夏侯端の父の謎2

『旧唐書』巻一百八十七、忠義伝上、夏侯端夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳之孫也。『新唐書』巻一百九十一、忠義伝上、夏侯端夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳孫也。夏侯端は新旧唐書で夏侯詳の孫とあります。夏侯詳は434年生まれ。夏侯端は627年没。祖父が生まれて193年後に孫が死ぬというのは年齢差がすごいことになります。例えば、「祖父が60歳の時に生まれた子である父が60歳の時に生まれた子が75歳で...
タグ:

夏侯端の父の謎

『旧唐書』巻一百八十七、忠義伝上、夏侯端夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳之孫也。仕隋為大理司直。『新唐書』巻一百九十一、忠義伝上、夏侯端夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳孫也。仕隋為大理司直。夏侯端は祖父の記録はありますが、父の記録が正史に載っていません。貴重な手がかりとなるのが『元和姓纂』です。(信憑性はさておき)『元和姓纂』巻七、夏侯氏漢有太僕夏侯嬰,譙國人。嬰孫夏侯建。建三代孫妙才,魏征西...
タグ:

夏侯詳の孫の夏侯端

梁の重臣夏侯詳の孫である夏侯端は隋や唐に仕えました。『新唐書』巻一百九十一、忠義伝上、夏侯端夏侯端,壽州壽春人,梁尚書左僕射詳孫也。仕隋為大理司直。高祖微時與相友,大業中討賊河東,表端為副。端邃數術,密語高祖曰:「玉牀搖,帝坐不安。晉得歲,真人將興,安天下之亂者,其在公乎!但上性沈忌,內惡諸李,今金才已誅,次且取公,宜蚤為計。」帝感其言。(中略)貞觀元年卒。夏侯端は後に唐を建国する李淵と旧知の仲で...
タグ:

前燕の流民4郡と内史

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年是時中國流民歸廆者數萬家,廆以冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,幷州人為唐國郡。流民の出身地に合わせて冀陽郡・成周郡・営丘郡・唐国郡が前燕(の前身)に置かれました。「郡」なので、普通ならこれら4郡は「太守」が長官のはず。『資治通鑑』巻九十六、晋紀十八、咸康七年春,正月,燕王皝使唐國內史陽裕等築城於柳城之北,龍山之西,立宗廟、宮闕,命曰龍城。とこ...
タグ:地理 前燕

唐国郡

『資治通鑑』巻八十九、晋紀十一、建興二年是時中國流民歸廆者數萬家,廆以冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,幷州人為唐國郡。『晋書』巻一百八、慕容廆載記時二京傾覆,幽冀淪陷,廆刑政修明,虛懷引納,流亡士庶多襁負歸之。廆乃立郡以統流人,冀州人為冀陽郡,豫州人為成周郡,青州人為營丘郡,并州人為唐國郡。慕容廆は314年頃に傘下に逃れてきた各地の流民に合わせて郡を置きました。その一つが并州人を対...
タグ:前燕

南燕の公孫氏の戦い3

410年1月、半年を超える包囲戦により広固小城の城内は半数が病を患い、降伏する者が相次ぐ状況でしたが、慕容超は降伏を勧めた重臣を投獄したり、降伏するぐらいなら戦って死ぬと述べたりしており、慕容超は降伏するつもりがさらさら無かったようです。(泣くほど追い詰められていましたが)『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙六年春,正月,甲寅朔,南燕主超登天門,朝群臣於城上。乙卯,超與寵姬魏夫人登城,見晉兵...
タグ:南燕 東晋

南燕の公孫氏の戦い2

409年2月の公孫帰らの東晋攻撃・略奪は、大きな反撃を招きます。それが5月に始まった、劉裕の北伐です。『資治通鑑』巻一百一十五、晋紀三十七、義熙五年(五月)南燕主超聞有晉師,引群臣會議。征虜將軍公孫五樓曰:「吳兵輕果,利在速戰,不可爭;宜據大峴,使不得入,曠日延時,沮其銳氣,然後徐簡精騎二千,循海而南,絕其糧道,別敕段暉帥兗州之眾,緣山東下,腹背擊之,此上策也。各命守宰依險自固,校其資儲之外,餘悉...
タグ:南燕 東晋

南燕の公孫氏の戦い1

405年に南燕の君主になった慕容超の記録上最初の戦は翌406年の慕容法・慕容鍾・段宏らの討伐です。公孫五楼は慕容超の腹心になり、慕容鍾と対立してその排除を目論んでいたとされますが、この「慕容鍾の乱」平定に関わった記録はありません。指揮官は慕容鎮や韓範。当時の官位は武衛将軍・領屯騎校尉だったと思われますが、禁軍を率いるだけで討伐には参加しなかったのでしょうか。あるいは中央で慕容超を補佐?後に公孫五楼...
タグ:南燕 東晋

南燕と公孫氏5

「南燕と公孫氏4」の続き。376年に前秦が前涼を滅ぼした後、慕容徳は張掖太守として涼州に着任。『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容超崔鴻『十六国春秋・南燕録』慕容超,字祖明,德兄北海王納之子。秦滅燕,以納為廣武太守,數歲去官,與母公孫太妃就弟德于張掖。德從符堅南征,留金刀,辭母而去。兄の慕容納も広武太守となり、兄弟揃って涼州にいたようです。母の公孫氏は兄の方に随行したものと思われます。数年...
タグ:南燕 後燕 前秦

南燕と公孫氏4

今回は慕容徳の母の公孫氏の生涯を見ていきましょう。333年に鮮卑慕容部の首長の慕容廆が死ぬと三男の慕容皝(37歳)が勢力を継承しますが、そこで離反した兄や弟との戦いが336年まで続きました。この頃に公孫氏が慕容皝の側室の一員になったのではないでしょうか。また、少なくとも一人の男児を出産。これが慕容納です。『太平御覧』巻一百二十六、偏霸部十、南燕慕容徳崔鴻『十六国春秋・南燕録』慕容德,字玄明,皝之少...
タグ:南燕 前燕

プロフィール

三文寒士

Author:三文寒士
魏晋南北ブログへようこそ!

反応は遅いですが、ご意見・ご要望などがあれば、気軽にブログやツイッターへどうぞ

最新記事

検索フォーム