聊城の劉度壘

朱超石・胡藩・劉栄祖が北魏を撃破した「半城之役」。『魏書』巻一百六、地理志中、済州、平原郡聊城二<漢屬東郡,晉屬。魏置太平鎮,後罷併郡。有王城,郡、縣治。有畔城。>戦場となった「半城」は「畔城」とも書き、平原郡の聊城県にありました。『宋書』巻四十五、劉懐慎伝、劉栄祖高祖北伐,轉鎮西中兵參軍,寧遠將軍。水軍入河,與朱超石大破索虜於半城,又攻劉度壘克之。高祖大饗戰士,謂榮祖曰:「卿以寡克眾,攻無堅城,...
タグ:地理 北魏

2つの太原王氏2

『南史』巻二十五、王懿伝北土重同姓,並謂之骨肉,有遠來相投者,莫不竭力營贍。若有一人不至者,以為不義,不為鄉邑所容。仲德聞王愉在江南貴盛,是太原人,乃遠來歸愉。愉接遇甚薄,因至姑孰投桓玄。華南で栄えた「晋陽県の王氏」の王愉を同胞として頼ったものの、冷たくされた華北の「祁県の王氏」出身の王懿は、これがきっかけで桓玄に投じたそうです。王愉は会稽王司馬道子の一派として王恭・庾楷ら地方の都督を抑える役回り...
タグ:太原王氏 東晋

2つの太原王氏

著名な「太原王氏」は2系統います。本籍が祁県か晋陽県の違い。後漢の王允、魏の王淩は祁県。魏の王昶、西晋の王沈・王渾、東晋の王坦之・王愉などは晋陽県。この一族の関係の例として、王昶は王淩とは別系統だったものの、王淩に兄事していました。(後漢の末期)『三国志』巻二十七、王昶伝王昶字文舒,太原晉陽人也。少與同郡王淩俱知名。淩年長,昶兄事之。同族と同郷人の間ぐらいの感覚だったかもしれませんね。(その当時、...
タグ:太原王氏 東晋

北魏の郭逸2

『魏書』巻三十五、崔浩伝(前略)於是使浩奉策告宗廟,命世祖為國副主,居正殿臨朝。司徒長孫嵩、山陽公奚斤、北新公安同為左輔,坐東廂西面;浩與太尉穆觀、散騎常侍丘堆為右弼,坐西廂東面。百僚總己以聽焉。崔浩は明元帝の晩年には拓跋燾に政治を任せるように勧め、また長孫嵩・奚斤・安同・穆観・丘堆と共に拓跋燾の補佐となりました。この中で崔浩は唯一の漢人であり、長孫嵩は司徒、穆観は太尉、奚斤はまもなく司空になった...
タグ:太原王氏 北魏

北魏の郭逸1

『魏書』巻三十五、崔浩伝浩始弱冠,太原郭逸以女妻之。浩晚成,不曜華采,故時人未知。逸妻王氏,劉義隆鎮北將軍王仲德姊也,每奇浩才能,自以為得壻。俄而女亡,王深以傷恨,復以少女繼婚。逸及親屬以為不可,王固執與之,逸不能違,遂重結好。崔浩は20歳ぐらいの頃、太原の郭逸の娘と結婚しました。当時の崔浩はまだ世間の評判を得ていませんでしたが、郭逸の妻の王氏(太原人)には評価され、結婚につながったそうです。崔浩...
タグ:太原王氏 北魏

王懿の姉と崔浩2

「王懿の姉と崔浩」で「王懿(王仲徳)の姉」は「太原の郭逸」の妻となり、その娘(郭氏)が崔浩に嫁いでいると述べました。また、崔浩と共に「太原郭氏」も誅殺されたものの、王懿の姉が属する「太原(祁)王氏」への影響は不明とも書きました。実は「太原の郭逸」の孫の列伝が魏書にあります。『魏書』巻六十四、郭祚伝郭祚,字季祐,太原晉陽人,魏車騎郭淮弟亮後也。祖逸,州別駕,前後以二女妻司徒崔浩,一女妻浩弟上黨太守恬...
タグ:太原王氏 北魏

令和元年十月

十月の当ブログ記事のまとめです。「王導一家編」と「北燕前史編」がメイン。10/1 「王導と蔡謨2」王導一家編7。蔡謨が司徒左長史となる前後の官歴考。10/2 「王導の長男・王悦1」王導一家編8。王導の長男、王悦の話。10/3 「王導の長男・王悦2」王導一家編9。王悦の事績まとめ。10/4 「王導・曹淑・雷尚書3」王導一家編10。王導の側室・雷氏の全盛期と「蘇峻の乱」などについて。10/5 「王彬と...
タグ:紹介

李膺と杜密6

『後漢書』巻六十七、党錮伝、李膺李膺字元禮,潁川襄城人也。祖父脩,安帝時為太尉。父益,趙國相。膺性簡亢,無所交接,唯以同郡荀淑、陳寔為師友。(中略)以公事免官,還居綸氏,教授常千人。南陽樊陵求為門徒,膺謝不受。陵後以阿附宦官,致位太尉,為節者所羞。(中略)是時朝庭日亂,綱紀穨阤,膺獨持風裁,以聲名自高。士有被其容接者,名為登龍門。『後漢書』巻七十、孔融伝時河南尹李膺以簡重自居,不妄接士賓客,敕外自...
タグ:後漢 潁川

李膺と杜密5

『三国志』巻十三、鍾繇伝、注引『先賢行状』膺之姑為皓兄之妻,生子覲,與膺年齊,並有令名。覲又好學慕古,有退讓之行。(中略)覲辟州宰,未嘗屈就。膺謂覲曰:「孟軻以為人無好惡是非之心,非人也。弟於人何太無皂白邪!」覲嘗以膺之言白皓,皓曰:「元禮,祖公在位,諸父並盛,韓公之甥,故得然耳。國武子好招人過,以為怨本,今豈其時!保身全家,汝道是也。」覲早亡,膺雖荷功名,位至卿佐,而卒隕身世禍。李膺の同年の従兄...
タグ:後漢 潁川

李膺と杜密4

李膺と杜密はセットで扱われることが時々ありますが、お互いに何か行ったとか、直接関わる逸話は意外とありません。その珍しい事例として、聶季宝を巡る話があります。『太平広記』巻一百六十四、名賢、李膺『商芸小説』膺同縣聶季寶,小家子,不敢見膺。杜周甫知季寶,不能定名,以語膺。呼見,坐置砌下牛衣上。一與言,即決曰:「此人當作國士。」卒如其言。聶季宝は李膺と同じ県(襄城県)の出身でしたが、家柄は低く、李膺と面...
タグ:後漢 潁川

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム