庾純の生没年

任愷の(対賈充の)相棒だった庾純も生没年がある程度絞り込めます。『晋書』巻五十、庾純起為御史中丞,轉尚書。除魏郡太守,不之官,拜少府。年六十四卒。子旉。旉字允臧。少有清節,歷位博士。齊王攸之就國也,下禮官議崇錫之物。旉與博士太叔廣、劉暾、繆蔚、郭頤、秦秀、傅珍等上表諫曰:(中略)旉草議,先以呈父純,純不禁。(中略)旉父純詣廷尉自首:「旉以議草見示,愚淺聽之。」詔免純罪。廷尉劉頌又奏旉等大不敬,棄市...
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任愷の生没年

武帝の腹心から立場が不安定な重臣に転落した任愷。そんな彼を更なる追い打ちが襲います。『晋書』巻三、太康四年冬十一月戊午,新都王該薨。以尚書左僕射魏舒為司徒。283年、左僕射の魏舒が司徒となります。かつて魏舒は(60歳ぐらいで)西晋の太守となりますが、特に栄達・重用されるような立場ではありませんでした。その彼を中央の散騎常侍に推薦し、後の侍中・尚書・僕射などの重臣となる道を開いたのが、当時、侍中にし...
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杜預の出仕

西晋重臣編。第三弾。杜預は出仕が遅く、それが父と司馬懿との因縁という話はまあまあ有名です。『晋書』巻三十四、杜預伝杜預字元凱,京兆杜陵人也。祖畿,魏尚書僕射。父恕,幽州刺史。預博學多通,明於興廢之道,常言:「德不可以企及,立功立言可庶幾也。」初,其父與宣帝不相能,遂以幽死,故預久不得調。文帝嗣立,預尚帝妹高陸公主,起家拜尚書郎,襲祖爵豐樂亭侯。在職四年,轉參相府軍事。鍾會伐蜀,以預為鎮西長史。彼の...
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徐逵之の死2

劉裕を激怒させた徐逵之の死。これは妻の、劉裕の長女劉興弟にとっては大いに悲しいことでした。『宋書』巻十九、楽志一督護哥者,彭城內史徐逵之為魯軌所殺,宋高祖使府內直督護丁旿收斂殯埋之。逵之妻,高祖長女也,呼旿至閤下,自問斂送之事,每問,輒歎息曰:「丁督護!」其聲哀切,後人因其聲,廣其曲焉。劉興弟は夫の徐逵之の埋葬を取り仕切っていた内直督護の丁旿にそのことを尋ねる際、話す都度に嘆息して「丁督護」と言う...

徐逵之の死

劉裕は404年に挙兵して以来、東晋を支配できるほどの力を得るようになりますが、長男が406年に生まれたように息子達全員が若すぎたため大任を与えられる身内が少ないという問題がありました。(有力な親族も2人の弟と母方の親族数名ぐらい)そこで、劉裕は長女の夫、婿に当たる徐逵之に期待を寄せ、415年に要所の荊州を任せる前段階の準備として荊州の司馬休之討伐の先鋒を任せ、功績を積ませようとします。ところが徐逵...
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宋の元勲2

恒例の短評。宋元勲編はここまでですが、次の補足編がほぼ宋元勲編となっています。劉穆之:字は道和。東莞・莒の人(居は京口)。義旗の時に44歳。追贈爵位は南康郡公(「文宣」公)。東晋末の劉裕(宋の武帝)の腹心筆頭。劉裕の主簿や録事参軍となり、謀主腹心として戦略や挙止言動の進言から諸事の決裁まで活躍し、412年から丹陽尹や僕射として後方・本拠を委ねられましたが、417年に亡くなったことで北伐軍の撤収を招...
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宋書紹介:列伝第四

宋書の列伝第四は謝晦の列伝です。(『南史』では、列伝第九が該当。)謝晦伝:謝晦は字を宣明といい、陳郡・陽夏の人です。祖父の謝朗は(東晋の)東陽太守、父の謝重は会稽王司馬道子の驃騎長史、兄の謝絢は劉裕の鎮軍長史でした。(名門「陳郡謝氏」、謝安の兄謝拠の系統)初任は孟昶の建威府中兵参軍で、(410年)孟昶が死ぬと劉穆之の推挙で劉裕の太尉参軍となります。刑獄参軍の代行で成果を挙げると刑獄賊曹となり、豫州...
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宋書紹介:列伝第三

宋書の列伝第三は徐羨之・傅亮・檀道済の列伝です。(『南史』では、列伝第五が該当。)徐羨之伝:徐羨之は字を宗文といい、東海・郯の人です。祖父の徐寧は(東晋の)尚書吏部郎、父の徐祚之は上虞令でした。王雅の太子少傅主簿、劉牢之の鎮北功曹、桓脩の撫軍中兵曹参軍となり、同府の劉裕と親交を結びました。(404年)義旗により劉裕の鎮軍参軍となり、尚書庫部郎、領軍司馬、琅邪王(司馬徳文)の大司馬参軍、司徒左西属、...
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宋書紹介:列伝第二

宋書の列伝第二は劉穆之(とその子孫)・王弘の列伝です。(『南史』では、劉穆之が列伝第五、王弘が列伝第十一。)劉穆之伝:劉穆之は字を道和、小字を道民といい、東莞・莒の人です。前漢の斉王劉肥の末裔で、(東晋では)代々、京口に住んでいました。博識であり、江敳に認められてその(琅邪府)主簿となります。(404年)劉裕が京城を(挙兵して)破ると招かれ、主簿に任命されます。劉裕が京邑に着くと、劉穆之は様々な処...
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檀道済の死

南朝が誇る名将とされる檀道済。彼は宋初に元勲の一員となり、少帝廃立に関わりながらも元嘉三年の誅殺では官軍側に起用され、文帝の下で宰相王弘と共に非宗室のトップとなっていました。その王弘も432年に没し、檀道済は最後の元勲にして当時最大の非宗室の重臣となります。しかしそれが仇となり、『宋書』巻五、文帝紀、元嘉十三年十三年春正月癸丑,上有疾,不朝會。三月己未,司空、江州刺史檀道濟有罪伏誅。庚申,大赦天下...
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