東魏の高思宗

高歓の一世代下の高永楽は東魏において高湖の長男の系統の筆頭格と言える人物でした。また、次男の系統の筆頭格は高盛(高歓の一世代上)、三男の系統では高歓、四男の系統では高思宗(一世代下)でしょう。爵位では開国郡公の高盛、開国県公の高永楽、開国郡侯の高思宗の順。『魏書』巻三十二、高湖伝、高思宗謐弟稚,字幼寧。薄骨律鎮將,營州刺史。子陀,字難陀。沃野鎮長。卒,贈琅邪太守。子雍,字景雲,司徒從事。後與少子思...
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北斉の高長弼

東魏において、高歓の一世代下の宗室の中で最も重用されたのは高永楽でしょう。爵位は開国県公、追贈官は太師。540年に済州刺史の時に死去。享年は25歳?(高帰彦の約10歳年長?)その10年後に北斉が立てられると、弟の高長弼が王に封じられます。『北史』巻五十一、斉宗室諸王伝上、陽州公高永楽、高長弼永樂弟長弼,小名阿伽。性粗武,出入城市,好毆擊行路,時人皆呼為阿伽郎君。以宗室封廣武王。時有天恩道人,至凶暴...
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北斉の高普

平秦王高帰彦は建国時に傍流宗室の三番手、四貴の高隆之や高岳が死んだ後には傍流筆頭となり、文成帝崩御後は常山王(孝昭帝)や長広王(武成帝)の即位を助けて重んじられ、宗室のビッグスリーに到達しました。(残りは皇帝の異母兄、平陽王高淹と彭城王高浟)もう一息で群臣筆頭格でしたが、上洛王高思宗(建国時の四番手)の息子の高元海らに妨害され、次には562年に冀州で反乱を起こして誅殺となってしまいました。その甥(...
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会稽の陸康

ところで、呉郡は後漢になって設置された郡です。『後漢書』巻六、順帝紀、永建四年是歲,分會稽為吳郡。時期は129年。陸康は126年生まれと思われるので、4歳の時。『後漢書』巻三十一、陸康伝陸康字季寧,吳郡吳人也。祖父續,在獨行傳。父襃,有志操,連徵不至。つまり生まれた時の陸康は会稽人だったわけですね。本当は、会稽呉人。(もっとも幼名だったので、「陸康」という名前ではなかったと思いますが)『後漢書』巻...
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令和元年六月

六月の当ブログ記事のまとめです。「北斉宗室編」と「補足編」がメイン。6/1 「彝倫」諱や字に彝と倫を使っている者達の一例。6/2 「東魏の高盛」高歓の宗室(1世代上)の高盛の話。6/3 「五石の強弓使い」補足編6。五石の強弓使い。北魏の山強。6/4 「十石の強弓使い」補足編7。十石の強弓使い。北魏の奚康生。6/5 「三国西晋と異相1」補足編8。西晋関連の異相。司馬懿・司馬炎の話。6/6 「三国西晋...
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平秦王と奢麗な宗室達2

『北史』巻四十八、爾朱栄伝、爾朱文略初,神武遺令恕文略十死,恃此益橫,多所陵忽。齊天保末,嘗邀平秦、武興、汝南諸王至宅,供設奢麗,各有贈賄。諸王共假聚寶物以要之,文略弊衣而往,從奴五十人,皆駿馬侯服。其豪縱不遜如此。ここの「平秦」は高帰彦、「武興」は高普としても、「汝南」とは誰でしょうか。高帰彦も高普も東魏末からそれなりの地位にあり、北斉でも大成。特に高帰彦は文宣帝の代から明らかに寵遇されていまし...
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平秦王と奢麗な宗室達

『北史』巻四十八、爾朱栄伝、爾朱文略初,神武遺令恕文略十死,恃此益橫,多所陵忽。齊天保末,嘗邀平秦、武興、汝南諸王至宅,供設奢麗,各有贈賄。諸王共假聚寶物以要之,文略弊衣而往,從奴五十人,皆駿馬侯服。其豪縱不遜如此。平秦王有七百里馬,文略敵以好婢,賭取之。明日,平秦王使人致請,文略殺馬及婢,以二銀器盛婢頭馬肉而遺之。平秦王訴之於文宣,繫於京畿獄。文略彈琵琶,吹橫笛,謠詠倦極,便臥唱挽歌。居數月,奪...
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高帰彦の反骨の相

『北斉書』巻四十九、方技伝、皇甫玉皇甫玉,不知何許人。善相人,常遊王侯家。(中略)顯祖既即位,試玉相術,故以帛巾袜其眼,而使歷摸諸人。(中略)玉嘗為高歸彥相,曰:「位極人臣,但莫反。」 歸彥曰:「我何為反?」玉曰:「不然,公有反骨。」ある時、人相見の皇甫玉は高帰彦の相を見て、「位人臣を極めるが、反乱しないように」のように述べ、「私がどうして反乱なんてするのか」と言われると「反骨があるから」と述べた...
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高帰彦、文宣帝に殴られる

高帰彦は文宣帝・高洋に寵遇された人物です。年も近いですね(高帰彦が年長)。何か心温まるエピソードはないでしょうか。高岳殺しや高徳正の遺産の話以外で。『北史』巻五十一、斉宗室諸王伝上、平秦王高帰彦魏時山崩,得石角二,藏在武庫。文宣入庫,賜從臣兵器,特以二石角與歸彥,謂曰:「爾事常山不得反,事長廣得反,反時,將此角嚇漢。」歸彥額骨三道,着幘不安,文宣見之怒,使以馬鞭擊其額,血被面曰:「爾反時,當以此骨...
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高帰彦、文宣帝を殴る

文宣帝は昔から狂っていたという見方もあるかもしれませんが、帝紀の見解としては即位当初は精力的に的確に政務に取り組み、軍事においてもまた率先して動いて成果を挙げていたとしています。まさしく名君。帝紀曰く、おかしくなったのは6、7年目から。そこで引用されるエピソードの一つが以下のものです。『北史』巻七、斉文宣帝紀既征伐四剋,威振戎夏,六七年後,以功業自矜,遂留情耽湎,肆行淫暴。(中略)太后嘗在北宮,坐...
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