廉川の謎2

素人なりに廉川の場所探し。まず、禿髪部は後涼の始めの頃には魏安や広武と縁があることから、武威と金城の間、西平の東に居たと思われます。その後、乙弗・折掘の部族を撃破し、廉川に拠点を置くようになりました。『晋書』巻一百二十六、禿髪烏孤載記烏孤討乙弗、折掘二部,大破之,遣其將石亦干築廉川堡以都之。烏孤登廉川大山,泣而不言。石亦干進曰:「臣聞主憂臣辱,主辱臣死,大王所為不樂者,將非呂光乎?光年已衰老,師徒...
タグ:南涼 地理

廉川の謎

『晋書』巻一百一、載記是歲也,呂光據姑臧稱涼。後十二年,慕容德據滑臺稱南燕。是歲也,禿髮烏孤據廉川稱南涼,段業據張掖稱北涼。後三年,李玄盛據敦煌稱西涼。晋書などによると南涼の創業の地は「廉川」と呼ばれる場所でした。ところが「廉川」は水経注などの多くの地理資料では漢中付近の地名として見られるだけであり(一部の注釈ではここを南涼の本拠として解説するぐらい)、南涼の拠点だったはずの「河西の廉川」の具体的...
タグ:地理 南涼

西涼前史3

『晋書』巻八十七、涼武昭王李玄盛伝(義熙)十三年,薨,時年六十七。國人上諡曰武昭王,墓曰建世陵,廟號太祖。李暠は417年に67歳で死去。つまり生年は351年。李暠の(現在の記録中の)最初の官は北涼が後涼から自立した(397年)後です。效穀県令。そして西涼建国が400年。時に50歳。40代後半で世に出る形となった李暠は(実際にはそれ以前から色々と歴任していると思われるとはいえ)、魏晋南北朝時代の創始...
タグ:西涼

西涼前史2

魏書と北史の記録の共通点に、李暠の曽祖父の李柔が相国従事中郎だったというものがあります。『魏書』巻九十九、私署涼王李暠伝李暠,字玄盛,小字長生,隴西狄道人也,漢前將軍廣之後。曾祖柔,晉相國從事中郎、北地太守。祖太,張祚武衞將軍。父昶,早卒,暠,遺腹子也。『北史』巻一百、序伝、李暠(前略)柔字德遠,晉舉秀才,為相國從事中郎、北地太守。柔生弇,字季子,高亮果毅,有智局。晉末大亂,與從兄卓居相國晉王保下...
タグ:西涼 前涼

西涼前史

西涼の創始者李暠は子孫が北魏で繁栄し、さらに末裔(を称した一族)が唐を建国したことから、勢力の規模の割に記録が豊富です。もちろんその先祖の記録もあります。『晋書』巻八十七、涼武昭王李玄盛伝武昭王諱暠,字玄盛,小字長生,隴西成紀人,姓李氏,漢前將軍廣之十六世孫也。廣曾祖仲翔,漢初為將軍,討叛羌于素昌,素昌即狄道也,眾寡不敵,死之。仲翔子伯考奔喪,因葬于狄道之東川,遂家焉。世為西州右姓。高祖雍,曾祖柔...
タグ:西涼

北涼前史2

『晋書』巻一百二十九、沮渠蒙遜載記蒙遜以安帝隆安五年自稱州牧,義熙八年僭立,後八年而宋氏受禪,以元嘉十年死,時年六十六,在偽位三十三年。沮渠蒙遜は433年(元嘉十年)に66歳で死去。生年は368年。(禿髪傉檀よりも4歳ほど年下ですね)沮渠蒙遜は前涼の張天錫の時に生まれ、9歳の時に前涼が前秦により併呑、後に父の沮渠法弘が前秦の中田護軍となり(故郷の臨松に駐屯)、沮渠法弘が死ぬと部曲を率い、(その前後...
タグ:北涼 後涼

北涼前史

北涼の創始者沮渠蒙遜に関する記録は、晋書と資治通鑑が最大手でしょう。『晋書』巻一百二十九、沮渠蒙遜載記沮渠蒙遜,臨松盧水胡人也。其先世為匈奴左沮渠,遂以官為氏焉。蒙遜博涉羣史,頗曉天文,雄傑有英略,滑稽善權變,梁熙、呂光皆奇而憚之,故常游飲自晦。晋書では沮渠蒙遜は臨松の盧水胡の出身であり、先祖が匈奴の左沮渠だったことからそれを姓としたことが載っていますが、具体的な先祖の名前や動静はありません。資治...
タグ:北涼 前涼

孟懐玉の生年

さて、記述通りなら兄の孟懐玉は385年生まれ、弟の孟龍符は377年となります。校勘では孟龍符を享年23歳とする意見があるようですが、挙兵時に18歳となり、すぐに参軍・太守となっていることから若すぎる気がします。いくら義旗参加組でひときわ家柄が良くても、無理があるのではないでしょうか。『宋書』巻四十七、孟懐玉伝高祖東伐孫恩,以懷玉為建武司馬。豫義旗,從平京城,進定京邑。以功封鄱陽縣侯,食邑千戶。(中...
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袁湛の生年

宋書の記述通りなら兄の袁湛は379年生まれ。弟の袁豹は373年生まれです。さて、どちらが間違いか。『宋書』巻五十二、袁湛伝袁湛字士深,陳郡陽夏人也。祖耽,晉歷陽太守,父質,琅邪內史,並知名。湛少為從外祖謝安所知,以其兄子玄之女妻之。初為衞軍行參軍,員外散騎,通直正員郎,中軍功曹,桓玄太尉參軍事。入為中書黃門侍郎,出補桓脩撫軍長史。義旗建,高祖以為鎮軍諮議參軍。袁湛は列伝のほぼ最初の記述で「謝安に認...
タグ: 東晋

南涼前史2

南涼君主の中で禿髪傉檀だけが生年を高い精度で予測できます。『晋書』巻一百二十六、禿髪傉檀載記熾磐以傉檀為驃騎大將軍,封左南公。歲餘,為熾磐所鴆。左右勸傉檀解藥,傉檀曰:「吾病豈宜療邪!」遂死,時年五十一,在位十三年,偽諡景王。武臺後亦為熾磐所殺。傉檀少子保周、臘于破羌、俱延子覆龍、鹿孤孫副周、烏孤孫承鉢皆奔沮渠蒙遜。久之,歸魏,魏以保周為張掖王,覆龍酒泉公,破羌西平公,副周永平公,承鉢昌松公。烏孤...
タグ:南涼

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