夫羅の息子であり、叔父の呼廚泉が単于となると左賢王となり、曹操の5分割で左部帥(太原茲氏?)となったとあります。ちなみに劉猛は北部帥(新興?)や中部帥(大陵?)などの記録があります...
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劉豹と劉猛

晋書などを見ると左賢王が右賢王より上位です。もし三国志の「右賢王劉豹」の記述が正しく、同時に劉豹が左賢王となった事も正しいとした場合、昇格か降格があったという事になります。(両者が別人の可能性もありますが、今回は省きます。)史書では最終的な地位で言及される事が多い為、とりあえず最後が左賢王だったと考えます。魏代で警戒されていた劉豹が昇格したきっかけは何でしょうか。『資治通鑑』巻七十九、晋紀一、泰始...
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劉淵と劉禅

さて、十六国時代に劉淵が蜀漢の劉禅に「皇帝としての諡号」を送ったことは有名です。これは国号を「漢」とし、前漢・後漢だけでなく、蜀漢の継承を掲げていた劉淵による対応ですね。それ以上の接点は無いとすることもできますが、夢をふくらませることもできるでしょう。『晋書』巻一百一、劉元海載記咸熙中,為任子在洛陽,文帝深待之。劉淵は咸熙年間(264年~265年)から洛陽におり、それから10年以上して父が死ぬと并...
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