沈林子の出世

沈林子の列伝には細かい怪しい点があります。(細かくない怪しい点もありますが)『宋書』巻一百、自序伝、沈林子仍為本郡所命,劉毅又板為冠軍參軍,並不就。(中略)及高祖為揚州,辟為從事,謂曰:「卿何由遂得不仕。頃年相申,欲令萬物見卿此心耳。」固辭不得已,然後就職,領建熙令,封資中縣五等侯,時年二十一。例えば、劉裕が揚州刺史となった後に21歳で五等侯となったとありますが、劉裕が揚州刺史となったのは408年...
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沈林子の仇討ち

沈林子は18歳の夏、兄の沈田子(22歳)と共に仇討ちを決行します。ひと夏の思い出『宋書』巻一百、自序伝、沈林子從高祖剋京城,進平都邑。時年十八,身長七尺五寸。沈預慮林子為害,常被甲持戈。至是林子與兄田子還東報讎。五月夏節日至,預正大集會,子弟盈堂,林子兄弟挺身直入,斬預首,男女無長幼悉屠之,以預首祭父、祖墓。一族の仇である沈預が夏の節句(いわゆる旧暦の「端午の節句」)の行事で一族を集め、広間を埋め...
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沈林子と劉裕

沈林子は列伝では、文武両道、知勇兼備、仁義礼智忠信孝悌を体現し、君主や一流の名士から高く評価され、深く信頼された名臣・名将として書かれています。孝行な孫のおかげです。流石に著者の沈約(孫)も自覚と節度があったのか、他の列伝をむやみに侵食する暴挙には出ていないのはありがたいですね。官歴の改鼠もほとんど無さそうです。さて、沈林子を褒め称える一連の記述の中で、ある面白い特徴が見られます。『宋書』巻一百、...

張邵の生没年考

張邵が435年~440年のどこかで呉興太守となったとすると、いつ頃に亡くなったのか絞り込めそうです。元嘉十九年、442年4月には呉興太守が文道恩となっています。『宋書』巻二十八、苻瑞志中、霊亀宋文帝元嘉十九年四月戊申,白龜見吳興餘杭,太守文道恩以獻。『宋書』巻二十九、苻瑞志下、白雉元嘉十八年二月癸亥,白雉見南汝陰宋縣,太守文道恩以獻。その前年2月では文道恩はまだ南汝陰の太守なので、彼の呉興太守就任...
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張邵の晩年

宋書の本文が散逸したことで張邵の雍州刺史以降の記録は薄く、没年も享年も分かりません。『南史』巻四十六、張邵伝(元嘉)七年,(中略)邵坐降號揚烈將軍。江夏王義恭鎮江陵,以邵為撫軍長史、持節、南蠻校尉。九年,坐在雍州營私畜取贓貨二百四十五萬,下廷尉,免官削爵土。後為吳興太守,卒。追復爵邑,諡曰簡伯。元嘉七年(430年)以降に撫軍長史・南蛮校尉となり、元嘉九年(432年)に雍州時代の不正発覚で免官。後に...
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張邵と財物

張邵は職務に熱心で、智謀や見識を備え、劉裕への忠誠や劉裕からの信頼の厚い、名臣と呼べる人物でしたが、問題が無かったわけではありませんでした。『南史』巻四十六、張邵伝元嘉五年,轉征虜將軍,領寧蠻校尉、雍州刺史,加都督。(中略)及至襄陽,築長圍,修立堤堰,創田數千頃,公私充給。丹、淅二川蠻屢為寇,邵誘其帥並出,因大會誅之,遣軍掩其村落,悉禽。既失信羣蠻,所在並起,水陸路斷。七年,子敷至襄陽定省,當還都...
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王鎮悪と財物

劉毅平定後に武陵太守となった王鎮悪。これは新たに荊州刺史となった司馬休之への備えという目的もあったと思われ、実際に劉裕が司馬休之を討った際にその配下の朱襄を襲撃して殺害しています。『宋書』巻四十五、王鎮悪伝會高祖西討休之,鎮惡乃告諸將曰:「百姓皆知官軍已上,朱襄等復是一賊,表裏受敵,吾事敗矣。」乃率軍夜下,(中略)斬襄首,殺千餘人。鎮惡性貪,既破襄,因停軍抄掠諸蠻,不時反。及至江陵,休之已平,高祖...
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知将、王鎮悪

「江陵の戦い」や「渭橋の戦い」で自身を危険にさらしてまで奮戦した王鎮悪ですが、『宋書』巻四十五、王鎮悪伝頗讀諸子兵書,論軍國大事,騎乘非所長,關弓亦甚弱,而意略縱橫,果決能斷。騎乗や弓術を得手ではなかったそうです。一方で兵書を読み込み、謀略軍略に長け、決断力がありました。率先して戦っていましたが、いわゆる「頭脳派」ですね。北伐中に食料が枯渇すると上手く集めて解決したことや、『宋書』巻四十五、王鎮悪...
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猛将、王鎮悪

劉裕軍屈指の名将である王鎮悪の主な功績は「劉毅平定」と「後秦平定(北伐)」の2つです。まずは「劉毅平定」から。『宋書』巻四十五、王鎮悪伝高祖謀討劉毅,鎮惡曰:「公若有事西楚,請賜給百舸為前驅。」(中略)大軍西討,轉鎮惡參軍事,加振武將軍。高祖至姑孰,遣鎮惡率龍驤將軍蒯恩百舸前發,其月二十九日也。戒之曰:「(中略)若賊都不知消息,未有備防,可襲便襲。今去,但云劉兗州上。」鎮惡受命,便晝夜兼行,(中略...
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劉裕の青州平定と王鎮悪

『南史』巻一、宋武帝紀、義熙五年三月,帝抗表北討,以丹陽尹孟昶監中軍留府事。乃浮淮入泗,(中略)六月(中略)丙子,剋廣固大城,超固其小城。乃設長圍以守之,館穀於青土,停江、淮轉輸。義熙五年の三月に南燕征伐に向かった劉裕軍は、激戦の末に六月丙子(19日)に広固の大城を陥落させ、残る小城の慕容超を包囲します。『宋書』巻一、武帝紀上(義熙五年)大軍進廣固,即屠大城,超退保小城。於是設長圍守之,圍高三丈,...
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