西晋の王乂2

世説新語には王乂に関連する可能性が高い記述がもう一つあります。『世説新語』第一、徳行編祖光祿少孤貧,性至孝,常自為母炊爨作食。王平北聞其佳名,以兩婢餉之,因取為中郎。有人戲之者曰:「奴價倍婢。」祖云:「百里奚亦何必輕於五羖之皮邪?」この逸話は晋書にも載っていますね。祖逖(266年~321年)の兄の祖納の話です。『晋書』巻六十二、祖逖伝、祖納納字士言,最有操行,能清言,文義可觀。性至孝,少孤貧,常自...
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西晋の王乂

中国史上で列伝という形でまとまった記録が残される人物はほんの一握りです。他の人物の記録でも分かるほどの重臣や活躍のあった人物でも選外になったりします。今回はそのような人物の紹介です。『晋書』巻四十三、王戎伝、王衍父乂,為平北將軍,常有公事,使行人列上,不時報。衍年十四,時在京師,造僕射羊祜,申陳事狀,辭甚清辯。祜名德貴重,而衍幼年無屈下之色,眾咸異之。楊駿欲以女妻焉,衍恥之,遂陽狂自免。武帝聞其名...
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段業、建康太守となる

『晋書』巻一百二十二、呂光載記光於是以太元二十一年僭即天王位,大赦境內,改年龍飛。立世子紹為太子,諸子弟為公侯者二十人。中書令王詳為尚書左僕射,段業等五人為尚書。396年6月、後涼の君主呂光が天王に即位し、段業ら5人を尚書としました。資治通鑑では段業は著作郎からでした。また、その上が尚書左僕射となった王詳ですね。その後、(おそらく同396年後半から)翌397年初頭に(かけて)後涼・呂光の西秦征伐が...
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晋昌太守沮渠男成

『魏書』巻九十九、盧水胡沮渠蒙遜伝呂光殺其伯父西平太守羅仇,蒙遜聚眾萬餘,屯於金山,與從兄晉昌太守男成共推建康太守段業為使持節、大都督、龍驤大將軍、涼州牧、建康公,稱神璽元年。魏書では沮渠男成の官を晋昌太守としています。もし挙兵時点で沮渠男成が後涼の晋昌太守だったならば、「晋昌太守王徳」は挙兵後の人事によるものとなりますね。『晋書』巻一百二十二、呂光載記蒙遜從兄男成先為將軍,守晉昌,聞蒙遜起兵,(...
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合黎の戦い2

沮渠蒙遜の去就について本人の載記や資治通鑑を疑いながら、「合黎の戦い」について考えてみます。397年5月(か翌月頃)、後涼の建康太守段業が沮渠男成らによって推戴され、独自元号を置いて自立。この沮渠男成は晋昌で挙兵して南下、酒泉を制圧してから建康に進んで段業を推戴し、段業の下で軍・政を委ねられていました。また、沮渠男成の挙兵は4月の沮渠蒙遜の挙兵が発端。一方の沮渠蒙遜は臨松で挙兵し、金山に入ったもの...
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王徳と孟敏と北涼史の謎3

沮渠蒙遜載記&資治通鑑で西郡制圧後に段業に降伏したとされる孟敏。『晋書』巻八十五、涼武昭王李玄盛伝呂光末,京兆段業自稱涼州牧,以敦煌太守趙郡孟敏為沙州刺史,署玄盛效穀令。敏尋卒,敦煌護軍馮翊郭謙、沙州治中敦煌索仙等以玄盛溫毅有惠政,推為寧朔將軍、敦煌太守。(中略)尋進號冠軍,稱藩于業。業以玄盛為安西將軍、敦煌太守,領護西胡校尉。この孟敏は同じ晋書では李暠(西涼)側の記録にも登場します。段業が涼州牧...
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王徳と孟敏と北涼史の謎2

晋書の沮渠蒙遜載記と資治通鑑は北涼史を理解する上で軸となる記録です。その両方で沮渠蒙遜が段業の下で最初に張掖太守とされ、王徳と孟敏の降伏は西郡制圧後となっています。また、資治通鑑では2名の降伏は398年夏かつ張掖を獲得する前で、そのまま王徳は酒泉太守となっています。『宋書』巻九十八、氐胡伝、胡大且渠蒙遜(段)業自號龍驤大將軍、涼州牧、建康公,以男成為輔國將軍。男成及晉昌太守王德圍張掖,剋之,業因據...
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王徳と孟敏と北涼史の謎

晋書の北涼側の記録(沮渠蒙遜載記)を見てみると、段業自立の次の記述は沮渠蒙遜の西郡攻略です。『晋書』巻一百二十九、沮渠蒙遜載記業以蒙遜為張掖太守,男成為輔國將軍,委以軍國之任。業將使蒙遜攻西郡,眾咸疑之。蒙遜曰:「此郡據嶺之要,不可不取。」業曰:「卿言是也。」遂遣之。蒙遜引水灌城,城潰,執太守呂純以歸。于是王德以晉昌,孟敏以敦煌降業。そして沮渠蒙遜が西郡を制圧すると、晋昌で王徳が、敦煌で孟敏が段業...
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合黎の戦い

397年5月(頃)、後涼の建康太守段業が沮渠男成らに推戴され、涼州牧・建康公などを名乗り、独自の元号を起きました。広義の北涼建国です。『資治通鑑』巻一百九、晋紀三十一、隆安元年男成等推業為大都督、龍驤大將軍、涼州牧、建康公,改元神璽。以男成為輔國將軍,委以軍國之任。蒙遜帥衆歸業,業以蒙遜為鎮西將軍。光命太原公纂將兵討業,不克。それから間もなくして後涼の呂纂が段業を討伐しますが、勝てませんでした。た...
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河西の合黎

合黎という地名は現在の甘粛省にも残っており、古来より合黎山と呼ばれる場所もありました。『太平御覧』巻六十五、地部三十、弱水『説文』弱水自張掖刪丹,西至酒泉合黎,餘波入于流沙。刪丹から北西に伸びる弱水の近く。ここでは酒泉とありますが、多くの場合は張掖郡の中でした。『史記』の注などでは「合黎山,張掖縣西北二百里也。」や「蘭門山,一名合黎,一名窮石山,在甘州刪丹縣西南七十里。」といった記述があり、張掖の...
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