南北司二州刺史の陳慶之1

『梁書』巻三十二、陳慶之伝中大通二年,除都督南北司西豫豫四州諸軍事、南北司二州刺史,餘並如故。慶之至鎮,遂圍懸瓠。破魏潁州刺史婁起、揚州刺史是云寶於溱水,又破行臺孫騰、大都督侯進、豫州刺史堯雄、梁州刺史司馬恭於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸轉運,江湖諸州並得休息。開田六千頃,二年之後,倉廩充實。高祖每嘉勞之。又表省南司州,復安陸郡,置上明郡。大同二年,魏遣將侯景率眾七萬寇楚州,刺史桓和陷沒,景仍進軍淮上...
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北兗州刺史の陳慶之3

『梁書』巻三十二、陳慶之伝至都,仍以功除右衞將軍,封永興縣侯,邑一千五百戶。出為持節、都督緣淮諸軍事、奮武將軍、北兗州刺史。會有妖賊沙門僧強自稱為帝,土豪蔡伯龍起兵應之。僧強頗知幻術,更相扇惑,眾至三萬,攻陷北徐州,濟陰太守楊起文棄城走,鍾離太守單希寶見害,使慶之討焉。車駕幸白下臨餞,謂慶之曰:「江、淮兵勁,其鋒難當,卿可以策制之,不宜決戰。」慶之受命而行。曾未浹辰,斬伯龍、僧強,傳其首。中大通二...
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北兗州刺史の陳慶之2

『梁書』巻三十二、陳慶之伝出為持節、都督緣淮諸軍事、奮武將軍、北兗州刺史。會有妖賊沙門僧強自稱為帝,土豪蔡伯龍起兵應之。僧強頗知幻術,更相扇惑,眾至三萬,攻陷北徐州,濟陰太守楊起文棄城走,鍾離太守單希寶見害,使慶之討焉。車駕幸白下臨餞,謂慶之曰:「江、淮兵勁,其鋒難當,卿可以策制之,不宜決戰。」慶之受命而行。曾未浹辰,斬伯龍、僧強,傳其首。『南史』巻六十一、陳慶之伝出為北兗州刺史、都督緣淮諸軍事。...
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北兗州刺史の陳慶之1

『梁書』巻三十二、陳慶之伝至都,仍以功除右衞將軍,封永興縣侯,邑一千五百戶。出為持節、都督緣淮諸軍事、奮武將軍、北兗州刺史。『南史』巻六十一、陳慶之伝至都,仍以功除右衞將軍,封永興侯。出為北兗州刺史、都督緣淮諸軍事。陳慶之は首都・建康に生還すると右衛将軍となり、中央勤務となりますが、またしばらくして前線に戻ることになります。今度は都督と刺史の肩書で。出世したものです。拝命した内容は「持節」「都督縁...
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周捨の死2

「周捨の死」の続き。「太子詹事蕭子恪」問題:『梁書』巻三十五、蕭子恪伝普通元年,遷宗正卿。三年,遷都官尚書。四年,轉吏部。六年,遷太子詹事。大通二年,出為寧遠將軍、吳郡太守。三年,卒于郡舍,時年五十二。蕭子恪が普通六年に太子詹事になったという記述があります。周捨との重複を避けるなら、上記の議論から、この記述は「(普通)七年」「(普通)八年」「大通元年」のいずれかの間違いである可能性があります。『梁...
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周捨の死

周捨の死は梁の政治上でやや重要な出来事ですが、正史上で怪しい点があります。『梁書』巻二十五、周捨伝普通五年,南津獲武陵太守白渦書,許遺捨面錢百萬,津司以聞。雖書自外入,猶為有司所奏,捨坐免。遷右驍騎將軍,知太子詹事。以其年卒,時年五十六。上臨哭,哀慟左右。詔曰:「太子詹事、豫州大中正捨,奄至殞喪,惻愴于懷。其學思堅明,志行開敏,劬勞機要,多歷歲年,才用未窮,彌可嗟慟。宜隆追遠,以旌善人。可贈侍中、...
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奮武将軍と陳慶之

『梁書』巻三十二、陳慶之伝至都,仍以功除右衞將軍,封永興縣侯,邑一千五百戶。出為持節、都督緣淮諸軍事、奮武將軍、北兗州刺史。陳慶之は右衛将軍の次に北兗州刺史・都督・奮武将軍となります。梁で「奮武将軍」?『隋書』巻二十六、百官志上、梁其不登二品,應須軍號者,有牙門、代舊建威。期門,代舊建武。為八班。候騎、代舊振威。熊渠,代舊振武。為七班。中堅、代舊奮威。典戎,代舊奮武。為六班。戈船、代舊揚威。繡衣,...
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右衛将軍・永興県侯の陳慶之3

「右衛将軍・永興県侯の陳慶之2」の「右衛将軍」の続き。この右衛将軍は梁ではどのような地位だったのでしょうか。梁の朝廷中心の官位は十八班(「十八班」~「一班」までの18階級)に分かれていました。(将軍・地方官・下級役人などは別のシステム)トップは「十八班」、三公以上の最上位です。武帝の時は0~1人の期間がほとんど(1年ほど3人も居ました)。魏晋南北朝時代の宰相~準宰相クラスの尚書僕射や中書監は「十五...
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右衛将軍・永興県侯の陳慶之2

529年の北伐と破滅から生還した陳慶之は右衛将軍となりました。(時に46歳)右衛将軍は(やや格上の)左衛将軍と共に「二衛将軍」とも呼ばれ、いわゆる近衛兵を率いた長官の一人。(なお、宿衛軍の長官達、領軍・護軍・左衛・右衛・驍騎・游騎は六軍将軍と呼ばれていましたが、梁では驍騎と游騎はそれぞれ左右が置かれ、さらに下に雲騎・游騎などが置かれたりして再編が進められていました)当時の左衛将軍は正史に載っていま...
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右衛将軍・永興県侯の陳慶之1

『梁書』巻三十二、陳慶之伝慶之馬步數千,結陣東反,榮親自來追,值嵩高山水洪溢,軍人死散。慶之乃落鬚髮為沙門,間行至豫州,豫州人程道雍等潛送出汝陰。至都,仍以功除右衞將軍,封永興縣侯,邑一千五百戶。『南史』巻六十一、陳慶之伝慶之馬步數千結陣東反,榮親自來追,軍人死散。慶之乃落鬚髮為沙門,間行至豫州,州人程道雍等潛送出汝陰。至都,仍以功除右衞將軍,封永興侯。何とか帰国できた陳慶之は都に到着すると、功績...
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