名族「弘農楊氏」の始祖は後漢の太尉楊震です。
つまり楊衆は楊震の曾孫。
楊震の子孫は楊秉(楊奉の兄)の系統が最も栄え、楊秉・楊賜・楊彪とさらに3代続けて太尉を出しています。
楊衆はそこまでの大物ではありませんでしたが、御史中丞となり、献帝の東遷に従って侍中を拝命、建安二年(197年)には「蓩亭侯」に封じられています。
楊衆のその後は不明。楊彪は曹操政権で一度失脚、後に引退し、その息子の楊脩も一時は重用されましたが最後は殺されています。
後漢の由緒ある名族でも次々と消えていく時代であり、楊衆も振るわずに終わった可能性は大いにあります。
父は楊文宗。母は天水趙氏。
(楊炳の先妻が趙氏、後妻が段氏)
その父の楊炳(楊文宗)は、後漢で四世で三公を出した一族の出身とあり、「蓩亭侯」の爵位を継承したともあります。
つまり間違いなく楊震の一族で、かつ楊衆の爵位を継承する立場にあったということです。
楊衆の(直系か養子を挟んだ)孫と思われます。
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西晋
楊震の少子に楊奉がおり、その楊奉の子に楊敷、そして楊敷の子に楊衆がいました。『後漢書』巻五十四、楊震伝
震少子奉,奉子敷,篤志博聞,議者以為能世其家。敷早卒,子眾,亦傳先業,以謁者僕射從獻帝入關,累遷御史中丞。及帝東還,夜走度河,眾率諸官屬步從至太陽,拜侍中。建安二年,追前功封蓩亭侯。
つまり楊衆は楊震の曾孫。
楊震の子孫は楊秉(楊奉の兄)の系統が最も栄え、楊秉・楊賜・楊彪とさらに3代続けて太尉を出しています。
楊衆はそこまでの大物ではありませんでしたが、御史中丞となり、献帝の東遷に従って侍中を拝命、建安二年(197年)には「蓩亭侯」に封じられています。
楊衆のその後は不明。楊彪は曹操政権で一度失脚、後に引退し、その息子の楊脩も一時は重用されましたが最後は殺されています。
後漢の由緒ある名族でも次々と消えていく時代であり、楊衆も振るわずに終わった可能性は大いにあります。
さて、西晋の武帝・司馬炎の皇后楊艶も「楊震らと同じ弘農華陰」の出身です。『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后
武元楊皇后諱艷,字瓊芝,弘農華陰人也。父文宗,見外戚傳;母天水趙氏,早卒。后依舅家,舅妻仁愛,親乳養后,遣他人乳其子。及長,又隨後母段氏,依其家。
后少聰慧,善書,姿質美麗,閑於女工。有善相者嘗相后,當極貴,文帝聞而為世子聘焉。
父は楊文宗。母は天水趙氏。
楊文宗の本名は楊炳。(唐で作られた)正史の晋書では避諱により「炳」などの文字が避けられたり改変されたりしています。『太平御覧』巻一百三十八、皇親部四、武元楊皇后
『晋書』
楊元后,父炳。言后相貴,故文帝為武帝娶之。
楊炳も趙氏も早卒。そのため、楊艶は幼い頃に母方の趙氏一族に育てられ、成長すると継母の段氏の家で暮らしました。『晋書』巻九十三、外戚伝、楊文宗
楊文宗,武元皇后父也。其先事漢,四世為三公。文宗為魏通事郎,襲封蓩亭侯。早卒,以后父,追贈車騎將軍,諡曰穆。
(楊炳の先妻が趙氏、後妻が段氏)
その父の楊炳(楊文宗)は、後漢で四世で三公を出した一族の出身とあり、「蓩亭侯」の爵位を継承したともあります。
つまり間違いなく楊震の一族で、かつ楊衆の爵位を継承する立場にあったということです。
楊衆の(直系か養子を挟んだ)孫と思われます。
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