慕容皝の世子

333年に慕容廆が死ぬと、世子の慕容皝が勢力を継承します。『資治通鑑』巻九十五、晋紀十七、咸康元年秋,七月,慕容皝立子儁為世子。『晋書』巻一百九、慕容皝載記遣兼長史劉斌、郎中令陽景送徐孟等歸于京師。使其世子儁伐段遼諸城,封弈攻宇文別部,皆大捷而歸。『資治通鑑』巻九十五、晋紀十七、咸康三年冬,十月,丁卯,皝即燕王位,大赦。十一月,甲寅,追尊武宣公為武宣王,夫人段氏曰武宣后;立夫人段氏為王后,世子儁為...
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安衆将軍・元就亭侯の尹神?

創作(妄想)用の小ネタシリーズ。上尊号碑編。上尊号碑の「安衆将軍 元就亭侯 臣神」という人物って気になりませんか?なんたって名前が「神」ですよ!!!「神」の名を持つ者は、北魏で李神・李神軌・李神儁(全員別の一族)が揃う紛らわしい状況がありましたが、全体としては余り見かけません。三国志に近い時代でも思い当たりません。誰がご存知でしたらご連絡願います。色々考えた結果(妄想とこじつけのはてに)、候補の一...
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夏侯兄弟vs源子恭

524年に始まった北伐は徐々に成果を挙げ、北魏の「州」を複数制圧し、梁はその倍の「州」を置きました。(「州治」以外の獲得した要地にも新たに州を設置しています)淮水中流~上流にかけて制圧した州は以下の通り。526年、夏侯亶・湛僧智・元樹が北魏の揚州/寿陽を制圧し、夏侯亶が寿陽の豫州刺史に就任。527年、湛僧智・夏侯夔が北魏の東豫州/広陵を制圧し、湛僧智が広陵の西豫州刺史に就任。528年、元樹・夏侯夔...
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夏侯夔の北伐3

『梁書』巻二十八、夏侯亶伝、夏侯夔詔以僧智領東豫州,鎮廣陵。夔引軍屯安陽。夔又遣偏將屠楚城,盡俘其眾,由是義陽北道遂與魏絕。湛僧智と協力して北魏の東豫州を落とした後、夏侯夔は西の安陽に駐屯し、配下に義陽の北の楚城を襲撃・陥落させました。これで義陽北道は遮断され、淮水南岸の義陽城をさらに追い詰めます。『魏書』巻八十、賈顕度伝、賈智蕭衍將夏侯夔攻郢州,以智為龍驤將軍、別將討之。至則夔退,智仍入城。及刺...
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夏侯夔の北伐2

527年1月に夏侯夔が三関を攻略。(「夏侯夔の北伐1」)『魏書』巻九、孝明帝紀、孝昌三年三年春正月(中略)辛卯,蕭衍將湛僧珍圍東豫州,詔散騎常侍元暐為都督以討之。この同時期に湛僧智が北魏の東豫州を包囲していました。湛僧智は前年11月まで寿陽攻略に参加していた驍将で、淮南の譙州刺史。さらに並行して蘭欽らが徐州方面、陳慶之らが渦陽を攻撃しており、広範囲に渡る北伐が行われていました。『魏書』巻九、孝明帝...
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夏侯夔の北伐1

梁は建国前に寿陽の豫州、建国後に義陽の司州と南鄭の梁州を立て続けに失っており、国境が後退していました。数度の北伐と攻防により北魏に打撃を与え、一部の国境を押し上げますが、失陥した3州の中心地は奪還できずにいました。その間、各州は後退した位置に再設置されており、例えば司州は安陸に置かれていました。夏侯亶が509年から513年の間に司州刺史として統治したのがここです。『梁書』巻三、武帝紀下、普通五年十...
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夏侯亶の北伐2

寿陽城は周囲を水路に囲まれており、水利の便があり、防御にも適していましたが、増水の影響を受けやすい地勢にありました。『資治通鑑』巻一百五十一、梁紀七、普通七年(七月)上聞堰水盛,壽陽城幾沒,復遣郢州刺史元樹等自北道攻黎漿,豫州刺史夏侯亶等自南道攻壽陽。526年、(前年に修復された)淮堰により淮水の水嵩が増え、寿陽城が水没しかけます。それを聞いた武帝は再び寿陽攻撃の命令を下し、元樹に北道から、夏侯亶...
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慕容皝の子の初陣

慕容皝載記では、慕容皝の子で軍事に携わった記録がある者が3人います。それが慕容儁と慕容恪と慕容垂です。今回は彼らの記録上の初陣を見ていきましょう。『晋書』巻一百九、慕容皝載記遣兼長史劉斌、郎中令陽景送徐孟等歸于京師。使其世子儁伐段遼諸城,封弈攻宇文別部,皆大捷而歸。(中略)季龍進入令支,怒皝之不會師也,進軍擊之,至于棘城,戎卒數十萬,四面進攻,郡縣諸部叛應季龍者三十六城。相持旬餘,左右勸皝降。皝曰...
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魏の尹礼/尹盧

『三国志』巻一、武帝紀、建安三年太山臧霸、孫觀、吳敦、尹禮、昌豨各聚眾。布之破劉備也,霸等悉從布。布敗,獲霸等,公厚納待,遂割青、徐二州附於海以委焉,分瑯邪、東海、北海為城陽、利城、昌慮郡。尹礼は泰山の臧覇らと共に徐州北部にいた小群雄であり、徐州の呂布を滅ぼした曹操に臧覇らと共に帰順し、青州・徐州方面を委ねられた者の一人です。(資治通鑑などで「泰山諸将」と呼ばれる集団の一員)『三国志』巻十八、臧覇...
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夏侯亶の北伐1

夏侯亶・夏侯夔らが生まれ育った寿陽は500年に陥落し、数度の梁(前期)の北伐でも奪還できずにいました。これらの北伐に参加した裴邃も寿陽に代々住んでおり、寿陽が陥落した時も現地に居ましたが、まもなく南朝に亡命して各地で活躍したという人物。520年代に入ると前期北伐を支えた者達の多くが死去又は引退しており、裴邃も中央で(軍事に関係しない)大匠卿の地位にいましたが、521年には義州奪還を指揮し、続いて豫...
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