陳慶之vs東魏2

まず、陳慶之東魏の「4つの戦い」の時系列を整理してみましょう。
「楚州を落とした侯景7万の撃破」は陳慶之伝に「大同二年(536年)」とあり、「懸瓠・溱水・楚城の戦い」は列伝にある「中大通二年(530年)」から536年までの間の出来事となるでしょう。

『資治通鑑』巻一百五十四、梁紀十、中大通二年
是歲,詔以陳慶之為都督南、北司等四州諸軍事、南、北司二州刺史。慶之引兵圍魏懸瓠,破魏潁州刺史婁起等於溱水,又破行臺孫騰等於楚城。罷義陽鎮兵,停水陸漕運,江、湖諸州並得休息;開田六千頃,二年之後,倉廩充實。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同二年
九月,壬寅,東魏以定州刺史侯景兼尚書右僕射、南道行臺,督諸將入寇。
魏以扶風王孚為司徒,斛斯椿為太傅。
冬,十月,乙亥,詔大舉伐東魏。東魏侯景將兵七萬寇楚州,虜刺史桓和;進軍淮上,南、北司二州刺史陳慶之擊破之,景棄輜重走。十一月,己亥,罷北伐之師。



資治通鑑でも同様。ただ、注釈では「并、冀、殷、相の辺りに居た孫騰」と中大通二年(530年)時点で戦っているはずがないので時期はここではないとツッコまれていますね。
堯雄が豫州刺史となるのは534年の賀抜勝撃破後なので、同年の東魏成立以降なのはほぼ確実でしょう。(それ以前は河北で活動しています)

それとさらっと書かれていますが侯景を撃破する前に南北が遠征軍を動員しており、陳慶之が勝っていなければそのまま衝突していていたようですね。(資治通鑑の書き方は侯景の南征に対してが北伐軍を動員し、陳慶之が勝ったので中止となったというものです)


それでは堯雄伝の2つの戦いはどうでしょうか。

『北斉書』巻二十、堯雄伝
魏武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城。周旋征討三荊,仍除二豫、揚、郢四州都督,豫州刺史。元洪威據潁州叛,民趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,自稱豫州刺史,北應洪威。雄率眾討之,繼宗敗走。民因雄之出,遂推城人王長為刺史,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,侵擾州境。雄設伏要擊,生擒洪芝、當伯等,俘獲甚眾。梁司州刺史陳慶之復率眾逼州城,雄出與戰,所向披靡,身被二創,壯氣益厲,慶之敗,棄輜重走。後慶之復圍南荊州,雄曰:「白苟堆,梁之北面重鎮,因其空虛,攻之必剋,彼若聞難,荊圍自解,此所謂機不可失也。」遂率眾攻之,慶之果棄荊州來。未至,雄陷其城,擒梁鎮將苟元廣,兵二千人。梁以元慶和為魏王,侵擾南境。雄率眾討之,大破慶和於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州民上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。
潁州長史賀若徽執刺史田迅據州降西魏,詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是云寶等各總當州士馬,隨行臺任延敬並勢攻之。西魏遣其將怡鋒率眾援之,延敬等與戰失利。


『北史』巻二十七、堯喧伝、堯雄
魏孝武帝入關,雄為大都督,隨高昂破賀拔勝於穰城,仍除豫州刺史。元洪威據潁川叛,叛人趙繼宗殺潁川太守邵招,據樂口,北應洪威。雄討之,繼宗敗走。城內因雄之出,據州引西魏。雄復與行臺侯景討平之。
梁將李洪芝、王當伯襲破平鄉城,雄並禽之。又破梁司州刺史陳慶之,復圍南荊州。東救未至,雄陷其城。梁以元慶和為魏王,侵擾南境,雄大破之於南頓。尋與行臺侯景破梁楚城。豫州人上書,更乞雄為刺史,復行豫州事。
潁州長史賀若統執刺史田迅,據州降西魏。詔雄與廣州刺史趙育、揚州刺史是寶,隨行臺任祥攻之。西魏將怡鋒敗祥等,育、寶各還,據城降敵。

列伝では、堯雄賀抜勝や三荊の討伐の後に豫州刺史となり、「潁川の元洪威の反乱」による趙継宗などの反乱者を撃破し、李洪芝王当伯が侵攻して来ると迎撃して捕らえ、「陳慶之との戦い」があり、元慶和を南頓で破り、行台侯景と共にの楚城を破り、豫州の民が希望によりまた行豫州事となり、潁州長史賀若徽の反乱が起きると広州刺史趙育・揚州刺史是云宝・行台任祥と共に討伐に向かうも西魏怡鋒らに敗れたという流れです。

趙継宗らの討伐や李洪芝らとの戦いの後、元慶和との戦いや侯景の楚城攻撃より前に「陳慶之との戦い」×2が載っています。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
(二月)戊戌,司州刺史陳慶之伐東魏,與豫州刺史堯雄戰,不利而還。


『資治通鑑』巻一百五十七、梁紀十三、大同元年
五月,魏加丞相泰柱國。
元慶和引兵逼東魏南兗州,東魏洛州刺史韓賢拒之。六月,慶和攻南頓,豫州刺史堯雄破之。

どうやら「堯雄陳慶之撃退」は大同元年(535年)2月のようです。
同年6月に堯雄元慶和との戦い。

よって、「陳慶之の南荊州攻めと堯雄の白苟堆攻め」は2月~6月の出来事となるはずですが・・・。

『魏書』巻九十八、島夷蕭衍伝
(天平二年)二月,衍司州刺史陳慶之、郢州刺史田朴特等寇邊,豫州刺史堯雄擊走之。(中略)三年五月,豫州刺史堯雄攻衍白苟堆鎮,克之,擒其北平太守苟元曠。十月,行臺侯景攻陷衍楚城,獲其楚州刺史桓和兄弟。

堯雄が苟堆鎮を攻め、攻略し、苟元曠を捕らえたのは536年(天平三年)5月の出来事という情報があります。

堯雄伝の2度目の陳慶之への対応の記述の位置がおかしい?
記述では「後慶之復圍南荊州」とあるので、後にまた陳慶之に対処することになった戦いをまとめて載せたということなのでしょうか。
具体的な年月の記述の方が列伝の記述順よりも確度が大体勝るので、最も妥当な案。

それとも本当は「天平二年(535年)」5月の出来事だったものが、手違いにより翌年に挿入されたというパターン?
翌月に南頓まで取って返して元慶和を撃破する必要があるので、可能ですが慌ただしいスケジュールとなります。
とりあえず、「天平三年(536年)」説を優先して考えましょう。


陳慶之東魏の戦いの主な時系列は、以下の通り。
534年冬以降、「懸瓠・溱水・楚城の戦い」
535年2月、「堯雄の陳慶之撃退」
536年5月、「陳慶之の南荊州攻めと堯雄の白苟堆攻め」
536年10月、「楚州を落とした侯景7万の撃破」

タグ: 東魏 北斉 陳慶之

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