楊駿と蒯欽

『晋書』巻四十、楊駿伝
弘訓少府蒯欽,駿之姑子,少而相昵,直亮不回,屢以正言犯駿,珧、濟為之寒心。欽曰:「楊文長雖闇,猶知人之無罪,不可妄殺,必當疏我。我得疏外,可以不與俱死。不然,傾宗覆族,其能久乎!」

西晋の外戚楊駿の「姑子」は弘訓少府の蒯欽
「姑子」とあるので、楊駿の「父の姉妹の息子」が蒯欽となります。

蒯欽は若い頃から楊駿と親しかったものの、何度も楊駿に直言しており、楊駿の弟の楊珧楊済をヒヤヒヤさせていました。蒯欽自身は楊駿に遠ざけられた方がむしろ巻き込まれずに済むと述べていたようですが。

列伝では恵帝即位後に楊駿が大権を掌握したものの迷走していたという流れで、この記述が登場します。(次の文から楊駿誅殺の話)
資治通鑑でも290年の楊駿が大権を掌握して迷走している箇所でこの逸話を載せていますね。

『宋書』巻三十一、五行志二、金、詩妖
晉惠帝永熙中,河內溫縣有人如狂,造書曰:「光光文長,大戟為牆。毒藥雖行,戟還自傷。」又曰:「兩火沒地,哀哉秋蘭。歸形街郵,路人為歎。」及楊駿居內府,以戟為衞,死時,又為戟所害。楊太后被廢,賈后絕其膳,八日而崩,葬街郵亭北,百姓哀之。兩火,武帝諱;蘭,楊后字也。

また、その恵帝が即位した年に怪しげな文書が出現し、まもなく訪れる楊駿らの破滅を予見していたという怪異があったそうです。
「襄陽耆舊記」では、この怪異の解釈を蒯欽楊済に泣きながら解説したという逸話があります。

これがある程度正しいとすると、290年まで蒯欽は健在であり、楊氏と接点があったということになりますね。


問題は、「弘訓少府」の官。
「弘訓少府」は「弘訓太后」羊徽瑜(278年没)に関連する官(太后三卿)のはずでは?

『晋書』巻三、武帝紀、泰始九年
秋七月丁酉朔,日有蝕之。吳將魯淑圍弋陽,征虜將軍王渾擊敗之。罷五官左右中郎將、弘訓太僕、衞尉、大長秋等官。鮮卑寇廣寧,殺略五千人。詔聘公卿以下子女以備六宮,采擇未畢,權禁斷婚姻。

さらに弘訓宮の官は273年に廃止されています。

『晋書』巻三十三、王祥伝、王覧
五等建,封即丘子,邑六百戶。泰始末,除弘訓少府。職省,轉太中大夫,祿賜與卿同。咸寧初,詔曰:「(中略)其以覽為宗正卿。」頃之,以疾上疏乞骸骨。詔聽之,以太中大夫歸老,(中略)咸寧四年卒,時年七十三,諡曰貞。

ちなみに最後の弘訓少府は琅邪の王覧で、廃止と共に太中大夫に転任しています。

中文ウィキのように皇太后楊芷が弘訓宮を置いたとしない限りは、蒯欽が弘訓少府だったのは273年以前となります。
(資治通鑑の注釈でも弘訓太后に関連付けています)

そしてもし蒯欽は「弘訓少府」が最後の官としても、楊駿が外戚として台頭した276年以降(から誅殺の291年以前)に「既に引退していた」蒯欽の発言という逸話としても考えられます。

関連する過去のエピソードを時系列を無視して挿入することは正史でもあり、特に晋書は当時の官ではなく最後の官位や代表的な官位を載せることが珍しくありません。
(なので「273年以前の逸話」から「290年に弘訓少府以外の官だった時の逸話」まで様々な可能性はあります)


楊駿と昔馴染みのいとこ(外兄弟)蒯欽は、楊駿が出世して増長しても正論で諌め続け、後に蒯欽の見識通り楊駿は破滅したというのが本来の話かもしれませんね。

タグ:西晋

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