霍弋の死と交州陥落2

ところで霍弋は268年の呉の交州攻撃の頃はまだ生きていたようです。翌269年に呉は陸路・海路2方面から交州へ派兵しますが、続く270年に海路軍が退却。そのまま残った陸路軍は西晋の交州軍と戦いましたが、撃退されて合浦に退きました。この頃は西晋の交趾と呉の合浦が境界の郡ですね。また、霍弋の居る南中が交趾・九真・日南の3郡を支援する構図でした。ところが271年、『晋書』巻三、武帝紀、泰始七年夏四月,九真...
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霍弋の死と交州陥落

蜀漢滅亡で司馬氏に降り、西晋の南中監軍となった霍弋。『三国志』巻四十一、霍峻伝、注引『漢晋春秋』後遣將兵救援呂興,平交阯、日南、九真三郡,功封列侯,進號崇賞焉。弋孫彪,晉越嶲太守。しかし交阯3郡の獲得に功績があったこと以外、その後の動静は結構不明です。『晋書』巻十五、地理志下、交州晉平蜀,以蜀建寧太守霍弋遙領交州,得以便宜選用長吏。とりあえず、交州刺史を兼ね、交州の長官(太守)などの人事を担当し、...
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屠家の娘

後廃帝の母の陳妙登は屠家の娘でした。『宋書』巻四十一、后妃伝、明帝陳貴妃明帝陳貴妃諱妙登,丹陽建康人,屠家女也。世祖常使尉司採訪民間子女有姿色者。太妃家在建康縣界,家貧,有草屋兩三間。上出行,問尉曰:「御道邊那得此草屋,當由家貧。」賜錢三萬,令起瓦屋。尉自送錢與之,家人並不在,唯太妃在家,時年十二三。尉見其容質甚美,即以白世祖,於是迎入宮。在路太后房內,經二三年,再呼,不見幸。太后因言於上,以賜太...
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宋非公認后妃2

今回の宋后妃編で除外した宋の皇后の2人目は路氏です。『宋書』巻七、前廃帝紀、永光元年(十一月)壬寅,立皇后路氏,四廂奏樂。(中略)戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。路氏は前廃帝が在位2年目に立てた皇后です。しかしその16日後に前廃帝が殺害・廃位されたためか、宋の正式な皇后として記録に残されませんでした。『宋...
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路太后の噂

孝武帝の母の路恵男は文帝の側室の一人でした。彼女は文帝の寵愛を失うと後宮を離れ、息子の孝武帝(武陵王時代)が各地を転任すると常にそれに従っていたそうです。路恵男は孝武帝が即位すると皇太后となり、政治に関わったり、甥(弟の子)達が大金を得たり官位などでかなり厚遇されたりしています。ここまで息子から色々と(権力を使って)尽くされた皇太后は、魏晋南北朝時代では他にいないのではないでしょうか。(自力でこれ...
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宋非公認后妃

実は、今回の宋后妃編で2人の宋の皇后を除外しています。その一人目が、殷氏です。453年2月、皇太子劉劭が父の文帝を殺害し、皇帝に即位。『宋書』巻九十九、二凶伝、元凶劉劭四月,立妻殷氏為皇后 。そして同年4月、劉劭が妻(皇太子妃)の殷氏を皇后に立てました。この殷氏は通常ならば皇后として記録されるはずですが、文帝弑逆に対して挙兵していた孝武帝(武陵王劉駿)によって翌5月に劉劭は敗れ、その一派は誅殺、劉...
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節倹と寵姫の悲劇

名君とされる文帝は父と同じく節倹を重視する性格であり、無駄遣いが目立つ多くの皇帝達とは一線を画しています。『宋書』巻四十一、后妃伝、文帝袁皇后(前略)適太祖,初拜宜都王妃。生子劭、東陽獻公主英娥。上待后恩禮甚篤,袁氏貧薄,后每就上求錢帛以贍與之,上性節儉,所得不過三五萬、三五十匹。そのため、甚だ礼遇していた皇后の袁氏が貧しい一族への支給を求めた時も、少なく制限して対応していました。ここまでは美談の...
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施績と懐疑4

陸凱は建衡元年(269年)十一月に亡くなりますが、その少し前に用いるべき人材を推薦しています。『三国志』巻六十一、陸凱伝建衡元年,疾病,晧遣中書令董朝問所欲言,凱陳:「何定不可任用,宜授外任,不宜委以國事。奚熙小吏,建起浦里田,欲復嚴密故迹,亦不可聽。姚信、樓玄、賀卲、張悌、郭逴、薛瑩、滕脩及族弟喜、抗,或清白忠勤,或姿才卓茂,皆社稷之楨幹,國家之良輔,願陛下重留神思,訪以時務,各盡其忠,拾遺萬一...
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施績と懐疑3

孫晧が即位する前年に蜀漢が滅亡しました。もし施績と蜀漢とのつながりが警戒の原因とすれば、それが消滅したことになります。孫晧が即位してすぐの人事の一つに、陸凱が都督巴丘に任命されたものがあります。陸凱は250年代から巴丘周辺も任されることが多く、妥当な人事です(そもそも巴丘付近から動いていない可能性もあります)。ただ、施績の担当の東隣ですね。陸凱と陸抗で東西から挟む形です。施績は孫晧即位の年(264...
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司馬皇后の享年問題

有名な話ですが(校勘で指摘)、少帝の皇后司馬茂英の享年の記述はおかしいです。『宋書』巻四十一、后妃伝、少帝司馬皇后少帝司馬皇后 諱茂英,河內溫人,晉恭帝女也。初封海鹽公主,少帝以公子尚焉。宋初,拜皇太子妃。少帝即位,立為皇后。元嘉元年,降為營陽王妃,又為南豐王太妃。十六年薨,時年四十七。まず、元嘉十六年(439年)に47歳で亡くなったとあることから、逆算して生年は393年と考えられます。ところが夫...
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