高宝と阮放の死の謎8

列伝の阮放の享年って間違っていませんか?

『晋書』巻四十九、阮籍伝、阮放
到州少時,暴發渴,見寶為祟,遂卒,朝廷甚悼惜之,年四十四。追贈廷尉。

列伝が言うには享年44歳。正確な没年は不明。前後関係から、320年代と推定できる程度。
弟の阮裕も高名な人物ですが、生年が不明確なため絞り込みには使いにくいですね。

『太平御覧』巻二百一十六、職官部十四、吏部郎中
『晋中興書』
阮放與從弟孚齊名,爲吏部郎,銓管之任,甚有稱譽。性清約,不理産業,爲郎不免饑乏。王導、庾亮以其名士,供給衣食,放由是得立。

『晋中興書』によると、阮放は従弟の阮孚に匹敵する名声があったとか。
(この記述は太平御覧と芸文類聚にあります)

阮孚は327年に49歳で死去。よって生年は279年。
彼は「阮放の従弟」、つまり阮放阮孚よりも年長となるでしょう。
そういえば、兗州八伯でも八達でも阮放阮孚よりも先に載せられています。年長なら納得です。

阮放の生年を279年以前とすると、没年は322年以前。
おや?
今まで散々323年以降に亡くなったとして考察していましたが、全て間違い?

しかし阮放が死ぬのは梁碩平定後のはず。
梁碩の平定を322年以前とするものはなく、阮放側を修正するのが筋ではないでしょうか。

その場合の解決策の一つが阮放の享年を誤字とするもの。
323年以降に44歳となるのが間違い。(生年は380年以降ではない)

『晋書』巻四十九、羊曼伝
時州里稱陳留阮放為宏伯,高平郗鑒為方伯,泰山胡毋輔之為達伯,濟陰卞壼為裁伯,陳留蔡謨為朗伯,阮孚為誕伯,高平劉綏為委伯,而曼為濌伯,凡八人,號兗州八伯,蓋擬古之八雋也。


兗州八伯は、阮放が筆頭、次いで郗鑒胡毋輔之卞壼蔡謨阮孚劉綏、そして最後に羊曼という順で紹介されています。
郗鑒は269年生まれ。
胡毋輔之は267年生まれ?
卞壼は281年生まれ。
蔡謨は281年生まれ。
阮孚は279年生まれ。
羊曼は274年生まれ。

上下で10年ほど差がありますね。
郗鑒胡毋輔之が上、次の卞壼蔡謨阮孚が下の世代のグループ。
阮放郗鑒らに近いとすると、享年は10歳ぐらい年長とした方が良いでしょう。
270年生まれなら、323年に54歳。
ちょうど阮放の没年候補の年に、享年が「四十四」ではなく「五十四」だったとなるパターン。
2~3年後ろにずらせば、享年が正史の10歳上で没年が成帝の時となります。

こちらの方が何かと都合が良いと思うのですが、どうなのでしょうね。


それにしても高宝阮放、どうしてこんなにもややこしい人達なのでしょうか。

タグ:東晋

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