「楊震と楊炳と楊駿」の続き。
「従妹」は通常なら「いとこ」であり、それぞれの父が兄弟という続柄。
時々、それぞれの父が従兄弟という「はとこ」の場合もあります。
楊芷の父は楊駿。
この3兄弟の字は「文長」「文琚」「文通」。
楊艶の父の楊炳の字は「文宗」であり、兄弟であっても自然な状況です。従兄弟でも字の文字を合わせたりするので、必ず兄弟とは限りませんが。
さて、北魏の「楊穎墓誌」には弘農楊氏に関する興味深い情報がいくつかあります。
その一つが本籍が「弘農・華陰・潼鄉・習仙里」であること。
少なくとも北魏の頃は「弘農郡の華陰県の潼郷の習仙里」が詳細な本籍地(郷や里)だったようです。
もう一つが、楊穎は「漢太尉震之十二世孫」で「晉尚書令瑤之七世孫」だったということ。
「瑤」は「珧」と同音だったためか、しばしば混ざっているのが見つかります。つまり、この「尚書令瑤」は「尚書令楊珧」のこと。
「楊震の十二世孫」と「楊珧の七世孫」が同じならば、楊震と楊珧の間に5世代、つまり楊震の曾孫の孫が楊珧ということになります。
よって楊震の曾孫が楊衆なので、「楊衆の孫が楊珧(とその兄弟達)」です。
楊炳は楊珧・楊駿らの兄弟か従兄弟なので、少なくとも祖父は同じ。
したがって、近い別系統からの養子の可能性もありますが、系図上は楊炳・楊駿・楊珧・楊済は楊衆の孫であり、楊炳は祖父楊衆の爵位を継承したということになりますね。
(この「養子の選択肢」は曲者であり、魏晋南北朝時代では死後10年以上経ってから家や爵位の継承者として同族の者が指名されることが見られるので、「本人が子供を残さずに死んでも系図上は後ろの世代がある」という状況もあります)
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西晋
武帝の二人目の皇后となった楊芷は先の皇后楊艶の「従妹」でした。『晋書』巻三十一、后妃伝上、武悼楊皇后
武悼楊皇后諱芷,字季蘭,小字男胤,元后從妹。父駿,別有傳。
「従妹」は通常なら「いとこ」であり、それぞれの父が兄弟という続柄。
時々、それぞれの父が従兄弟という「はとこ」の場合もあります。
楊芷の父は楊駿。
楊駿は弟の楊珧・楊済と共に西晋で権勢があり、「三楊」と呼ばれました。『晋書』巻四十、楊駿伝
楊駿字文長,弘農華陰人也。(中略)而駿及珧、濟勢傾天下,時人有「三楊」之號。(中略)駿弟珧、濟並有儁才,(中略)
珧字文琚,歷位尚書令、衞將軍。(中略)
濟字文通,歷位鎮南、征北將軍,遷太子太傅。
この3兄弟の字は「文長」「文琚」「文通」。
楊艶の父の楊炳の字は「文宗」であり、兄弟であっても自然な状況です。従兄弟でも字の文字を合わせたりするので、必ず兄弟とは限りませんが。
まあ、楊艶が楊駿を叔父と呼んでいることもあり、楊炳と楊駿は年の離れた兄弟とするのは十分妥当とは思いますね。『晋書』巻三十一、后妃伝上、武元楊皇后
及后有疾,見帝素幸胡夫人,恐後立之,慮太子不安。臨終,枕帝膝曰:「叔父駿女男胤有德色,願陛下以備六宮。」因悲泣,帝流涕許之。
さて、北魏の「楊穎墓誌」には弘農楊氏に関する興味深い情報がいくつかあります。
その一つが本籍が「弘農・華陰・潼鄉・習仙里」であること。
少なくとも北魏の頃は「弘農郡の華陰県の潼郷の習仙里」が詳細な本籍地(郷や里)だったようです。
もう一つが、楊穎は「漢太尉震之十二世孫」で「晉尚書令瑤之七世孫」だったということ。
「瑤」は「珧」と同音だったためか、しばしば混ざっているのが見つかります。つまり、この「尚書令瑤」は「尚書令楊珧」のこと。
「楊震の十二世孫」と「楊珧の七世孫」が同じならば、楊震と楊珧の間に5世代、つまり楊震の曾孫の孫が楊珧ということになります。
よって楊震の曾孫が楊衆なので、「楊衆の孫が楊珧(とその兄弟達)」です。
楊炳は楊珧・楊駿らの兄弟か従兄弟なので、少なくとも祖父は同じ。
したがって、近い別系統からの養子の可能性もありますが、系図上は楊炳・楊駿・楊珧・楊済は楊衆の孫であり、楊炳は祖父楊衆の爵位を継承したということになりますね。
(この「養子の選択肢」は曲者であり、魏晋南北朝時代では死後10年以上経ってから家や爵位の継承者として同族の者が指名されることが見られるので、「本人が子供を残さずに死んでも系図上は後ろの世代がある」という状況もあります)
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