河南尹の王恂

『三国志』巻十三、王朗伝、王粛、注引『世語』字良夫,有通識,在朝忠正。歷河南尹、侍中,所居有稱。世語によると王恂は河南尹から侍中となったそうです。『晋書』巻九十三外戚伝、王恂王恂字良夫,文明皇后之弟也。父肅,魏蘭陵侯。恂文義通博,在朝忠正,累遷河南尹,建立二學,崇明五經。鬲令袁毅嘗餽以駿馬,恂不受。及毅敗,受貨者皆被廢黜焉。魏氏給公卿已下租牛客戶數各有差,自後小人憚役,多樂為之,貴勢之門動有百數。...
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王恂の生没年

西晋・武帝の時の外戚は、伯父(先々代の司馬師)の正妻系統の「泰山羊氏」(羊祜や羊琇)、父(先代の司馬昭)の正妻系統の「東海王氏」(王恂兄弟)、武帝の皇后系統の「弘農楊氏」(楊駿兄弟)の3系統がいます。「泰山羊氏」と「弘農楊氏」は取り上げたので、残る「東海王氏」。「東海王氏」は武帝の母方なだけあって王愷の贅沢を支援したなどの身内贔屓の逸話が残っていますが、まともに才望があった人物もいました。それが筆...
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羊琇

今回の「西晋重臣編」では残っている立伝者(の一部)を紹介します。まずは外戚の羊琇。『晋書』巻九十三外戚伝、羊琇羊琇字稚舒,景獻皇后之從父弟也。父耽,官至太常。兄瑾,尚書右僕射。琇少舉郡計,參鎮西鍾會軍事,從平蜀。及會謀反,琇正言苦諫,還,賜爵關內侯。琇涉學有智算,少與武帝通門,甚相親狎,每接筵同席,(中略)初,帝未立為太子,而聲論不及弟攸,文帝素意重攸,恒有代宗之議。琇密為武帝畫策,甚有匡救。(中...
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楊軌と西平

「後涼の重鎮」、「河西の群雄」、そして「南涼の賓客」だった楊軌という人物がいます。略陽氐だったとあり、後涼一族と同郷同部族。時系列上最初の記録は、392年の後涼の西秦(彭奚念)討伐に参加したというものです。『晋書』巻一百二十二、呂光載記武賁呂纂、強弩竇苟率步騎五千南討彭奚念,戰于盤夷,大敗而歸。光親討乾歸、奚念,遣纂及揚武楊軌、建忠沮渠羅仇、建武梁恭軍于左南。時に揚武将軍。『晋書』巻一百二十二、呂...
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西秦と禿髪如苟

資治通鑑では395年に「乞伏益州の姜乳討伐」と「後涼10万の西秦征伐」が載っています。晋書でも同じ記述がありますが、2つの間に面白い一文が入っています。『晋書』巻一百二十五 、乞伏乾帰載記索虜禿髮如苟率戶二萬降之,乾歸妻以宗女。それが「禿髪如苟の帰順」です。「禿髪姓」といえば南涼の禿髪一族。当時は禿髪烏孤が率いており、そこから分かれて降ったでしょうか。資治通鑑と晋書の記述をそのまま受け取れば、4月...
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三涼鼎立2

399年正月、前年末に「武威王」となった南涼の禿髪烏孤は楽都に遷都(廉川から?)。さらに禿髪烏孤は弟の驃騎大将軍・西平公禿髪利鹿孤を安夷、車騎大将軍・広武公禿髪傉檀を西平、叔父や従弟らを湟河・澆河・嶺南・廉川・浩亹に鎮守させました。他に賓客の楊軌や郭倖・楊統・史暠・金樹・趙振・趙晁・蘇霸といった著名な人物を用いたそうです。(漢人系も含まれ、河西方面だけでなく、秦雍の人物も居たようです)また、南涼は...
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三涼鼎立1

398年初頭、「大涼国」(後涼)は首都・姑臧城内の郭黁、郭黁の盟主となった楊軌(西平から北上?)、嶺南の南涼(禿髪烏孤)、張掖以西の北涼(段業や沮渠氏)が領内で反乱を起こしている状態でした。また、河南の西秦もこの頃には黄河南岸の枹罕を取り返し、さらに黄河北岸の金城郡一帯を攻略して万余りの住民を連れ去っており、398年11月頃には乞伏益州ら2万を派遣して吐谷渾の視羆を大破し、屈服させているなど、後涼...
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北涼の建国

呂光が河西で覇を唱える以前から、張掖郡臨松の盧水胡の有力氏族に「沮渠」氏がいました。史書上では匈奴の末裔としていますね。また、「大且渠」と呼ばれていたともあります。沮渠氏は沮渠祁復延が狄地王となり、後を継いだ子の沮渠法弘が前秦の中田護軍となっていました。(この中田護軍は臨松に置かれていたようです)呂光が涼州で王となった頃には沮渠蒙遜が父の沮渠法弘の部曲を引き継いでおり、また後涼に仕えて(宮殿に)宿...
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南涼の建国

396年6月、後涼の呂光が「大涼」の「天王」に即位。また、後涼は(冠軍大将軍・河西鮮卑大都統・)広武郡公だった禿髪烏孤に征南大将軍・益州牧・左賢王の位を与えました。かなり良い地位のはずであり、それだけ河西鮮卑の禿髪氏を重んじていたのでしょう。ところが禿髪烏孤は後涼の失政や呂光の親族の横暴を糾弾して従わなかったようです。(この頃の呂光は耄碌していたともあります)385年から河西に割拠した氐族の呂光に...
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後涼の覇権2

387年頃まで張大豫を支援していた河西鮮卑の禿髪思復鞬。時期は不明ですがそれから数年以内に禿髪思復鞬は死んだようで、息子の禿髪烏孤が勢力を引き継ぎます。その後、禿髪烏孤は後涼により仮節・冠軍大将軍・河西鮮卑大都統・広武県侯とされます。(時期不明。後涼の三河王即位、389年よりも後と思われます。通鑑では394年とされますが、遅過ぎるような)「大都統」は西秦が隴右の「休官大都統」を置いており、関連諸部...
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