楊駿の生年考

276年に皇后の父となった楊駿。彼の栄達はここから始まったように思えますが、『晋書』巻二十四、職官志咸寧元年,以給事黃門侍郎楊珧為詹事,掌宮事,二傅不復領官屬。前年に弟の弟である楊珧が既に黄門侍郎から太子詹事となっており、既に官界において一定の地位を確保していました。また、ここから楊珧の年齢は少なくとも255年頃以前の生まれとなるでしょう。ただ20代前半で黄門侍郎はけっこう早いので、240年代かそ...
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胡奮の生年考

『晋書』巻五十七、胡奮伝胡奮字玄威,安定臨涇人也,魏車騎將軍陰密侯遵之子也。奮性開朗,有籌略,少好武事。宣帝之伐遼東也,以白衣侍從左右,甚見接待。還為校尉,(後略)胡奮は238年の遼東遠征に従軍。その際に「以白衣侍従左右」とあり、特に官に就いていたわけではないようですが、父が参加していることから、その関係によるものでしょう。40代以上で無官状態で父と共に従軍というのは流石に違和感があるので、それ以...
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李胤の生年考

『晋書』巻四十四、李胤伝李胤字宣伯,遼東襄平人也。祖敏,漢河內太守,去官還鄉里,遼東太守公孫度欲強用之,敏乘輕舟浮滄海,莫知所終。胤父信追求積年,浮海出塞,竟無所見,欲行喪制服,則疑父尚存,情若居喪而不聘娶。後有鄰居故人與其父同年者亡,因行喪制服。燕國徐邈與之同州里,以不孝莫大於無後,勸使娶妻。既生胤,遂絕房室,恒如居喪禮,不堪其憂,數年而卒。胤既幼孤,母又改行,有識之後,降食哀戚,亦以喪禮自居。...
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李憙の生年考

『晋書』巻四十一、李憙伝李憙字季和,上黨銅鞮人也。父佺,漢大鴻臚。李憙の父は後漢の大鴻臚であり、220年に後漢が滅亡するまでにそれなりの年齢(50代ぐらい)にはなっていたでしょう。となると、李憙の生年は後漢中の可能性が高く、210年代のような最末期よりも前のほうがありえそうです。『晋書』巻四十一、李憙伝憙少有高行,博學研精,與北海管寧以賢良徵,不行。李憙はあの管寧と共に「賢良」として招かれています...
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西晋名門重臣の一例

西晋重臣編。前回の載せ忘れ分。羊琇:字は稚舒。泰山・南城の出身。建国時に30歳。爵位は甘露亭侯。(後に進爵?)羊徽瑜・羊祜の従弟(西晋外戚)。旧友の武帝・司馬炎の立太子を助け、西晋では寵遇を受けて中護軍として長らく禁兵を率いました。斉王出鎮の際に諌めて左遷され、まもなく死去。開府儀同三司などが追贈。王恂:字は良夫。東海・郯の出身。建国時に20代後半ぐらい。爵位は氶子。魏の重臣王粛の子、王元姫の弟、...
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魏の太守就任年齢

「魏臣で生年と太守就任時期が分かる者」に以下の人達がいます。195年生まれの王粛は240年から太守に就任。前は散騎常侍・領秘書監、次は議郎(その次が侍中)。46歳。198年生まれの杜恕は234年~239年の間から太守に就任。前は黄門侍郎、次は趙相。37歳~42歳。199年頃生まれの何曾は238年~247年の間から太守に就任。前は散騎常侍、次は侍中。40歳~49歳ぐらい。201年生まれの陳騫は250...
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呂光の子孫

呂光の子達は、甥(呂隆ら)が後涼を掌握する過程でおそらく河西から一層されており、その甥などの生き残った一族も移住先の後秦で内紛に関連して粛清されています。しかし華北で全滅したとしても、華南で実は生き残った可能性があります。『呂訓』http://blog.livedoor.jp/masudazigo-2nd/archives/1710315.html『呂訓』blog.livedoor.jp/masudazigo-2nd/archives/1833119.htmlそれが呂訓です。『宋書』巻四十七、劉懐粛伝、劉真...
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南涼の衰退1

409年、隴右で西秦の再興があった一方で、河西では「涼王」禿髪傉檀の2年目となる南涼と北涼を攻防が続いていたようです。とりあえず、409年正月に禿髪傉檀が子の禿髪明徳帰を南中郎将・領昌松太守としています。禿髪傉檀は時に46歳ですが、若い子供が多かったのか官が判明しているのは珍しいですね。(ただ将軍でも無いのでこちらも若そうです)さて、ここから時期不明なものばかり。まず、南涼は左将軍枯木(禿髪枯木?...

南涼の覇権2

一時は河西の覇者となった南涼ですが、407年9月に北涼に敗れて西郡を失い(均石の戦い)、11月に夏国に敗れて多くの将兵を失いました(陽武の戦い)。南涼君主の禿髪傉檀は東西からの侵略を恐れて首都の姑臧の周囲300里以内の住民を城内に移す政策を実行。しかしこれが国内の動揺を招き、屠各の成七児が300人を率いて(姑臧の)北城で挙兵、数千人の勢力を集めるという事件が起きます。これはすぐに鎮圧されますが(集...
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南涼の覇権1

406年6月、後秦に涼州刺史とされたことにより、南涼の禿髪傉檀は姑臧を獲得します。(称号は後秦から得た建康公?)まもなく禿髪傉檀は後秦に従属しつつも身の回りの制度を「王」相当のものにするようになり、河西の独立勢力(さらには覇者)に向かって進んでいますね。さて、禿髪傉檀は同406年8月に楽都に一旦帰ったのですが、姑臧獲得の影響なのか河西の諸勢力が一斉に動き始めます。その一つが南涼と西涼の和親。この際...
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