建安十二年の大封

『三国志』巻一、武帝紀、建安十二年春二月,公自淳于還鄴。丁酉,令曰:「吾起義兵誅暴亂,於今十九年,所征必克,豈吾功哉?乃賢士大夫之力也。天下雖未悉定,吾當要與賢士大夫共定之;而專饗其勞,吾何以安焉!其促定功行封。」於是大封功臣二十餘人,皆為列侯,其餘各以次受封,及復死事之孤,輕重各有差。207年2月、曹操の上奏により功臣20人余りに対して封爵が行われ、彼らは列侯となったそうです。史記や漢書で劉邦の...
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東晋の劉瑾2

『宋書』巻十六、礼志三晉安帝義熙二年六月,白衣領尚書左僕射孔安國啟云:(中略)丁巳,詔皆白衣領職。於是博士徐乾皆免官。(中略)領司徒王謐、丹陽尹孟昶議:(中略)中領軍謝混、太常劉瑾議:(中略)太學博士徐乾議:(中略)員外散騎侍郎領著作郎徐廣議:(中略)左丞劉潤之等議:(中略)尚書奏從王謐議,以元年十月為始也。406年6月、東晋朝廷(劉裕政権)で殷祠について侃々諤々と議論が交わされました。范泰などが...
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東晋の劉瑾

東晋後期に劉瑾という人物がいます。『世説新語』第九、品藻桓玄問劉太常曰:「我何如謝太傅?」劉答曰:「公高,太傅深。」又曰:「何如賢舅子敬?」答曰:「樝、梨、橘、柚,各有其美。桓玄が質問を投げかけた相手の「劉太常」がその劉瑾です。まず、註に以下の情報があります。劉瑾集敘曰:「瑾字仲璋,南陽人。祖遐,父暢。暢娶王羲之女,生瑾。瑾有才力,歷尚書、太常卿。」劉瑾、字は仲璋といい、南陽の人でした。祖父は劉遐...
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謝超宗と謝吃葳

『太平御覧』巻九百一十五、羽族部二、鳳『宋書』謝鳳子吃葳有文辭,盛得名譽,選補新安王子鸞國常侍。王母殷淑儀卒,吃葳作誄,奏之,帝大嗟賞,謂謝莊曰:「吃葳殊有鳳毛!」時右衛將軍劉道隆在御坐,出,候吃葳曰:「聞君有異物,可見乎?」吃葳曰:「懸罄之室,復何異物耶?」道隆武人,無識,正觸其父名,曰:「旦侍宴,至尊說君有鳳毛。」吃葳徒跣還內,道隆謂檢覓毛,至暗,待不得,乃去。『太平御覧』巻九百一、獣部十三、...
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謝超宗の死

482年3月、南斉の高帝(蕭道成)が崩御し、皇太子の蕭賾(武帝)が即位します。『南史』巻十九、謝霊運伝、謝超宗武帝即位,使掌國史。除竟陵王征北諮議,領記室,愈不得志。超宗為子娶張敬兒女為婦,帝甚疑之。及敬兒誅,超宗謂丹陽尹李安人曰:「往年殺韓信,今年殺彭越,君欲何計?」安人具啟之。上積懷超宗輕慢,使兼中丞袁彖奏超宗請付廷尉。武帝雖可其奏,以彖言辭依違,使左丞王逡之奏彖「輕文略奏,撓法容非,請免彖所...
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謝超宗の舌禍

『南史』巻十九、謝霊運伝、謝超宗為人恃才使酒,多所陵忽,在直省常醉。上召見,語及北方事,超宗曰:「虜動來二十年矣,佛出亦無如之何。」以失儀出為南郡王中軍司馬。人問曰:「承有朝命,定是何府?」超宗怨望,答曰:「不知是司馬,為是司驢;既是驢府,政應為司驢。」為有司奏,以怨望免,禁錮十年。後司徒褚彥回因送湘州刺史王僧虔,閣道壞,墜水;僕射王儉驚跣下車。超宗拊掌笑曰:「落水三公,墜車僕射。」彥回出水,霑濕...
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謝超宗と南斉

『南斉書』巻三十六、謝超宗伝泰始初,為建安王司徒參軍事,尚書殿中郎。(中略)遷司徒主簿,丹陽丞。建安王休仁引為司徒記室,正員郎,兼尚書左丞中郎。以直言忤僕射劉康,左遷通直常侍。太祖為領軍,數與超宗共屬文,愛其才翰。衞將軍袁粲聞之,謂太祖曰:「超宗開亮迥悟,善可與語。」取為長史、臨淮太守。粲既誅,太祖以超宗為義興太守。昇明二年,坐公事免。(中略)板為驃騎諮議。及即位,轉黃門郎。有司奏撰立郊廟歌,敕司...
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謝超宗と鳳毛4

謝超宗と「鳳」に関する逸話はまだあります。『南史』巻二十、謝弘微伝、謝朏宋明帝嘗敕朏與謝鳳子超宗從鳳莊門入。二人俱至,超宗曰:「君命不可以不往。」乃趨而入。朏曰:「君處臣以禮。」遂退不入。時人兩稱之,以比王尊、王陽。宋の明帝(465年~472年)の時、皇帝の命令により謝超宗と謝朏が「鳳荘門」を通るように命じられました。謝超宗は謝鳳の子、謝朏は謝荘の子であり、「鳳荘門」はそれぞれの父の諱を犯す場所で...
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謝霊運の母と王氏

能書家の技術や背景についてまとめている書論は魏晋南北朝時代の文化人を調べる上でも参考になります。安易に読むだけでも正史には無い能書エピソードの回収に加え、「正史には無い事績や姻戚関係」が判明したりします。例えば、詩人として著名な謝霊運は能書家でもあったおかげで正史中に無い重大な情報が書論中で「よく」言及されています。なお、謝霊運は『書断』などの書論で言及された人物で、陳郡謝氏の中では特に書道にも優...
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石苞と徐州刺史胡質2

胡質でも、胡威でもないとすると、誰が良いでしょうか。『晋書』巻二、景帝紀(正元)二年春正月,有彗星見於吳楚之分,西北竟天。鎮東大將軍毋丘儉、揚州刺史文欽舉兵作亂,(中略)乃遣諸葛誕督豫州諸軍自安風向壽春,征東將軍胡遵督青、徐諸軍出譙宋之間,絕其歸路。そういえば、胡遵が征東将軍となり、青徐諸軍を率いています。ただ、256年7月に亡くなっていることから、「諸葛誕の乱」には参戦できませんね。『晋書』巻五...
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